低い身分の者でも差別しなかった、老中・田沼意次の権力基盤形成術と人情
2025年5月14日(水)5時55分 JBpress
歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。その
念願の老中に就任
「拙者は今はこのような役職に就いてはいるが、何れは老職(老中職)にまでなる積もりである」と豪語したとされる田沼意次。その願望は何れ叶えられることになるのですが、彼の出世遍歴とはどのようなものだったのでしょう。
意次を大いに引き立てたのは、9代将軍の徳川家重でした。宝暦8年(1758)には、禄高1万石の大名となり、評定所出仕を命じられています。また、家重は臨終の際に、子の家治(10代将軍)に対し「意次は全き人である。ゆくゆく、心を添えて、召し仕えよ」と遺言したとのこと。よって、意次の重用は、新将軍にも受け継がれたのでした。
石高の加増(5千石加増)や、明和4年(1767)には御側御用人に任じられ、明和9年(安永元年)にはついに念願の老中に就任するのです。意次が出世をした大きな要因の1つは、側用人として、将軍の御前に侍っていたからでしょう。まだ側用人だった頃の意次の逸話として、次のようなものが残っています。
ある時、殿中にて、意次は老中の秋元涼朝(武蔵国川越藩主)とすれ違います。ところが意次は、しきたり通りの挨拶をしなかったそう。これに怒った秋元は、意次の同輩を呼びつけて、意次の無礼を咎めたといいます。意次は「用事に気をとられて廊下を急いでいたこともあって、つい欠礼してしまった」と秋元に詫びを入れたそうです。おそらくそれは本当のことだったのでしょう。
意次というと「賄賂政治」のイメージから傲岸不遜な人物との誤解があるかもしれませんが、彼が残した遺訓には「同族(一族)中には申すに及ばず、同席の衆、付合のある衆へは表裏なく、疎意(疎んじる気持ち)がないように心がけるべきである。どんなに低い身分の者でも人情をかけるべきはかけて、差別なきようにすること」との言葉があるのです。
さて、意次の「非礼」に怒った秋元ですが、老中職を辞めてしまいます。「意次の讒言を恐れて、病と称して出仕せず」との見解もあります。これが本当ならば、意次を叱りつけてみたものの、将軍の寵臣である意次が讒言するのではないかとの恐れを生じて、ついに辞任したことになります。意次の「権勢」が分かる逸話ではあります。
大奥にも人脈を作り、権力基盤を形成
10代将軍の徳川家治は、父・家重と比べたら「名君」といわれていますが、幕政を意次に任せ、自らは書画や将棋などの趣味に没頭したとされます。家治には、正室はおりましたが、後継となる男子がなかなか生まれなかったということで、家治の乳母であった松島は案じて、意次に相談を持ちかけたとのこと。2人(意次と松島)は共謀して、家治に側室を持つことを勧めるのです。
意次が家治の御前で、その事を言上すると、家治は「そなたには側室がいるか」と唐突な質問が。意次は「おりませぬ」と告げると、家治は「そなたも側室を持て」との命令が。そう勧められては断ることもできず、意次も将軍とともに側室を持ったとの逸話が伝来しています。意次は「表」だけでなく、大奥にも人脈を作り、権力基盤を形成していったのでした。
老中となった意次でしたが、当初、老中首座には松平武元(上野国館林藩主)がいました。将軍・吉宗、家重、家治と仕えてきたベテラン政治家です。
武元の人格は、方正にして厳しいものであり、意次もなかなか頭が上がらなかったとされます。武元に対し「あなたの領内には悪田が多い。将軍もあなたを尊重している。領地を替えて欲しいと将軍に請われては」といった者がいましたが、武元は館林藩の由来(5代将軍・綱吉は館林藩主。綱吉の甥で将軍の世子となった徳川綱豊の実弟・松平清武がその後、館林藩主となる)を説いたうえで「将軍から、館林から移れとの御命令があったとしても、私はこれを辞退する。土地が肥えているか否かは関係ない」と断言したとされます。
ある時、意次は加増の命を将軍より受けます。が、意次はこれを辞退しようとします(前述の武元の言動を意次も聞いていたのでしょう)。すると、武元が意次に「あなたの石高は5万石に満たない。かつて、徳川吉宗公は、5万石に満たない大名は、その功労によって加増して良いと仰せられた。一度、将軍の命令が出て、これを受けないというのであれば、それは将軍の過ちを公にするようなもの。謹んで、お受けなさるが良かろう」と伝達(前述の武元の発言とは矛盾しているようにも感じますが)。意次は涙を流して、加増を受けたとされます。武元が亡くなるまでは、意次は武元に遠慮して、思うように振る舞えなかったと記す書物もあります。
参考文献
・江上照彦『悪名の論理田沼意次の生涯』(中央公論新社、1999)
・藤田覚『田沼意次』(ミネルヴァ書房、2007)
・鈴木由紀子『開国前夜 田沼時代の輝き』(新潮社、2010)
筆者:濱田 浩一郎