3万円を手渡し「頑張って来いよ」。破天荒すぎる父が中学生だった城彰二に課した極貧サバイバル生活

2024年5月28日(火)21時5分 All About

トップアスリートが「どんな親のもとで育ったのか」、そして「わが子をどんな教育方針のもとで育てているのか」について聞く連載【アスリートの育て方】。元サッカー日本代表の城彰二はどのような両親のもとで、どう育ったのか、話を聞いた。

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23歳以下のサッカー日本代表が、パリ・オリンピックの最終予選を兼ねたアジアカップで優勝を飾り、8大会連続のオリンピック出場を決めた。
今ではすっかり「出るのが当たり前」になったオリンピックだが、ほんの30年ほど前まで、それは日本サッカー界にとってはるか遠い夢の舞台だった。
1968年のメキシコ大会で銅メダル獲得の快挙を成し遂げてから四半世紀以上もの間、1度も予選を突破できなかった日本が、その重い歴史の扉をこじ開けたのが、1996年のアトランタ・オリンピック。28年ぶりの出場を決めたチームは、本大会でも強豪ブラジルを破る“マイアミの奇跡”を起こし、大きな話題を呼んだ。
前園真聖中田英寿、川口能活らとともに、当時のチームで中核を担ったのが、“エースのJO”こと城彰二だった。
その後、日本が初出場を果たした1998年フランス・ワールドカップの大舞台にも立った城は、クラブレベルでもジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド市原・千葉)、横浜マリノス(現横浜F・マリノス)、さらにはスペインのレアル・バリャドリードなどで中心選手として活躍。2006年に現役を引退するまで、得意のヘディングを武器にゴールを量産し続けた。
では、この日本サッカー史に名を刻む偉大なストライカーは、どのような両親のもと、いかなる環境で育ったのだろうか。本人が語ってくれたその幼少期は、ドラマや小説の題材にもなりそうなほど苛烈だった。

職人気質の父のスパルタ教育

城彰二は1975年6月17日、北海道室蘭市で生まれた。30代にしてこの地で土木建築会社を立ち上げた職人気質の父は、初めて授かった長男を甘やかすことなく、とにかく厳しく育てた。
「もともとは鹿児島の人なので、まあ男が強いというか(笑)。時代も時代でしたけど、言葉よりも先に手が出るような父親でしたね。食事中にうっかり鼻歌でも歌おうものなら、すぐに灰皿が飛んできましたから」
3人兄弟で次男とは6つ、三男とは8つも歳が離れている。ならば幼い頃は1人っ子のように猫かわいがりされてもおかしくなさそうだが、父には子育てに関してモットーがあったようだ。
「子どもを子どもとして見ない。1人の人間として育てるという考え方があったみたいで、だから毎日叱られてばかりでした。例えば、『タバコを持ってこい』と言われて、タバコだけ持って行ったらバチーンと殴られる(苦笑)。『これでどうやって吸うんだ?』と。それでライターを持って行くと、今度は『灰皿がないだろ』ってまた殴られる。要するに人に対して気遣いができないとダメで、もっといろんなことを考えながら行動しろとはよく言われましたね」
スパルタの父のもとでも城が明るくのびのびと育ったのは、北海道出身らしく大らかな性格だった母の存在があったからだろう。母親は自身が経営する旅館を女将として切り盛りし、一家もその一角で暮らしていたのだが、人の出入りが激しい環境では「人見知りになっている暇もなかった」という。

「サッカーでご飯を食べられるようになる」という父との約束

そんな城が最初に出会ったスポーツは、サッカーではなく野球だった。
「僕が生まれる前、父親はどうしても女の子が欲しかったみたいなんです。それでまだ小さい頃は髪にリボンなんか付けられていたんですけど、そのうちに将来はプロ野球選手にしたいと思うようになったらしくて(笑)。物心ついた頃には野球をやっていましたし、小学校の運動会に原(辰徳)選手の8番のユニフォームを着て出たくらい大好きでしたね」
才能もあった。地域の少年団で小学3年生までプレーし、4年生からはリトルリーグのチームに誘われ、そこで本格的に野球に取り組んだ。本人も、そして父親もこのまま野球の道を進むと思っていたはずだが、しかし人生は分からない。転機は小学4年生の昼休み、たまたま遊びでやっていたサッカーがきっかけだった。
「そこでサッカー部の先生に声を掛けられたんです。たぶん背が大きかったので目を引いたんでしょうね。もちろん野球をやっているからと断ったんですが、3日連続で地元の少年団(室蘭中島旭ヶ丘サッカー少年団)に誘われて。最終的には9番のユニフォームを持ってきて、『これをお前にやるから一緒にやらないか』と。それがカッコよかったので、『やります!』って即答しちゃいました(笑)」
問題は、すっかりプロ野球選手にさせる気になっていた父親をどう説得するか。言い出せなかった城は、1カ月ほど必死で野球と掛け持ちしながらごまかし続けたという。
「さすがに限界がありますよね。いい加減にバレると思って、正直に『サッカーをやりたい』と言ったら、案の定殴られました(笑)。だけど反抗心もあったのかな。それでもサッカーをやると言い張ったら、父親もあきれて『勝手にすればいい、その代わり俺は一切応援しないからな』って」
そう言われて、城も意地になった。「サッカーでご飯を食べられるようになる」と約束し、自分が活躍することで、いつか父を振り向かせてやろうと心に誓うのだ。

人生を変えた決勝ゴール

だが、何といってもサッカーはずぶの素人だ。学生時代に陸上選手だった母の血を引いて運動神経抜群だった(小学校のマラソン大会はいつも1位)とはいえ、最初は球拾いばかり。のちに知ることになるのだが、この室蘭中島旭ヶ丘サッカー少年団は、横浜マリノスなどでプレーした野田知(さとる)さんを輩出するなど、地元では強豪として有名なクラブだった。
「せっかく9番をもらったのに、試合には全然出られない(笑)。ただ、今振り返れば良かったと思うんですが、当時の監督は『基礎がなければ何もできない』という方で、球拾いを卒業した後も、延々2時間パス交換とか、基礎練習ばかりやらされましたね」
ドイツにいた知人からサッカーのビデオを取り寄せたり、サッカー雑誌を読み込んで蹴り方を勉強したりと、そんな地道な努力が幸運を呼び込むのは、6年生の最後の大会だった。地区大会では全く出番のなかった城だが、全道大会に勝ち上がったチームのエースがけが、二番手の選手も風邪を引いて、お鉢が回ってくる。そして、その決勝戦でなんと決勝ゴールを奪ってしまうのだ。
「奇跡のゴールですよ(笑)。相手の選手がバーンって当たってきて、怖いから思いっきり蹴ったら、それが25メートルくらい飛んで入っちゃった」
この公式戦初ゴールが、城の向上心に火をつけた。小学校を卒業後は1度地元の中学校に進学したものの、「もっと上のレベルでやりたい」と考えるようになる。当初はサッカー王国・静岡の学校を目指したが、全道大会優勝で多少の歩み寄りを見せていた父に相談した結果、親戚のいる愛知県の中学へ転校することが決まる。

中学時代の苛烈なサバイバル生活

ただ、ここからが破天荒な父らしい。寮のあるような私立校に転校させるわけでも、一家そろって愛知に引っ越すわけでもなく、中学1年生の城をたった1人で名古屋市内に借りたマンションに住まわせ、公立中学(名古屋市立日比野中学)に通わせたのだ。
「エアチケットと3万円が入った封筒、それからマンションの住所が書かれたメモだけ渡されて、頑張って来いよって(苦笑)。空港から熱田区のマンションまで普通は1時間半くらいで着くんですが、今みたいにスマートフォンもないので、結局6時間くらいかかりましたね」
さらに過酷なのはここからだった。炊事、洗濯全て自分でやらなくてはならないが、これまで自炊などしたことがない。最初はマンションの1階にあった中華料理屋で食事をしていたが、当然あっという間にお金は尽きる。しかも学校は給食ではなく、弁当だった。
「義務教育の中学までは、公立に通うなら親との同居が条件なので、父親からは『絶対に1人暮らしだとバレるなよ』と言われていました。だからご飯が食べられなくても誰にも相談できないし、次の仕送りが来るまで3、4日水だけ飲んで耐えていたこともありましたね。仕送りと一緒に母親からの手紙も入っていましたが、返事を出すくらいならそのお金でパンを買ったほうがよかった。あとで聞いたら、父親から『手助けはするな、1人でやらせろ』って言われていたらしいです」
ソースやマヨネーズをなめて数日を過ごしたこともあった。空腹に耐えかねてスーパーの廃棄食品用のごみ箱に手を伸ばしたこともあった。そんな生活から脱するため、考えた末に城少年は近所の販売店に頼み込み、新聞配達のアルバイトを始める。毎朝4時に起きて、徒歩で1日500部を配り歩いた。どれも、育ち盛りの中学生の話である。
「サッカーがどうのよりも、まずは今日1日をどう生きるか、でしたね。ただ、どんなに苦しくても道を逸れるようなまねだけはしなかった。やっぱりサッカーが好きだし、せっかくのチャンスを潰してしまうようなトラブルだけは絶対に起こしちゃいけないって、子どもながらに考えていましたね」
転校先の中学はレベルが高く、最初はついていくのがやっとだった。しかし、城の身体能力の高さを見抜いた監督から、「お前はヘディングを磨け」と言われ、来る日も来る日もおでこの皮がむけるほどヘディングの練習ばかりしているうちに、それがかけがえのない武器になる。入部から2、3カ月が過ぎた頃には、愛知県のトレセン(各地域から選抜された選手たちにより良いトレーニング環境を与える強化育成の場)から声が掛かるようになった。

強制送還先は、なぜか鹿児島。父は「バレたな」

学校から呼び出されるのは、自信を深めつつあった中2の夏だった。
「ご両親のもとに帰りなさいって。強制送還ですよ(苦笑)。ここでもっともっとうまくなれると思っていた矢先だったので、本当にショックでしたね」
しかも強制送還先は室蘭ではなく、なぜか鹿児島だった。体調を崩した父方の祖母の面倒を見るため、城には知らせず、いつの間にか一家は鹿児島に移り住んでいたのだ。
「本当に島流しですよ。何が何だか分からないまま飛行機に乗って、鹿児島空港に着いたら迎えに来ていた父が一言、『バレたな』ですからね(苦笑)」
もちろん鹿児島でもサッカーを続けるつもりだったが、転校した姶良(あいら)市立加治木中学のサッカー部は部員が13人ほどしかいない弱小で、そのほとんどが練習中も学校支給の白い運動靴と体操服といういでたち。絶望した城は、父親に「もうサッカーを辞めたい」と申し出る。
「またぶん殴られましたよ(笑)。お前は約束を破るのか? 環境のせいにしてプロになることを諦めるのか? って。そう発破をかけられて、ここで自分ができるだけのことをやってみようって、もう1度火をつけてもらった感じでしたね」

「世界に羽ばたけ」父が決めた鹿実への入学

幸運だったのは、チーム内に「横山くん」という、ただ1人ずば抜けてうまい同級生がいたことだ。「この子と一緒にやっていけば、何とかなるかもしれない」との見立て通り、3年生の鹿児島県大会では、俊足ウイングの「横山くん」のセンタリングを城が得意のヘディングで決める黄金パターンで勝ち上がり、なんと優勝してしまうのだ。もちろん同校史上初の快挙。鹿児島代表として出場した九州大会は早期敗退となったが、それでも城彰二の名は一気に広まり、世代別の日本代表候補にも選ばれるようになる。
進路を決める頃には、帝京の古沼貞雄監督、国見の小嶺忠敏監督(いずれも当時)といった高校サッカー界の名将たちが、わざわざ実家まで足を運んでくれた。城自身は「カナリア色のユニフォームと長髪に憧れて」帝京に行きたかったそうだが、しかしすでに彼の進学先は、地元の強豪・鹿児島実業(鹿実)に決まっていた。決めたのは、父だ。
「なんの相談もなく、勝手にですからね。さすがに反発しましたけど、『この地元・鹿児島から世界に羽ばたけ』って。まあ、僕の地元じゃないんですけどね(笑)」
鹿実行きの決め手になったのが、城にとっては「神様みたいな人」だった2歳上の前園真聖からの勧誘電話だというのは有名な話だが、それが鹿実の松澤隆司監督(現総監督)に渡されたメモ書きのメッセージをそのまま読んだものだったというのも、よく知られたエピソードだ。
こうして進学した鹿実で、さらに名声を高めていく城。海外でプロになることを真剣に考え、父親の勧めで英会話教室にも通っていたが、そんな折、高校3年生だった1993年にJリーグが発足する。日本でプロになる道が、城親子の前に突如として開けた。
城彰二(じょう・しょうじ) プロフィール
1975年6月17日生まれ。北海道室蘭市出身。鹿児島実業高時代から名をはせ、卒業後の1994年、ジェフユナイテッド市原(現・ジェフユナイテッド千葉)に入団。1997年に移籍した横浜マリノス(現横浜F・マリノス)でも中心選手として活躍し、2000年1月、スペイン1部レアル・バリャドリードへ。翌年に横浜へ復帰し、その後ヴィッセル神戸、J2の横浜FCに在籍。1996年にはアトランタ・オリンピックに出場し、「マイアミの奇跡」と呼ばれるブラジル戦の勝利に貢献。A代表のエースとして1998年フランスW杯にも出場した。2006年12月の引退後は、サッカー解説者をメインに、2013年秋に開校したインテルアカデミー・ジャパンのスポーツディレクターや、故郷・北海道の社会人チーム「北海道十勝スカイアース」の統括ゼネラルマネージャーなど、幅広い分野で活躍する。また、YouTube『JOチャンネル』のパーソナリティーとしても人気を博す。
この記事の執筆者:吉田 治良 プロフィール
1967年生まれ。法政大学を卒業後、ファッション誌の編集者を経て、『サッカーダイジェスト』編集部へ。2000年から約10年にわたって『ワールドサッカーダイジェスト』の編集長を務める。2017年に独立。現在はフリーのライター/編集者。
(文:吉田 治良)

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