『光る君へ』藤原道長の子どもまとめ、彰子、頼通、姸子(きよこ)、教通、頼宗、顕信…六男六女、12人の生涯
2024年10月14日(月)8時0分 JBpress
大河ドラマ『光る君へ』において、当初は幼かった藤原道長の子どもたちも成長し、ドラマに登場することも増えた。
道長と、二人の妻(黒木華が演じる源倫子と、瀧内公美が演じる源明子)の間には、出生順に、①彰子、②頼通、③頼宗、④姸子、⑤顕信、⑥能信、⑦教通、⑧寛子、⑨威子、⑩尊子、⑪長家、⑫嬉子の六男六女が誕生している(倫子との間に二男四女、明子との間に四男二女)。
順番に見ていきたい。
文=鷹橋 忍
①【藤原彰子 紫式部も仕えた国母】(道長の一女/倫子の一女)
永延2年(988)〜承保元年(1074) 享年87
見上愛が演じる彰子は、長保元年(999)、数えで12歳の時に塩野瑛久が演じる一条天皇のもとに入内し、翌年、中宮となった。
寛弘5年(1008)、21歳の時に敦成親王(のちの後一条天皇)、翌寛弘6年(1009)に敦良親王(のちの後朱雀天皇)を産み、生母として、二人の天皇の政務を後見。「国母」と謳われた。
紫式部が仕えたことでも知られる。
●『光る君へ』紫式部が仕えた中宮・藤原彰子の生涯、一条天皇の正妻となり「天下第一の母」に、父・道長を恨んだ理由
②【藤原頼通 三代の天皇の摂政・関白に】(道長の一男/倫子の一男)
正暦3年(992)〜延久6年(1074) 享年83
渡邊圭祐が演じる藤原頼通は、後一条天皇(一条天皇と中宮彰子の皇子)、後朱雀天皇(後一条天皇の同母弟)、後冷泉天皇(後朱雀天皇と、頼通の同母妹・藤原嬉子(道長の六女)の皇子)の三代にわたる51年もの間、摂関の地位にあり続けた。
●『光る君へ』藤原頼通の生涯、父・道長とともに藤原氏全盛期を築く、同母弟・教通との確執、正妻・隆姫に涙した理由
③【藤原頼宗 紀貫之、平兼盛と並ぶ和歌の名手】(道長の二男/明子の一男)
正暦4年(993)〜康平8年(1065) 享年73
上村海成が演じる藤原頼宗は、倫子所生の頼通や教通に比べると昇進は遅いが、明子所生の男子の中でただ一人、右大臣に上り、堀河右大臣と称された。
異母兄・頼通の意向に反し、娘・延子を後朱雀天皇に、昭子を後三条天皇(後朱雀天皇と後述する禎子内親王の皇子)に入内させたが、皇子が誕生することはなかった。
家集『入道右大臣集』があり、紀貫之、平兼盛と並び称される和歌の名手でもある(『類聚伝記大日本史 第1巻』)。
④【藤原姸子 親子ほど年の離れた三条天皇の中宮に】(道長の二女/倫子の二女)
正暦5年(994)〜万寿4年(1027)享年34
倉沢杏菜が演じる藤原姸子は、寛弘7年(1010)、木村達成が演じる皇太子・居貞親王(後の三条天皇)の許に入侍する。
姸子は17歳、居貞親王は35歳と親子ほど年齢が離れていた。
しかも居貞親王には、すでに朝倉あきが演じる藤原娍子という妃がおり、阿佐辰美が演じる敦明をはじめ、四男二女の子をなしていた。
寛弘8年(1011)に居貞親王が践祚し、三条天皇が誕生すると女御となり、長和元年(1012)に中宮となった。
翌長和2年(1013)に、三条天皇の第三皇女となる禎子内親王を出産するも、皇子誕生を切望する父・道長の反応は冷淡だった。
この禎子内親王は万寿4年(1027)、皇太弟であった敦良親王(後朱雀天皇)の許に参入し、摂関政治に黄昏をもたらす尊仁親王(後の後三条天皇)を産む。
⑤【藤原顕信 19歳で突然の出家、両親を心神不覚に】(道長の三男/明子の二男)
正暦5年(994)〜万寿4年(1027) 享年34
百瀬朔が演じる藤原顕信は、長和元年(1012)、19歳の時、右馬頭の地位を捨て、突然に出家した。
母・明子は心神不覚となり、そんな明子を見た道長も不覚になったという(『御堂関白記』長和元年正月16日条)。
⑥【藤原能信 養女が白河天皇の母に】(道長の四男/明子の三男)
長徳元年(995)〜治暦元年(1065)2月9日 享年71
藤原能信は、治安元年(1021)に権大納言に進んでから45年間、官位が昇進することがなく、これは異母兄・頼通と不仲であったからだとみられている。
能信は頼通に対抗し、後朱雀天皇が崩御する直前、頼通や頼通の同母弟・教通を外戚としない尊仁親王(後朱雀天皇と禎子内親王の皇子/後の後三条天皇)の立太子を推し進めた。
寛徳2年(1045)、後朱雀の譲位を受け、後朱雀の第一皇子・親仁親王(母は、能信の同母妹・藤原嬉子)が践祚し、後冷泉天皇が誕生。尊仁親王は皇太弟となった。
能信は養女・藤原茂子(実父は藤原公成)を尊仁親王の許に入れ、天喜元年(1053)に貞仁親王が誕生する。後の白河天皇である。
⑦【藤原教通 同母兄・頼通との確執】(道長の五男/倫子の二男)
長徳2年(996)〜承保2年(1075)9月25日 享年80
姫子松柾が演じる藤原教通は、51年も摂関の地位についていた同母兄の頼通より、昇進を阻まれていたとされる(倉本一宏『藤原氏——権力中枢の一族』)。
教通が頼通から関白を譲られたのは、治暦4年(1068)、73歳の時である。
頼通と教通は天皇外戚の座をめぐり、熾烈な争いを繰り広げている。
後朱雀天皇の後宮に、頼通は養女・嫄子を、教通は娘・生子(母は、町田啓太が演じる藤原公任の娘)を入れた。
また、後冷泉天皇の後宮に、頼通は長女・寛子を、教通は三女の歓子を入れたが、いずれも皇子を授かることはなかった。
頼通も教通も天皇外戚の座を維持することは叶わず、摂関の力は衰退していく。
⑧【藤原寛子 皇太子を辞退した小一条院(敦明親王)の妃に】(道長三女/明子一女)
長保元年(999)〜万寿2年(1025) 享年27
道長と対立していた三条天皇は、寵愛する皇后娍子が産んだ第一皇子・敦明親王の立太子を条件に、道長の外孫である敦成親王への譲位を受け入れた。
長和5年(1016)正月、敦成親王は践祚し、
皇太子となった敦明親王は、寛仁元年(1017)5月に三条が42歳で崩御し後ろ盾を失うと、同年8月、自ら皇太子を辞退。
新しい皇太子には、後一条天皇の同母弟・敦良親王が立った。
敦明親王には太上天皇(上皇)に準じる待遇を意味する院号「小一条院」が下され、同年11月、道長の三女・寛子との婚儀が行なわれた。小一条院は24歳、寛子は19歳だった。
寛子は翌寛仁2年(1018)に儇子内親王、治安3年(1023)に敦元親王を産むが、幼い二人を残して、この世を去っている。
⑨【藤原威子 夫の後を追うように】(道長の四女/倫子の三女)
長保元年(999)〜長元9年(1036) 享年38
藤原威子は、同母姉の彰子が一条天皇の許に入内した年に生まれた。
威子は、この彰子が産んだ皇子と結婚することになる。
長和5年(1016)正月、三条天皇の譲位により、彰子の第一子・敦成親王が9歳で践祚し、後一条天皇が誕生した。
外祖父である道長が、幼帝の摂政となった。
寛仁2年(1018)正月、後一条天皇が元服すると、同年3月、威子は後一条天皇のもとに入内し、女御を経て、同年10月に中宮となった。後一条天皇は11歳、威子は20歳、叔母と甥の結婚である。
これにより、皇太后の姸子(威子の同母姉)、太皇太后の彰子とともに、三姉妹が后に並ぶ、前代未聞の事態となった。
立后式で道長が詠んだ「望月の歌」は、あまりに有名である。
威子と後一条天皇の間には、章子内親王と馨子内親王が生まれたが、皇子が無事に誕生するよりも先に、長元9年(1036)4月、後一条天皇が29歳で崩御してしまう。
威子は悲しみのあまり食事が喉を通らなくなり、裳瘡に羅患し、同年9月、後一条の後を追うようにこの世を去った。
残された章子と馨子の二人の皇女は、彰子に引き取られた。
⑩【藤原尊子 姉妹で唯一「ただ人」と結婚】(道長の五女/明子の二女)
長保5年(1003)頃?〜応徳2年(1085)11月? 享年80余?
藤原尊子は万寿元年(1024)、22歳ぐらいの時、結婚した。
相手は具平親王(村上天皇の皇子)の子で、尊子の異母兄・藤原頼通の養子となった源師房である。
王家構成者でない「ただ人」と結婚したのは、姉妹の中で尊子だけである(服藤早苗 高松百花 編著『藤原道長を創った女たち—〈望月の世〉を読み直す』所収 栗山圭子「第十章 次妻高松殿腹の姫君 ●寛子と尊子」)。
たが、『栄花物語』には、子に恵まれ、80余の長寿を保ったなど、尊子の幸せが描かれている(巻第三十九「布引の滝」/巻第四十「紫野」)。
⑪【藤原長家 源倫子の養子】(道長の六男/明子の四男)
寛弘2年(1005)〜康平7年(1064) 享年60
道長40歳、明子41歳の時の子であるが、源倫子の養子となった。
同母兄の藤原能信と同じく、権大納言に留まった。
勅撰集『千載和歌集』の編纂をした藤原俊成は曽孫で、俊成の子・藤原定家は『新古今和歌集』の撰者として知られる。
⑫【藤原嬉子 19歳で薨去した、後冷泉天皇の母】(道長の六女/倫子の四女)
寛弘4年(1007)〜万寿2年(1025) 享年19
道長42歳、倫子44歳の時に生まれた二人の末子である。
治安元年(1021)、同母兄・藤原頼通の養女として、皇太子・敦良親王(同母姉・彰子の第二子/のちの後朱雀天皇)のもとに参入した。
嬉子15歳、敦良親王13歳の時のことである。
嬉子は病が治りきらないまま、万寿2年(1025)8月3日に、親仁親王(後の後冷泉天皇)を出産し、父・道長を歓喜させたが、二日後の8月5日に亡くなった。
残された親仁親王は彰子に迎えられ、紫式部の娘・南沙良が演じる藤原賢子が、乳母として養育にあたることとなる。
筆者:鷹橋 忍