薩長同盟の起点におけるキーマン、中岡慎太郎はどのような人物だったのか?五卿をめぐる中岡と西郷隆盛の会談

2024年6月26日(水)6時0分 JBpress

(町田 明広:歴史学者)


薩長同盟の一般的理解

 読者の皆さんにとって、“薩長同盟”は幕末の画期となった出来事として記憶されているのではなかろうか。薩長同盟があって初めて、明治維新が成し遂げられたと思われていることは、否定できない事実であろう。最初に、その一般的理解とはどのようなものなのか、筆者なりに表現してみよう。

 八月十八日政変以降、犬猿の仲となった薩長両藩を仲介し、 何とか連携にもっていきたい坂本龍馬は、長州藩が欲しがっている軍艦や武器を薩摩藩名義で購入し、長州藩に横流しすることを思いつき、西郷隆盛を口説いて了解させた。長州藩が軍需品を長崎で購入できたことにより、 薩長両藩の関係は改善され始めた。慶応2年(1866)1月8日、木戸孝允は京都薩摩藩邸に潜入したが、 お互いのメンツがぶつかり、会談らしい会談はなかった。21日、ちょうど上京した龍馬が煮え切れない両者を叱り飛ばして会談させ、また証人となり、小松帯刀・西郷と木戸との間で6箇条からなる薩長同盟が成立した。

 なぜこのように語られるようになったのか、その経緯を追うことは、今回のシリーズでは控えるが、一般的理解から見えることは、まさに龍馬の独壇場であることだ。しかし、本当に薩長同盟は龍馬だけの尽力のみで、成し遂げることが出来たのだろうか。特に、その契機は言われるように、龍馬を介した薩摩藩の名義貸しによる長州藩の武器購入だったのだろうか。

 筆者は、薩長同盟の起点におけるキーマンとして、龍馬のみならず、むしろ中岡慎太郎の存在を忘れてはならないと考えている。今回は4回にわたって、薩長同盟の起点に中岡が存在し、その後の同盟成立に大きな影響を与えたことを紐解いてみたい。


中岡慎太郎とは、どのような人物なのか?

 最初に、中岡慎太郎について、簡単に紹介しておこう。中岡は、言わずと知れた筋金入りの幕末の尊王志士である。土佐国安芸郡北川郷(高知県北川村)の大庄屋である小伝次の長男として、天保9年(1838)に生まれた。名は道正、初め光次と称し、のち慎太郎と改めた。

 学問を間崎哲馬に、剣を武市瑞山に学び、国事に目覚めて尊王志士になる素地ができた。安政4年(1857)、中岡は大庄屋見習となり、父を助けながら国事に関わる機会を待ち続けた。文久元年(1861)、武市らが土佐勤王党を結成すると、ただちに加盟して本格的に国事周旋活動にまい進し始めたのだ。同2年(1862)には、同志50人とともに京都や江戸に出て、いわゆる尊王攘夷運動に参加し、同3年(1863)に帰郷した。

 八月十八日の政変後、山内容堂による藩レベルでの勤王党弾圧が激化したため、脱藩して周防三田尻に赴き、これ以降は長州藩をバックに活動を行った。元治元年(1864)、禁門の変では忠勇隊とともに戦闘に加わり、負傷して長州に撤退を余儀なくされた。この後、三条実美の側近となり、薩長同盟の成立を画策することになったのだ。

 慶応3年(1867)、土佐藩より復籍は叶わなかったものの脱藩は許され、龍馬とともに薩土盟約の仲介人となった。土佐藩の遊軍として、龍馬は海援隊、中岡は京都で浪士を集め、陸援隊を組織して廃幕に向けた武力発動の一翼を担った。

 徳川慶喜による大政奉還後の11月15日夜、京都河原町の下宿近江屋に龍馬を訪れて会談中、幕府見廻組の襲撃を受け、2日後の17日に絶命した。死の直前に、「岩倉卿(具視)に、王政復古はひとえに卿の御力にかかっていると、伝言を頼む」との言葉を残しており、中岡は岩倉具視とともに、倒幕戦略を練っていたことが確認できる。それにしても、明治の廟堂に立つべき人物がここに斃れたことは、実に惜しい。


五卿をめぐる中岡と西郷隆盛の会談

 ここからは、中岡慎太郎による薩長同盟に向けた動向を見ていきたい。第一次長州征伐時、中岡は福岡藩士(喜多岡勇平・月形洗蔵・早川勇)と協力し、薩長融和の周旋を開始した。元治元年11月晦日、早川とともに五卿(三条実美・三条西季知・東久世通禧・壬生基修・四条隆謌)に対して、薩長融和を提言したのが最初のアプローチとなった。

 五卿の長州藩領から大宰府への移転をめぐって、中岡は第一次長州征伐における幕府軍の中で、参謀格で参加していた西郷隆盛の真意を測る必要性を感じていた。12月4日、中岡は早川勇の従者に身をやつして下関から渡海し、小倉において西郷との面談を果たしたのだ。

 中岡は、長州藩が禁門の変の首謀者として3家老(国司信濃・益田弾正・福原越後)の首級を差し出したことから、毛利敬親の隠居、世子広封の家督相続による処分を求めた。さらに、五卿移転は征討軍の威圧に屈したとされることに難色を示し、解兵後の移転を提言した。

 それに対し、西郷は自身の範疇として、後者についてのみ、その実現に向けた周旋活動を行うと約束した。中岡はこの会談で、西郷が薩長融和に前向きであることを確信し、以後積極的に周旋することになるのだ。

 西郷は、吉井友実・税所篤を伴って12月11日夜に下関に渡海し、翌12日に月形・早川も加わって、諸隊幹部赤禰武人・中岡・中村円太、五卿従士水野丹後、対馬藩士多田荘蔵、久留米藩士真木弦らと会談し、西郷が解兵後の五卿動座を了解したため、諸隊との合意が成立した。中岡の西郷への入説は、こうして実現を見たのだ。

 次回は、中岡の薩長融和に向けた周旋が、これ以降、どのようなものであったのか、特に三条実美の使者として長州藩に派遣された経緯や目的を説明し、また、薩長同盟のもう一人のキーマンと言える楫取素彦を紹介し、彼が三条の薩長融和提案にどのように対処しようとしたのか、その実相に迫ってみたい。

筆者:町田 明広

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