西郷隆盛を起用した島津斉彬、彼らによる将軍継嗣問題を有利に運ぶための工作とは?

2024年6月12日(水)6時0分 JBpress

(町田 明広:歴史学者)


西郷隆盛と橋本左内

 安政2年(1855)10月9日、老中首座が阿部正弘から堀田正睦へ交替した。斉彬は、驚愕すると同時に、「溜間ヨリ井(井伊直弼)等の内、閣中ノ儀色々申候故」(松平春嶽宛、10月26日)と、溜問詰の井伊直弼らが堀田を送り込んだのではないかと疑心を抱いた。

 堀田は開明派で、攘夷を唱える徳川斉昭とは疎遠であった。その斉昭の実子・慶喜を推す一橋派にとっては、回避すべき人事に映ったのだ。その後も阿部は実権を掌握したが、安政4年(1857)6月17日に体調を崩して逝去した。9月には、阿部に罷免された南紀派の上田藩主松平忠固が老中に復帰しており、一橋派の重鎮・阿部の死は同派にとって大打撃となったのだ。

 阿部の急逝によって、一橋派は手詰まりとなったが、閉塞感を打破して活路を見出すため、斉彬は近衛忠煕・松平春嶽・徳川斉昭・伊達宗城らとの連携をより密にした。しかし、藩主という立場上、自由に動けないため西郷隆盛を起用したのだ。西郷は水戸藩士藤田東湖、越前藩士橋本左内らと親交し、水戸藩や越前藩との連絡掛に任じた。

 安政4年10月1日、斉彬は西郷を江戸詰とし、大奥工作と越前藩への協力を命令した。12月6日、西郷は江戸に到着し、2日後には越前藩邸を訪ね、斉彬から春嶽に対する、西郷を家臣同様に心置きなく大奥対策などで使役することを懇請する書簡をもたらした。

 12月8・13日の両日、西郷は橋本左内と会談して「橋公行状略記」(平岡円四郎が慶喜の業績をまとめて書いたものを、左内が体裁を整えたもの)を大奥で配布し、慶喜の継嗣を実現する策略(左内は「秘策」と表現、村田氏寿宛書簡、12月27日)を決定した。原作・平岡、監修・左内、広報・西郷という関係である。

 なお、西郷は斉彬から具体的な工作指示は受けておらず、左内による工作構想に連なったと言えよう。12月14日に西郷・左内の間で書簡が3通往復し、左内から西郷に「橋公行状記略」が送付された。西郷による、大奥工作が始まる。


斉彬・西郷による幕府への周旋活動

 安政4年12月25日、斉彬はハリスの出府、通商条約の審議や南紀派の動向といった情勢変化に着目し、幕府に建白書を提出した。この中で、将軍継嗣は血統が重要であるとしながらも、このような時勢であるため、年長の継嗣の方が天下の人心を収斂できると述べ、その点で慶喜は器量もあり、年輩でもあり、人望に叶う人物であるとして、強く慶喜を継嗣として推薦した。

 また、同日に斉彬は老中堀田正睦に書簡を発し、慶喜は実父斉昭とはまったく似ても似つかない人物であり、この点は不遜ながら請け負いたいと伝える。斉昭を嫌い、慶喜が新将軍になった場合、斉昭が口出しをしてくるのではと恐れる幕閣や大奥への配慮も示した。このように、斉彬は積極的に慶喜擁立を企図したのだ。

 さて、西郷の大奥工作であるが、左内宛書簡(安政5年(1868)1月19日)によると、篤姫・生島(大奥女官)・小の島(薩摩屋敷老女・篤姫侍女)に働きかけ、大奥工作を開始した。篤姫らから家定生母の本寿院の姉である本立院、また幕医戸田静海へ慶喜が継嗣になる周旋を依頼したことを伝えた。この際、「橋公行状記略」が使用されたのではなかろうか。

 2月10日には、西郷は越前藩士中根雪江から、斉昭の朝廷の実力者である鷹司政通宛書簡を預かり、小の島から生島に託して大奥に広めた。斉昭が通商条約を容認していることを入説して、斉昭が幕府の意向に沿って朝廷工作をしていることを喧伝し、斉昭アレルギーを少しでも緩和しようと試みたのだ。

 しかし、事は順調に運ばなかった。2月27日、西郷から中根に大奥(小の島)密書がもたらされた。そこには、慶喜擁立への家定自身の猛烈な拒否反応があり、本寿院も慶喜継嗣の場合は自害すると家定を脅迫しており、さらに斉昭謀反の噂すらあることが記載されていた。西郷ルートによる大奥工作は、事実上、失敗に帰したのだ。家定・本寿院の慶喜嫌悪は、一橋派の思惑を大きく凌駕するレベルに達していた。


堀田老中の上京と一橋派の挫折

 安政5年2月、老中堀田正睦は岩瀬忠震らを従え、通商条約の勅許獲得のために自ら上京した。大奥工作が困難を極める中、春嶽は継嗣問題を通商条約締結の勅許と絡めて、解決しようと模索した。その結果、安政5年1月に橋本左内を京都に派遣したのだ。そして、三条実万・青蓮院宮(中川宮・朝彦親王)らに通商条約の勅許および慶喜を将軍継嗣に推す内勅の降下を働きかけた。

 斉彬も内勅降下を願う書状を近衛忠煕・三条に送付し、協力を要請した。西郷も近衛宛ての篤姫の書状を携えて入京したが、南紀派・井伊直弼も堀田の交渉を支援するため、腹心の長野義言を京都に派遣した。長野は朝廷が一橋派に傾く事実を逆転するため、関白九条尚忠を篭絡して南紀派への転換に成功した。

 関白九条尚忠は、幕府に委任するという勅栽案を起草したが、岩倉具視らが画策した廷臣八十八卿列参事件(3月12日)といった廷臣による反対行動に後押しされた孝明天皇は、条約勅許を拒否するに至った。将軍継嗣に関する内勅は、堀田老中に下賜されたものの、慶喜を将軍継嗣とする3条件「英明・人望・年長」は、九条関白によって削除された。ここに、内勅降下を画策した斉彬ら一橋派の策略は頓挫したのだ。

 次回は、将軍継嗣問題の決着の顛末と斉彬の率兵上京に向けた動向、そして斉彬の最期について、その実相を紐解くことで本シリーズの最後としたい。

筆者:町田 明広

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