「8人の王子」で「八王子」…誰のこと?時代は?地名の由来を調べてみた
2025年5月6日(火)16時14分 読売新聞
人口約56万人を擁する多摩地域最大の都市・八王子市。なぜ「八王子」と呼ばれるのか。8人の「王子」のことなのか。元々各地にあったのに、この地名が定着したのはどうしてか。答えを探すため、高尾の山の頂を目指し、登山靴を履いた。(長谷部耕二、畑武尊)
大型連休中の4月29日、高尾駅から路線バスに揺られて10分余りで到着したのは、終点「八王子城跡」。城跡のある深沢山(446メートル)の山頂に向けて、急な階段を踏みしめた。
快晴の山登り日和だが、登山客は多くない。30分ほどで市内を一望できる見晴らしの良い地点に着いた。すぐそばの山頂付近に行くと、「八王子神社」の社殿、城跡を示す石碑が姿を現した。
山頂に設置された案内板には、平安時代に「八王子
「権現」とは誰だろう。八王子市文化財課に聞いてみると、頭に牛の角が生えた「
では牛頭天王は何者か。彫刻家で奈良県立美術館長の籔内佐斗司さん(71)によれば、日本神話のスサノオや朝鮮半島の神など様々な神が習合したもので、疫病を鎮めるために始まった祇園祭の祭神だという。
市文化財課によると、8人の王子は牛頭天王に従属する神々とも考えられ、天王と王子たちをまつる信仰が広がったが、王子たちについて詳しいことは分かっていない。それでも、日本各地に八王子神社や八王子権現社が建立されており、「八王子」という地名は埼玉県や三重県、京都市などに分布している。
鎌倉幕府が成立した頃の12世紀後半には、源頼朝の家来で、この一帯を支配していた梶原景時が山の麓に八幡神社を建立。以降は一族が代々、同神社と八王子神社を守り続けてきた。
現在の両神社の宮司、梶原宏樹さん(53)は「先祖代々守ってきた神社なので、責任の重さを感じる。江戸時代から近くに住む武士や農民だった方々が代々総代や氏子として、神社を支えてくれた歴史がある」と語る。
「八王子」の地名を定着させ、長く栄える土台を築いた人物がいる。関東を支配した戦国大名・北条氏の一族、北条氏照だ。
氏照は16世紀後半、八王子神社のある深沢山に八王子城を築城。甲斐・武田氏の進出を防ぎ、天下統一を目指す豊臣秀吉に備えた。
しかし、この山城は1590年、豊臣側の小田原攻めの一環で、わずか1日で落城。城跡からは、北条氏の栄華を示す中国・景徳鎮の磁器やイタリア・ベネチア産のガラス器の破片など高価な出土品が見つかった。
市文化財課の学芸員、村山修さん(56)は、これらの品々が船に載せられ、今の東京湾から多摩川をさかのぼって城まで運ばれたと考えている。「出土品は豊臣方に奪われるのを防ぐため、大部分が落城前に割られた。これらを購入できた北条氏の財力はまだ謎で、歴史のミステリーだ」
落城後の江戸時代、城周辺は幕府の直轄領になり、八王子城に入る人はほぼいなくなった。城下にいた商人も平野部に移り住み、今の八王子市街地を形成した。
そんな八王子城に熱い思いを持つのが、NPO法人「八王子城跡三ッ鱗会」の約60人だ。理事長の金子信一さん(76)は「
会員は
金子さんも城が「地元八王子市民に広く知られているとはいえない」と認める。高尾山は観光客で混み合うが、静かな山で歴史に思いをはせてみるのも悪くないかもしれない。