武田信玄の父・信虎は単なる「暴君」だったのか?知られざる波乱の生涯

2023年11月28日(火)5時50分 JBpress

 歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います


信虎あってこその信玄

 甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名・武田信玄は、上杉謙信と川中島で激戦を繰り広げたということもあり、織田信長や徳川家康などとともに、有名武将の1人です。その生涯は、父の武田信虎を追放し家督を継承したり、実子・武田義信を幽閉するといった波乱に富んだものでした。信玄の生涯はこれまで時代劇や小説で何度も描かれてきましたので、概要はある程度は知っているという方も多いかもしれません。

 では、信玄の父・信虎の人生は如何でしょうか? 信虎というと、信玄の影に隠れて余り目立たない、もしくは「暴君」というイメージを持っている人もいるでしょう。しかし、信虎の生涯は単に「暴君」という言葉だけで表現できるものではありませんし、ある意味、信玄と同じような波乱な生涯を歩んでいるのです。信虎あってこその信玄。私は信虎と信玄の歩みを見ていて、そう感じます。

 信虎は、明応3年(1494)、甲斐国の守護・武田信縄(のぶつな)の長男として生を受けます。前述のように、信虎と信玄、信玄と義信は対立することになるのですが、実はこの信縄(信玄の祖父)も自らの父・信昌と相剋関係にあったのです。

 信昌と信縄の父子対立は、信昌が信恵(信縄の弟)の方に家督を譲渡しようとしたことから勃発、信縄によるクーデターに発展したと思われていました。が、近年では対立の契機は、堀越(伊豆国堀越)公方・足利政知の死(1491年)後に起こった混乱(政知により廃嫡の憂き目にあっていた子の足利茶々丸の反乱)への対応(茶々丸を支援するのか否か)をめぐるものと言われています。

 信昌は反茶々丸、信縄は茶々丸派となったことにより、父子は対立。信昌が家督を信恵に継がせようとしたことから、信縄が反発。甲斐国の国人のみならず、外部勢力(関東管領・上杉氏、駿河国の今川氏、信濃諏訪の諏訪氏)までが、この父子対立(見方によっては、信縄・信恵の兄弟対立とも言える)に介入してくるのでした。

 争いは明応7年(1498)に一旦収まり(和睦が結ばれる)、信昌は隠居します。が、隠居したといっても、信昌は未だ影響力を有しており、信縄が単独でしっかりした政権運営を行うことは困難でした。

 永正2年(1505)9月、信昌は59歳で死去したことにより、信縄が甲斐守護として、権力を振える機会が巡ってきますが、信縄を病魔が襲います。そして、永正4年(1507)2月にこの世を去ってしまうのです(享年37か)。

 信縄の妻・岩下の方(信虎の母)も前年(1506年)に死去していました。信虎はこの時、10代前半と年少でした。信虎は家督を継承しますが、年少の主君に対し、信恵(信縄の弟)らが挙兵(1508年)。甲斐国で再び内乱が起こります。


信恵との対決

 信恵には、小山田氏や武田譜代の家臣(河村氏や工藤氏)が加勢しますが、信虎にも、今井信是・大井信達、武田譜代の飯富氏・板垣氏らが味方していました。

 信虎方が優勢だったこともあり、坊ヶ峰(山梨県笛吹市)での合戦(1508年10月)は信虎方の勝利となります。信恵もこの戦で戦死してしまうのです。永正7年(1510)には小山田氏も信虎に降伏。信虎は最初の危機を、攻勢によって乗り切ったと言えましょう。

 しかし、甲斐国の国人の中には、駿河の今川氏に心を寄せる者(例えば穴山氏や大井氏)もいて、信虎はこれらの豪族との戦いに奔走することになります。

 永正12年(1515)10月には、大井信達との戦(大井合戦)で敗れ、それを見た駿河の今川氏親が約千人の軍勢を甲斐に侵入させるという事態が起こります。今川軍は信虎を戦で破り、追い詰めますが、永正13年(1516)になると形勢は逆転。武田軍が今川軍を破り、次第に今川方を追い詰めていくのです。

 そして翌年(1517年)には和睦が結ばれ、今川軍は甲斐から撤退していくのです。信虎に反旗を翻していた大井信達も降伏します。この時、大井信達は、自分の娘を信虎の正室として娶せます。信虎の正室となったこの女性こそ、武田信玄の母となる大井夫人です。

 さて、その後も今川氏は甲斐に侵攻し、大永元年(1521)10月16日には、飯田河原で武田軍と交戦しています。この合戦において、信虎は今川の大軍を撃破、今川はまたもや撤退していくのです。その翌月3日、信虎の正室・大井夫人は男子を産みます。この男子は「勝千代」と名付けられました。命名の由来は、合戦に勝利した後に誕生したからと言われています。この男子こそ、後の武田信玄です。

 信虎の前半生を見てきましたが、幾多の困難が、家督を継承した直後から、信虎を襲ってきたことが分かるかと思います。が、その困難を信虎は力によって跳ね返してきた。そして、最終的には甲斐一国を統一(1532年)するに至るのですから、信虎は信玄に負けず劣らず「名将」と評価できるのではないでしょうか。冒頭に述べたように、信虎の活躍による成果があったからこそ、その後継となった信玄が飛躍できたと思うのです。

(主要参考文献一覧)
・柴辻俊六『信玄の戦略』(中公新書、2006)
・笹本正治『武田信玄』(中公新書、2014)
・平山優『武田三代』(PHP新書、2021)

筆者:濱田 浩一郎

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