中岡慎太郎の薩長同盟における役割とは?薩長融和推進の初期段階で起こった西郷隆盛の下関への訪問問題
2024年7月17日(水)6時0分 JBpress
(町田 明広:歴史学者)
中岡の上京と西郷来関問題の発生
慶応元年(1865)5月16日、征夷大将軍徳川家茂は長州再征のため進発した。大久保利通の上京が決定していたが、小松帯刀・大久保・西郷隆盛が不在の京都では、将軍の進発にあたって、薩摩藩の家老島津伊勢および岩下方平を中心とする在京要路は大きな不安を抱いていた。
岩下は4月30日段階で、大久保・西郷に対して自分たちの手に負えないと、至急の上京を要請していたが、進発が開始されると待ったなしの心境に追い込まれた。よって、5月24日、岩下らは帰藩して小松・西郷らの上京を促すため離京した。
なお、中岡慎太郎・土方久元(土佐藩脱藩浪士、五卿従者)、福岡藩士大藤太郎、長州藩士泉源蔵らを同伴した。これは、西郷に上京の途中で下関に立ち寄り木戸孝允と面会させ、じっくりと今後の見込みを付け、両藩が同心して協力することに大いに尽力したいと、中岡と土方が薩摩藩の在京要路に迫った結果であったのだ。
そもそも、これは中岡が4月30日、下関で木戸と会談して薩長融和を積極的に説き、それに対して木戸の反応が必ずしも悪くなかった事実が反映したものであろう。中岡は既に薩長融和に向けた薩摩藩の動向を熟知しており、木戸の藩政復帰を大きな好機として捉えていたことは想像に難くない。
中岡らの提案に対し、島津伊勢・岩下らも賛同している。しかし、岩下の帰藩目的は、あくまでも将軍進発に対応するための小松・西郷らの上京であり、そもそも、中岡らの提案を許可できる立場になく、真摯に受け止めたとは言い難い。こうした背景の下に、「西郷すっぽかし事件」が起こったのだ。
土方による木戸に対する周旋
土方久元は、慶応元年閏5月3日から下関に滞在し、6日には木戸孝允と面談を果たした。土方は木戸に対し、西郷隆盛が鹿児島から上京する際に、下関に立ち寄る手はずになっている。長州藩においても、腹蔵なく薩摩藩と相談をして、これまでの経緯を超えて国家のため、薩長融和のために尽力して欲しいと申し入れたのだ。
木戸の反応は、残念ながら明らかに出来ない。しかし、木戸は7・8日を含め3日連続で土方と会談している事実から、大いに乗り気であったことがうかがえる。
土方は、薩長和解がようやくまとまり、自分の用は済んだとして、五卿への復命のためとの理由を述べ、5月9日には下関を出発した。しかし、土方の行動には疑問が残る。西郷が早晩到着する段階で、薩長融和がまとまったとするのは時期尚早である。土方の急な出発の真意は詳らかにできないが、そもそも、西郷の来関は土方の希望的観測に過ぎない。
しかも、西郷の来関期日を10日前後と木戸に話しているが、これは単なる土方の推断に過ぎないのだ。連日の会談で、木戸から言質を求め続けられたことによって、下関に滞在しづらくなった可能性も考えられよう。
土方周旋の危うい実相
慶応元年閏5月5日、土方と再会していた坂本龍馬の書簡(塩谷彦助宛、閏5月5日) には、木戸の復帰による長州藩の変化を喜んでいるものの、西郷の来関については一切触れていない。龍馬も土方発言だけでは確信を持てなかった感は否めない。
木戸も龍馬も期待していたものの、半信半疑であったと考える。さらに、蓑田新平・渋谷彦介書簡(西郷宛、閏5月14日)においても、西郷の来関問題は全く触れられていない事実がある。推測の域を出ないが、土方が渋谷らにはその件を言及していない可能性が高いと言えよう。
さらに、小松帯刀書簡(大久保利通宛、閏5月15日) によると、岩下方平が閏5月6日に帰藩し、将軍進発は間違いないので、要人の上京を依頼したが、大久保が上京すれば岩下が帰国するには及ばなかった。その後、岩下から久光に対して、中央政局の情勢を詳細に言上したところ、なお検討すべしとの沙汰があったことを伝えている。
小松には、中央政局に対する切迫した心情は全くなく、大久保1人で十分であるものの、1人よりは2人の方が大きな力になると判断したため、西郷を派遣するとしている。このことからも、薩摩藩から積極的な周旋を行うつもりが毛頭ないことがうかがえる。
西郷の派遣の目的とは?
西郷の派遣は、岩下の報告を受けた久光の意向が大きく反映された結果であり、大久保からの書簡による懇請に応えたとされる通説は根拠がない。そもそも、この大久保書簡は管見の限り見当たらない。さらに閏5月18日、西郷が佐賀関に到着した際、大久保から至急上京を求める書簡に接したため、下関に立ち寄って木戸と会談することをキャンセルしたとする通説も疑わしい。
その理由は、薩長の正式な連携であれば、薩摩藩の藩是に関わる重要事項であるにもかかわらず、小松書簡では全く触れておらず、最高意思決定者である久光は、大久保以外の派遣を検討させたに止まっているのだ。しかも、大久保の京都での周旋状況から、西郷の至急の上京が求められる情勢になかったこと、そもそも、この大久保書簡も管見の限り見当たらないことによる。
西郷来関の真相とはいかなるものか
中岡による西郷に対する木戸との会見の要請はあったものの、薩摩藩・西郷は時期尚早と捉え、その提案に同意しなかったと考える。最初から、西郷は木戸と会見する意向はまったくなく、予定通り京都に向かったものであろう 。
西郷・木戸会見は、中岡と土方が勇み足的に計画して進めたものであり、確かに薩摩藩は岩国・吉川経幹を通して長州藩への接近を図りつつあったものの、長州藩そのものに対しては、高杉晋作の高山寺挙兵による内訌後の情報にも乏しく、とても積極的にアプローチする段階ではなく、ましてや下関に西郷を送り込むことは、はばかられたであろう。
長州藩・木戸にしても、こうした中で西郷がいきなり藩内に乗り込んでくることに対して、半信半疑であったことは想像に難くない。ましてや、その情報源が五卿の従者に過ぎない土方であり、木戸が期待をしたことは事実であるが、どの程度この情報に信を置いていたかについては疑問である。
西郷に梯子を外された木戸が激怒したとされるが、これは土方の明治以降の後日談でしか確認できず、これもどこまでが事実であるかは断定できない。
なお、こうした困難も大きな成果を成就させるにはつき物であろう。しかし、西郷の来関問題はあったものの、歴史の流れは止めることが出来なかった。薩長融和は、この後急速に進展し、翌慶応2年(1866)1月の薩長同盟に帰結する。なお、薩長同盟そのものの評価については、拙著『薩長同盟』(2018年、人文書院)および『新説 坂本龍馬』(2019年、集英社インターナショナル)を参照されたい。
いずれにしろ、薩長同盟の起点におけるキーマンとして、中岡慎太郎の存在は無視できない。中岡による中岡・楫取ラインと中岡・木戸ラインの2つの方向性が存在し、それを融合させ、三条実美を介して長州藩への薩長融和の働きかけがなされている。中岡の薩長同盟における重要性は、坂本龍馬とともに記憶に留めたい。
筆者:町田 明広