300mの崖に宙吊りになった登山遭難者の遺体を回収する“前代未聞の作戦” 47人の自衛隊員がライフルと機関銃で撃ちロープを切断すると…――2024年読まれた記事

2025年5月3日(土)12時10分 文春オンライン


2024年、文春オンラインで反響の大きかった記事を発表します。社会部門の第3位は、こちら!(初公開日 2024/07/26)。



*  *  *


 その日、群馬県警の谷川岳山岳警備隊詰所では、朝早くから、遺体収容に出かける隊員が忙しく準備をしていた。時は1960年9月19日。谷川岳での遭難死者数が毎年のように30人を超え、大きな社会問題となり始めていたころである。


 出かける隊員を送り出した青山成孝隊員は、翌日の非番交代に備えて詰所の掃除や装備の点検などをしていた。そこに新たな遭難の一報が入った。



谷川岳の一ノ倉沢。右側の絶壁が衝立岩 ©森山憲一


「一ノ倉沢で転落事故が発生した模様」


 青山隊員はすぐに詰所を飛び出し、一ノ倉沢に向かう。途中で通報者と合流して、1時間半後には、早くも岩壁の基部にたどり着いた。


「あれ、人間じゃないか?」


 目の前には、標高差300メートルにおよぶ垂直の岩壁が突き立っている。これこそが、長いこと「登攀不可能」として日本の登山界で名を馳せた「衝立岩」である。難攻不落を誇った衝立岩は、この前年、1959年についに登られたばかりだった。


 青山隊員はその衝立岩に目を向けた。すると、岩壁の真ん中あたりに、不自然な赤い一本の線が見えた。よく見るとそれはザイル(登山用ロープ)である。その赤い線をたどって目線を下げていくと、その末端にはなにやら黒っぽい塊がぶら下がっている。


「あれ、人間じゃないか?」


 そこまでの距離は200メートルほど。人間のように見えるものの小さくてよくわからない。青山隊員はさらに近づいていった。


 岩場が険しすぎてもうこれ以上は近づけない、そこまで来ると、黒っぽい塊がはっきりと見えた。間違いない、人間だ。青山隊員らは大声で叫んだ。「オーーイ!!」


 赤いザイルにぶら下がった人間からは何の反応もなかった。ゆらゆらと動いてはいるが、虚空に宙づり状態になっていて、風で揺られているだけだった。すでに死んでいるに違いない……。


◆◆◆


 これが、谷川岳「魔の時代」を象徴する遭難事故であり、世界の山岳史上でも類を見ない事件の発見時の概要である。


 ザイルにぶら下がっていたのは、横浜の山岳会に所属するクライマー。空中にぶら下がっていた人のほかに、動きがないクライマーが上方にもうひとりいることもわかった。


 目撃者がいなかったため、彼らがどうしてそのような状況に陥ったのかは不明だが、登山届によれば、前日18日に入山しているようだった。なんらかの原因で転落し、ザイルに結ばれたまま死亡したのではないかと推測された。


 現代のクライミングの常識でいえば、それだけで死んでしまうことは考えにくい。ただし当時は、現在のようなクライミング装備はなく、クライマーはザイルを胴に直接結んで登っていた。宙づりになってしまったら、ザイルによって体が強く締め付けられ、ほどなく命を落としてしまうというのが常識だった。ふたりのクライマーはそのような状況に陥っていたのだった。


◆◆◆


「銃でザイルを切断して遺体を落とすのはどうだろう」


 翌日、ふたりが所属する山岳会の会員が谷川岳にやって来た。しかし現場は、前年に登られたばかりの難攻不落の岩壁である。救助活動は容易ではないことは彼らにはすぐにわかった。


 その夜、関係者一同で作戦会議が開かれた。どうやってふたりを収容するか。なにかいい方法はないか。


「銃でザイルを切断して遺体を落とすのはどうだろう」


 いろいろな方法が検討されるなかで、誰かがそんなアイデアを口にした。いやいや、でもそんなこと可能なのか。あまりにも突飛なアイデアだけに、具体的に話し合われることはなく、会議は結論が出ないままに終わった。


 ところが翌日21日の毎日新聞朝刊に「谷川岳遭難、自衛隊が銃撃でザイルを切って収容」という見出しの記事が掲載された。作戦会議に同席していた新聞記者が、未決定の事項を配信してしまったのである。


 関係者は、記者のとんだ勇み足に大いに憤慨した。ところがこの日、トップクライマーで編成された救助隊が、遭難者の収容に失敗していた。現場は想像以上に厳しいことがわかった。これは銃撃しか方法は残されていないのではないだろうか……。


 関係者の気持ちは銃撃に傾き、22日、ついに自衛隊に出動を要請することになった。銃撃でザイルを切断することなど現実に可能なのか、誰もわからないまま。


ライフル7丁に機関銃2丁、弾薬は2000発を持った47人の自衛隊員が…


 谷川岳の遭難者の手当を積極的に引き受け、「谷川岳のドクトル」として知られた石川三郎医師による望遠鏡での検死が行なわれると、早速23日に、47人の自衛隊員が現場に到着した。携行装備は、ライフル7丁に機関銃2丁、弾薬は2000発に及んだ。


 作戦決行は24日。一ノ倉沢全域を封鎖して登山者の立ち入りを禁止。山岳会や県警が先導して一ノ倉沢に入っていく。自衛隊員47人に加え、警察官40人、山岳会員30人。そのようすを離れて見守る遭難者家族や関係者が200人。さらに、テレビや新聞の記者・カメラマンが100人。世界の山岳史上でもかつてない事態が始まろうとしていた。


 9時15分。衝立岩の基部に位置した自衛隊の銃から1発目が発射された。関係者は固唾を呑んで見守るが、ぶら下がった遭難者は動かないまま。続いて、2発、3発と、ライフル銃がザイルめがけて発射される。銃弾が岩壁に当たって白煙が上がるのが見えるが、やはり遭難者の体は落ちてこない。


 ザイルの太さは1センチほど。それを百数十メートル離れた場所から撃ち抜こうというのだから、いかに自衛隊の狙撃手といえど容易なことではない。わずか数発で当てられるとは自衛隊も思っていない。


 さらにライフル銃が撃ち込まれる。何発撃ってもザイルは切れず、機関銃を取り出して集中的に銃弾が浴びせられた。それでも切れない。最終的に2時間をかけて1000発もの弾丸が撃ち込まれたが、ついにザイルは切れることはなかった。


 狙撃隊は射撃を休止した。1000発も打ち込んでもザイルに当てることができないのか。いや、当たった弾もあるはずだ。しかしザイルは空中に垂れているので、銃弾が当たっても弾いてしまうように力が逃げてしまっているのではないか。


 そう考えた狙撃隊は作戦を変更した。空中に垂れている部分ではなく、ザイルが岩壁に接地している部分をねらうのだ。力の逃げ場なく岩壁と銃弾で押しつぶすようにすれば切れるのではないか。


遭難者の体は100メートル以上落下して岩盤で激しくバウンドし…


 12時51分、新しい作戦で射撃が再開された。するとその10分後、再開後38発目でついにザイルは切れた。5日間以上、衝立岩にぶら下がったままだった遭難者の体は、100メートル以上落下して下の岩盤で激しくバウンドし、ようやく止まった。その光景はあまりにむごく、山岳会の仲間たちは目を背けたが、同時に安堵もした。


 25分後、98発目の弾丸でもうひとりの遭難者をつないでいたザイルも撃ち抜かれ、同様に落下していった。こうして約3時間、銃弾1000発あまりを使用した前代未聞の作戦は終了した。


 この事件はメディアで大きく報道され、社会に衝撃を与えた。すでに谷川岳では遭難死者が続出しており、これをこのまま放置していていいのか。そうした意見を後押しする大きな契機ともなり、登山を規制する「群馬県谷川岳遭難防止条例」の制定にもつながった。1967年に施行されたこの条例は、その前年に剱岳を対象として制定された「富山県登山届出条例」と並んで、行政が登山を規制する法令としては日本で初めてのものとなっている。


 1000発もの弾丸が撃ち込まれた衝立岩は、銃弾でボロボロになり、もはや岩登りなどできないだろうといわれていたが、その後も変わらず登られている。直径1センチにも満たない金属弾を大量に撃ち込んだところで、自然の造形には大した影響はなかったのである。


(森山 憲一)

文春オンライン

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