北の富士「最初の晩から泣いていましたよ」。出羽海部屋に入るべく北海道を発つも上野に到着した途端アクシデントが…藤井康生に語った入門秘話

2025年5月25日(日)6時30分 婦人公論.jp


(写真はイメージ。写真提供:Photo AC)

今年も大相撲五月場所が盛り上がりを見せています。そんななか、「今の十両や幕下以下を見渡すと、のちの横綱や大関を期待したくなるような若い力士が次から次へと出現しています」と話すのは、NHKで1984年から2022年まで、その後ABEMAで今も実況を担当している元NHKアナウンサー・藤井康生さんです。そこで今回は、藤井さんの著書『大相撲中継アナしか語れない 土俵の魅力と秘話』から一部引用、再編集してお届けします。

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北海道出身の元野球少年は話術の達人となる


北の富士さんを語れば1冊の本になるぐらい、皆さんにお話ししたいことは山ほどあります。話の広がりは、まさに芸術です。

しかも北の富士さんが語る昔話には、その情景を浮かびあがらせる技があります。ご本人が、おそらく意識をしない中での技能です。ここでは北の富士さんの入門の頃の話をします。

謙遜家です。冗談でしか偉そうなことは言いません。まだ北の富士さんが九重親方として、千代の富士や北勝海の師匠だった頃です。

私はある時、北の富士さんの生い立ちから現在までの物語を読んでいました。そこにはこんなことが書いてありました。

〈中学時代は軟式野球部でした。卒業が近くなり、北海道の野球の名門校、北海高校や、旭川南高校などいくつもの高校から誘いがありました〉。その話を北の富士さんに向けたことがあります。

野球もやりたかったけど、素質がないとわかっていた


藤井「相撲ではなく、野球の道に進む気持ちはなかったのですか?」

北の富士「野球もやりたかったけど、素質がないとわかっていたからね。足が遅かったんだよ。鈍臭いというのかな」

藤井「えっ!? 本当ですか? 初めて聞きました」

北の富士「速そうに見えるでしょ?」

藤井「相当速そうですよ」

北の富士「走るのが好きじゃないし、ベースランニングも大嫌いだった」

藤井「それでも4番でエースだった?」

北の富士「エースなんてなったこともないよ。球は速いんだけど、ストライクが入らないんだから……」

藤井「でもいくつもの高校からスカウトがあったと聞きますよ?」

北の富士「ないないない。それも全部作り話だよ」

多分に謙遜は入っていると思いますが、これが事実ならば私の読んだ書物が眉唾になってしまいます。この先も、北の富士さん自身の語りで事実を並べてみます。

東京にもいい人がいると思った


昭和32(1957)年の年明け早々、北海道旭川を発ち函館に向かいます。「旭川の駅で見送られたときは、ジーンとくるものがあったね。でも、またすぐ帰るって内心思っていたから……」。そこから、青函連絡船です。「いやもう、揺れたのなんのって、死ぬと思ったね。冬の海は荒れるんだよね」

船酔いでふらふらになりながら、青森から列車に乗って上野へ。同年1月7日の早朝、上野駅に到着しました。ここでアクシデントが待っています。

北の富士「間違えて、上野駅の動物園口のほうに降りてしまった。少し坂があって、そこですってんころりんですよ。おふくろに持たされた3つの大きな袋があってね。中には小豆がぎっしり入っている。旭川からお土産用に担いできた小豆でね。ひとつは出羽海部屋に、ひとつはスカウトしてくれた千代の山関に、もうひとつは東京でこれから世話になる人に、ってことでね。転んだ途端に、一袋がバーンとはじけて、坂に散らばってしまった。当時、小豆は赤いダイヤモンドといわれていましたよ。貴重だったんですよ。途方に暮れたよね」

藤井「雪でしたか?」

北の富士「いや、東京は全く降っていなかった。下駄に金具を打って来たら、アスファルトの上で滑っちゃった。それでも、通りすがりの人や通勤の人が小豆を集めてくれて……。最後に残ったおじさんが『にいちゃん、背が高いな。相撲に行くのか?』って。学生服に下駄だから、そう思ったんでしょうね。『そうです』って答えたら、『名前は何ていうんだ?応援してやるよ』って言ってくれた。ありがたかったねえ。東京にもいい人がいると思った」

そして、出羽海部屋に向かいます。

千代の山関の体を見て驚いた


北の富士「部屋に着いて『ごめんください』って言ったら、それはもうデカい人がぬーっと出てきた。後で知ったけど、前の年に入門した風ヶ峯(かぜがみね)(当時序二段)って兄弟子だった。背が2mぐらいはあった。

びっくりしたよ。当時、俺は1m78cmだったけど、田舎にいたときは俺より大きい人はほとんどいなかったからねえ。すぐ帰りたくなった。これはえらいところ来たなってね。でも逃げるわけにいかない。


(写真はイメージ。写真提供:Photo AC)

『千代の山関に会いたい』って言うと『千代の山関は、ここではなく自宅にいる』と言って案内してくれた。そこでまた二度目のびっくり。応接間で待っていたら風呂上がりの千代の山関が、髪の毛はバーッと洗い髪でね、腰巻きを巻いてね、上半身裸で現れた。

北海道で会った千代の山関は痩せてガリガリに見えたんだよね。それがね、筋肉質だったんだよ。その体を見たときは驚いた。顔もすごいしね。今度こそ、もう帰ろうかと思ったね。ほんとに。驚いたの何のって」

北海道を毎晩思い出していた


藤井「出羽海部屋での生活には、すぐに慣れましたか?」

北の富士「北海道を毎晩思い出しましたよ。食べる順番がやっと回ってきたら飯もないし、寝るところも油くさい汚い布団でね。稽古場の上がり座敷の板の間に寝かされて寒くてねー。もう最初の晩から泣いていましたよ。

やはり、生まれ育った北海道の楽しいことばかりが目に浮かぶよね。夏は川で泳いで冬は山でスキー。勉強はせず遊んでばかりいたから楽しかった。それを思い出すと帰りたいよ。歩いてでも帰りたい。でも海があるから無理だよね。東京の相撲部屋生活では遊べないと思うとつらかったねえ。まあ3〜4年経ったら、少し遊びを覚えてきたけどね(笑)」

北の富士さんが初めて上京した日、昭和32(1957)年1月7日は、実は私の誕生日です。北の富士さんが上野駅に到着したのが早朝でした。私も、その日の早朝に岡山県の児島という田舎で生まれました。

北の富士さんに初めてその話をした時、「えっ!?そうなの? へー、奇遇だねえ。縁があったんだねえ」。その言葉も忘れません。

※本稿は、『大相撲中継アナしか語れない 土俵の魅力と秘話』(発行:東京ニュース通信社、発売:講談社)の一部を再編集したものです。

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