タバコ・セクハラ・飲み会…。「昔はよかった」ばかりではない。『定年後のリアル』77歳の著者が振り返る、今では考えられない当時の常識

2025年5月23日(金)12時30分 婦人公論.jp


どこでもタバコを吸えた時代があった(写真提供:Photo AC)

文明が進み私たちの暮らしは便利になっているはずなのに、なぜか昔に比べて生きにくくなってきていませんか?ロングセラー『定年後のリアル』シリーズの著者・勢古浩爾さんが綴る「なんの変哲もない日々」は、地味だけどなんだか自由——。「あの頃はよかった」と徹底的に懐かしむエッセイ『77歳、喜寿のリアル:やっぱり昔は良かった!?』より一部を抜粋して紹介します。

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もちろん、現在のほうがいい部分もたくさんある


昔がいいことばかりだった、ということはありえない。「やっぱり昔はよかった」とは、芸術文化という場合の文化(通俗的には娯楽文化)に関して、いえることである。

もしくは、素朴な人間関係の記憶や、失われた郷愁として……。社会的関係(上下関係、男女関係など)や物の進歩については、断然、現在のほうがいいといわざるをえない。

現在がいいのは、人間関係が昔よりも寛容になったことだろう。パワハラやセクハラ意識が広まったことで、年齢差別、男女差別が昔よりは減った。

ばかなオヤジ社員たちだけが待ち望んでいる社員旅行や、居心地の悪い「飲み会」が減ったことはいいことだ。

公共マナーもよくなった。公共の場での喫煙は激減した。日本のGDPはドイツに抜かれて世界4位になったらしい。今年にはインドに抜かれ5位になるといわれている。

このことをいかにも一大事のように新聞やテレビは報じるが、いまさら騒ぐこともない。とっくの昔に日本は政治的・経済的には二流国になっているのだ。

GDPごときが4位になろうと、5位に落ちようと、われわれの知ったことではない(実際、知ったことではない)。

現代の日本社会で、昔よりよくなっているところ


そんなことよりも、われわれは気づいていないが、暮らしの細部で、例えばコンビニや店舗や空港などの公共のトイレが清潔できれいだということ、トイレットペーパーはつねに補充されているということなどではたぶん世界一、ということを知っておいたほうが、精神衛生上よっぽどいい。

世界のホテル業界では、日本人の観光客が行儀作法において世界一、という評価を得ている。マクドナルドの店内が世界中、日本みたいにきれいなわけではない。

スーパーやコンビニでの商品の種類の多さは充実している。電車は世界一の正確さで発着する。落とし物をすればかなりの確率で見つかる。路上に落ちているゴミはすくない。警察官はやさしすぎる。

日本人の美徳は、昔からつづいていることだ。なによりも、治安がよく、国民のあいだに礼儀正しさや気遣いがまだ残っている。

こういうことは、世界トップクラスかもしれない、と誇っていいのである。まあわざわざ誇ることもないけど。

あきらかに現在の日本社会は、清潔さや生活の安全性、人々の思いやりに関しては、昔よりよくなっているのである。

タバコ、セクハラ、肩もみ


わたしが会社に勤めたのは、1972年(昭和47年)から2006年(平成18年)までの34年間である。25歳から59.5歳までだった(定年退職、と書いているが、実際には定年より半年早かった自己都合退職だったのである)。

転職をしなかったから、知っている会社は、勤めた会社1社である。極小の会社だったが、他社と比較することなく(比較するまでもなく)、非常にいい会社だった、とほめちぎった。

しかし、それでも昔の会社だった。時代の限界はあったのである。いまにして思えば、仕事をする環境としては最善ではなかった。

わたしが会社に入った当初は、タバコは喫いたい放題だった。わたしも当然喫っていた。まだ社会全体がそういう風潮だった。

街中でも喫いたい放題である。いまでは信じられないだろうが、駅でも電車のなかでも喫煙はあたりまえ。

映画館でも上映中に煙がモウモウだった。地下鉄の電車内は記憶がないが、ホームでは喫っていた。

吸い殻はどこでも地面に捨てた。この状態があたりまえで、だれもこれがよくないとは思っていなかったのである。が、徐々にタバコの害がいわれ始めた。アメリカ経由だ。

タバコの箱に、喫煙は健康に害があると印刷されるようになり、電車では禁煙、映画館でも、つまり公共の施設では禁煙になった。

会社のなかでも、女子社員たちが、タバコの煙が彼女たちのほうに流れると、手で払う人が出てきた。

「まったく男たちは!」と、窓を開ける人も出てきた。さすがに、こちらもそれなりに気を遣うようにはなった。それでも、世の中から喫煙者が減るとは思えなかった。

それがいまや、喫煙者は20歳以上の約15%まで落ち込んでいる。日々の感覚ではもっと少ないように感じられる。むろん、いいことだ。やればできるのである。


セクハラという言葉は皆無だった(写真提供:Photo AC)

当時は「セクハラ」という言葉はなかった


当時はまだ、セクハラなんて言葉はなかった。会社のなかで、そういう言葉に該当する行為は、わたしの勤めていた会社では皆無だったといっていい。

しかし、どういうつもりか知らないが、女子社員の肩を気軽に揉むやつがひとりだけいたのである。急にうしろから近づいては、何人かの女子社員の肩を親しげに、声をかけながら揉むのだ。時間にして、数秒だったか。

わたしより1、2歳下の男だったが、わたしより上の役職だったと思う。わたしをクン付けで呼んでいたから。かれは女子社員に嫌われてない、と思ってたのだろう。好かれている、とは思わなかっただろうが。

当時、女子たちにもこういう、親しみを装った行為を、無下に拒絶できない雰囲気があった。うまく切り抜ける「大人の対応」(なにが大人だ)が求められたのだ。

こういうことをする男も、そういう雰囲気を見越して、軽い冗談に見せかけて女の体に触るという意識があったにちがいない。

わたしは、なんだこいつは、なんのつもりだ、と思ってはいたが、公然とその行為を咎めることもなかった。いまなら立派なセクハラである。

※本稿は『77歳、喜寿のリアル:やっぱり昔は良かった!?』(草思社)の一部を再編集したものです。

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