王政復古クーデターに匹敵する大事件「八月十八日政変」真の黒幕と引き金とは

2023年11月29日(水)6時0分 JBpress

(町田 明広:歴史学者)

八月十八日政変とは?

 文久3年(1863)8月18日、宮中で政変が勃発した。いわゆる、八月十八日政変である。孝明天皇と中川宮(青蓮院宮、朝彦親王、賀陽宮)が画策し、薩摩藩と会津藩が加わって、京都から即時攘夷派の中心であった長州藩と、それと結ぶ三条実美ら過激廷臣らを追放した事件である。

 幕末期には、さまざまな事件や政変が起こり続けた。中央政局においては、慶応3年(1867)12月9日の王政復古クーデターに匹敵する大事件こそ、この八月十八日政変であった。しかし、その実態については、意外と知られていないのではなかろうか。

 この政変の主役は、孝明天皇の意向を十分に熟知していた中川宮と、即時攘夷の推進主体である長州藩に追い詰められた薩摩藩であり、両者はともに朔平門外の変(文久3年5月20日、姉小路公知暗殺)の嫌疑から絶体絶命な状況に追い込まれていた。しかも、即時攘夷派によって画策された大和親征(行幸)が目前に迫っていた。この事態を一挙に打開したのが、八月十八日政変であったのだ。

 今回は、160年という節目を迎えた本政変の背景や経緯を丹念に追いながら、真の首謀者である中川宮と高崎正風に焦点を当て、その実相を4回にわたって明らかにしたい。


八月十八日政変直前の薩摩藩の事情

 文久3年3月14日、薩摩藩の最高権力者で藩主茂久の実父である島津久光は、再三にわたる朝廷からの召命に応え、ようやく上京を果たした。その際、久光は即時攘夷派に属する過激廷臣の朝議(朝廷における最高意思決定会議)からの排除を孝明天皇に建言した。その久光は、わずか4日後の18日には退京し、あっという間に鹿児島に戻ってしまったのだ。

 そもそも、久光がなかなか上京できなかった理由として、生麦事件(文久2年8月21日)以降、一触即発な薩英関係から、いつイギリス艦隊が鹿児島を急襲するか分からず、久光が鹿児島を留守にすることは危険極まりなかった。今回の上京でも、それが理由で短期滞在しかできず、その後の上京の召命にも応えることは簡単ではなく、帰藩後の久光の再上京はなかなか叶わなかった。

 しかし、文久3年7月1日に勃発した薩英戦争が3日間で終わり、和睦談判の運びとなった。また、薩摩藩と越前藩および九州諸藩との連携が成り、即時攘夷派を排撃できる条件が整ったことから、久光は上京が可能となったと判断した。

 そして、長州藩と一戦を交えても、その勢力を中央政局から駆逐し、国是を攘夷から開国への転換を計ることを企図することができるという、薩摩藩にとって有利な状況が訪れた。期せずして、そのタイミングで実行されたのが八月十八日政変であったのだ。


八月十八日政変直前の中川宮の事情

 この時期の中央政局、そして朝廷内の主役は中川宮であった。一橋慶喜らから「関白」に推されるほど幕府から信任されており、近衛忠煕ら未来攘夷派廷臣の中心的な存在であった。そして何より、薩摩藩との濃密な関係が存在した。薩摩藩の最高権力者であった島津久光も中川宮に大きな期待をかけており、摂関家に牛耳られた朝議に容喙するため、中川宮の勢威拡大に加担し続けることになる。

 しかし、中川宮に朔平門外の変の嫌疑がかかった。さらには、長州藩の攘夷実行に協力しない小倉藩を征伐するための「鎮撫大将軍」(西国鎮撫使)への任命問題、および攘夷を実行するための孝明天皇による大和親征(行幸)での先鋒の可能性が浮上したのだ。

 薩摩藩にも、陪臣の田中親兵衛に姉小路暗殺の実行犯としての嫌疑がかかっていた。それだけでなく、大和親征の決定に伴う分担金が大きな負担となっており、中川宮・薩摩藩ともに、即時攘夷派の前に絶体絶命のピンチを迎えていた。生麦事件によって、いつ何時、イギリス艦隊が鹿児島を襲うか分からないため、なかなか上京が叶わない久光の上京を待つことなく、至急の政変を計画しなければならない素地ができあがっていたのだ。


八月十八日政変の引き金とは?

 こうしてピンチを迎えた薩摩藩と中川宮であったが、八月十八日政変の直接の契機は何であったのか。それは、文久3年8月9日に中川宮が「鎮撫大将軍」に任命されたことであった。

 8月12日、中川宮は懇意にしていた薩摩藩士の高崎正風を呼び出し、「鎮撫大将軍」に任命の回避策を検討することを依頼した。高崎は、宮が承諾した場合は「鎮撫大将軍」と「大和親征」が、同時に仕組まれることは必然であると応じた。

 高崎は、中川宮が孝明天皇に直訴し、もしも天皇自身にこうした事態を招いたことに対して、悔悟の念が見られたようであれば、政変を決行すべきと提案し、宮の同意を得たのだ。

 次回は、薩摩藩と会津藩が政変に向けて連携に至る経緯と、実は政変未遂事件があったことを詳しく述べてみたい。

筆者:町田 明広

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