写真家・石田昌隆インタビュー!強制収容所、ジプシーの熊使い、ニナ・ハーゲン… ベルリンの壁崩壊から30年間世界を巡った音楽の旅の記録

2020年6月16日(火)16時0分 tocana

画像は、石田昌隆氏

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 国内外の名だたるミュージシャンを撮り続けてきた写真家・石田昌隆。多くのアルバムジャケットを手がけ、僕らの見慣れたビジュアルは、彼がファインダー越しに切り取ったものといえる。そればかりか、石田は自ら海外に赴き、新しい音楽が生まれる現場に立ち会い、世界数十カ国を旅してきた。


 絶賛発売中の写真集『1989 If You Love Somebody Set Them Free ベルリンの壁が崩壊してジプシーの歌が聴こえてきた』(オークラ出版)は、米ソ冷戦終結、東西統一のきっかけとなった「ベルリンの壁崩壊」から30年に及ぶ、激変する世界と音楽の旅の記録である。東西ベルリン、チェコスロバキア、ハンガリー、ウクライナ、モスクワ、ルーマニア、マケドニア、コソボ、ブルガリア、イスタンブール、アテネなどを巡り、映画『ベルリン天使の詩』のロケ地から、壁崩壊以降のテクノ、ジプシー音楽の世界的なブームなどを追い、各地で出会ったミュージシャンや映画監督のポートレイトを撮影し、石田が見てきた音楽シーンの変遷を臨場感をもって追体験することができる。


 カウンターカルチャーを追う男、ケロッピー前田が、石田昌隆に迫った。


——89年のベルリンの壁崩壊は、米ソ冷戦時代を知っている世代にとって、歴史的な大事件でした。石田さんは、壁崩壊前のベルリンに行って、さらに崩壊後、再びその現場を訪れていますね。


石田昌隆氏(以下、石田)「ベルリンの壁崩壊といわれる出来事があったのは、89年の11月9日。象徴的なイメージとして、ブランデンブルグ門の壁の上に人々が上って、壁を壊すパフォーマンスをしている映像がよく使われるけど、実際には、物理的に壁を壊すことが重要だったわけじゃないんです。実は、その日の夕方、東ドイツ政府のスポークスマンだったシャボフスキーが記者会見で間違って、東ドイツの人々が自由に西ドイツに行けるようになると言ってしまったんですよ」


——冷戦時代は、米ソが核戦争をしたら人類は滅亡しちゃうんじゃないかって、世界中の人々が恐れていました。さらに東西間には鉄のカーテンと呼ばれた情報の遮断があって、いきなり東西の往来が自由になるなんて、信じられないですよね。


石田「シャボフスキーの発言が実況中継されたら、東ドイツの人々が国境に殺到しちゃって、それがあまりにも大勢だったから、国境警備隊も持ちこたえられなくなって、ゲートを開けてしまったんだよね。それはちょっとした手違いだったけど、壁崩壊といわれる出来事の本当の顛末はそういう感じだったんです」


——それ以前からも民主化の動きはありましたよね。


石田「確かに、東ドイツの民主化の機運は、89年8月くらいから急速に高まってはいました。それが、汎ヨーロッパ・ピクニックという事件でした。東西間には鉄のカーテンがあったけど、東欧諸国のなかは、自由に旅行ができました。ハンガリーはオーストリアと国境を接していて、5月くらいに国境の鉄条網が取り払われたので、ハンガリー経由で西側に逃げられるようになっていたんです。ハンガリーで最も西側に近い、ショプロンという街に、ピクニックと称して、東側の人たちが集まって、千人単位で国境を越えちゃった亡命事件がありました」



——すでにソ連ではゴルバチョフがペレストロイカといった経済自由化の政策を進めていましたよね。


石田「そうはいっても、僕が最初にベルリンに行った89年1月の段階では、ベルリンの壁はまだずっとこのままだろうとみんな思っていました。ベルリンの壁ができたのは1961年だけど、その壁を越えようとして殺された人はたくさんいて、一番最後に殺されたのは、1989年の2月でした。少なくとも、そのときに殺された人はこの先もずっと壁があると思って、それを越えようとしたわけでしょう」


——壁崩壊前のベルリンには東西の緊張感があって、カルチャーも尖っていた印象があります。


石田「冷戦時代を知っている人にとっては、共産圏というのは、近所の人に密告されて秘密警察に捕まって粛清されちゃうイメージ。いつも恐怖と隣り合わせで、大人しく生きていくしかないという雰囲気だったじゃない。そういうなかで、70年代末、西ベルリンではクリスチーネ・Fという少女の物語が注目されたりしていた」


——日本では、『かなしみのクリスチアーネ』というタイトルで翻訳が出ていました。西ベルリンに住む十代の少女が売春とドラッグに溺れるというストーリーですが、その荒廃ぶりが共産圏のイメージにも合っていました。


石田「あの本は、ドイツでは100万部を超えるベストセラーになったんです。80年代にはアインシュテュルツェンデ・ノイバウテンやニック・ケイブが出てきて、東ベルリン出身のシンガー、ニナ・ハーゲンも東ドイツから市民権を剥奪されて西ベルリンに住んでいました」


——85年には、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテンが来日しています。鉄くずや廃材を叩いてビートを刻むメタル・パーカッションが新鮮でした。当時のベルリンのカルチャーには、僕もかなり影響を受けました。


石田「そういう尖った感じのベルリンのカルチャーは、80年代半ばにいったん途切れちゃっうんです。僕が89年1月にベルリンに行ったのは、前年にヴィム・ヴェンダース監督の『ベルリン天使の詩』が日本公開されて、やっぱりベルリンには行っとかないとって思ったからですが、もう今さら行っても手遅れかもと思っていました」


——でも、その後に壁が崩壊したことを思えば、ギリギリまだ壁があった頃を観れたのは貴重だったんじゃないんですか?


石田「確かにベルリンの廃墟はどれも格好よくて、あとで確認したら、『ベルリン天使の詩』のロケ地となっていた場所をかなり撮っていたんです。実際に行ってみると、映画に出てくる廃駅はユダヤ人を強制収容所に送り出したところだったり、第二次大戦の傷跡がそのまま残っているところがたくさんありました。東ベルリン郊外にあるザクセンハウゼン強制収容所に行ったときには、その帰りに食事をしたレストランのウェイトレスと仲良くなって、しばらく文通をしていたんだけど、彼女は後にハンガリー国境を越えて亡命した人の一人になっていて、やっと自由になりましたという便りをもらって、感慨深いものを感じましたね」


——壁が崩壊したのは11月、翌12月には再びベルリンに行きましたね。


石田「そうですね。ベルリンの壁崩壊に続いて、11月24日にはチェコでビロード革命が起こって、その翌日に東京ドームでU2のコンサートがあって、ボーカルのボノがチェコスロバキアに連帯するメッセージを発したんです。それで、また行かなければという気持ちになりました」



——壁崩壊後の様子はどうでしたか?


石田「2度目は、トルコのイスタンブールから東欧をまわってベルリンに行こうとしていました。トルコにいるときにルーマニアの独裁者チャウシェスクが殺されて、秘密警察と市民との銃撃戦が起こり、千人規模の死者が出ていました。それでルーマニアにも行ってみました」


——うわぁ、かなり危険だったんじゃないですか?


石田「あんな世界の報道の現場みたいなところに居合わせたのは初めてでした。ルーマニアに入ったのは、チャウシェスクが殺された1週間後、観光客は全然いなくて、世界中からジャーナリストが集まってきていました。街中のあちこちの人が亡くなった場所にロウソクが立ててありました」


——チェコのビロード革命で、ビロード(=ヴェルヴェット)という名前がロックバンドのヴェルヴェット・アンダーグラウンドから取られたというのはとてもいい話ですね。


石田「その革命のリーダーで、のちにチェコソロヴァキアの大統領になったヴァーツラフ・ハヴェルは、1968年のプラハの春の直前に、劇作家としてニューヨークを訪れて、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの『ホワイト・ライト/ホワイト・ヒート』というレコードを買って帰国しました。プラハの春はソ連の介入で失敗に終わり、チェコソロヴァキアの自由化は遠のくけど、ハヴェルが持ち帰ったレコードはカセットにダビングされて密かに出回って、のちに革命の名前につながったといいます」


——大統領となったハヴェルがヴェルヴェットのルー・リードと交流しているという話も音楽と歴史との強い結びつきを感じました。そのあとに、ベルリンを再訪していますね。


石田「ベルリンの壁って、1枚の壁じゃなく、2枚の壁の間にはだいたい50メートルくらい緩衝地帯があって、その帯状のスペースは東ドイツ領だったんです。そこを東ドイツの国境警備隊が警備していて、壁を越えようとする奴がいたら射殺していたわけだけど、壁が崩壊してからは、そこはだだっ広い空き地になっていました。特に、ブランデンブルグ門からポツダム広場にかけては、緩衝地帯の幅はもっと広くて200メートルくらい、みんなが羽目外して宴会をやったあとが残っていたりしてね」


——僕が最初にベルリンに行ったのは1998年ですが、まだ残っていた壁を観ることができました。


石田「90年代になると、ペルリンにはテクノやラブパレードが出てきました。特に90年代後半が全盛期で、98年には石野卓球が参加したし、テクノが好きな人にとって、ラブパレードは思い入れのあるイベントでしょうね」


(つづく)


<後編はこちら>


【写真集情報】



石田昌隆『1989 If You Love Somebody Set Them Free
ベルリンの壁が崩壊してジプシーの歌が聴こえてきた』
(オークラ出版)3000円(税別) 絶賛発売中!


 


●石田昌隆(いしだまさたか)


1958年千葉県市川市生まれ、千葉大学工学部画像工学科卒。フォトグラファー、音楽評論家。ロック、レゲエ、ヒップホップ、R&B、アフリカ音楽、中南米音楽、アラブ音楽、ジプシー音楽など、ミュージシャンのポートレイトやライヴ、その音楽が生まれる背景を現地に赴き撮影してきた。著書は、『黒いグルーヴ』(青弓社)、『オルタナティヴ・ミュージック』(ミュージック・マガジン)、『ソウル・フラワー・ユニオン 解き放つ唄の轍』(河出書房新社)、『Jamaica 1982』(オーバーヒート)。撮影したCDジャケットは、Relaxin’ With Lovers、ジャネット・ケイ、ガーネット・シルク、タラフ・ドゥ・ハイドゥークス、ヌスラット・ファテ・アリ・ハーン、ジェーン・バーキン、フェイ・ウォン、矢沢永吉、ソウル・フラワー・ユニオン、カーネーション、ほか多数。旅した国は56ヵ国以上。
公式twitter:@masataka_ishida

tocana

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