「票にもカネにもならぬ仕事に…」元宝塚市長の中川智子が明かす、自民党の重鎮・野中広務が遺した言葉
2025年5月1日(木)12時30分 文春オンライン
〈 小泉純一郎に「無礼者」と怒声を…中曽根康弘元首相が求めた義理人情 〉から続く
党の幹事長や官房長官などを歴任し、「政界の狙撃手」の異名でも呼ばれた自民党の重鎮・野中広務(1925-2018)。
元宝塚市長の中川智子氏は、社民党の1年生代議士だった平成9(1997)年、野中と知り合い、親交を深めた。中川氏が見た野中広務の素顔とは。
◆◆◆
中川智子が見た野中広務(票にもカネにもならぬ仕事)
米軍の土地使用に関する衆議院の特別委員会で、委員長を務めていた野中さんは「初めて沖縄を訪れたときに乗ったタクシーの運転手が『妹は日本軍に殺された』と泣く姿を見て、沖縄の人たちの悲しみに寄り添うと決心した」と語りました。私は面識もないのに事務所へ押しかけて「あなたみたいな政治家に会えてよかった」と感動を伝えました。

その夜、私の議員宿舎のドアポケットに、お菓子の袋と「困ったことがあったら何でも相談しなさい」と携帯番号を書いたメモが入っていました。
それから被災者生活再建支援法や、ハンセン病患者の国家賠償訴訟などで相談するたび、親身になって力を貸してくださいました。理由を尋ねると、こう言われました。
「君は、票にもお金にもならない仕事に取り組んでいる。光の当たらない人に手を差し伸べるのが政治家だ。君の応援をしたら、僕もいい仕事ができたと思えるんだよ」
年に3日、会えない日
私の2回目の市長選のときは、野中さんが自民党を離れていた時期だったので、応援に来てくれました。政界引退後も、京都のレストランや天ぷら屋さんで何度もお食事をし、語り合いました。
でも年に3日だけ、会えない日がありました。野中さんが慰霊式に参加するためです。阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件の日は、野中さんが自治大臣・国家公安委員長のときに起こったからです。もう1日はJR西日本の福知山線脱線事故の日で、野中さんが旧制中学校を卒業後、国鉄の大阪鉄道局に勤めたから、という理由でした。しかも目立つのを避けて、式典のあとに献花をされていたそうです。
政治家としてお手本だったし、あんなに優しい人はいませんでした。“人間・野中広務”とお付き合いさせていただいたことは、私の生涯の宝です。
◆
このコラムは、いまなお輝き続ける「時代の顔」に迫った『 昭和100年の100人 リーダー篇 』に掲載されています。
(中川 智子/ノンフィクション出版)