100年前の吉原の遊女は生理中も客を取った…腹痛に耐え「この苦しみを見て下さい」と神に祈った21歳の実録【2025年3月BEST5】
2025年4月9日(水)18時15分 プレジデント社
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ilbusca
2025年3月に、プレジデントオンラインで反響の大きかった人気記事ベスト5をお送りします。大河ドラマ部門の第4位は——。
▼第1位 身請け金は「5代目瀬川」を上回る2億5000万円だったが…姫路城主と結ばれた「吉原で最も有名な遊女」の末路
▼第2位 1億4000万円で盲目の大富豪に身請けされたが…吉原伝説の花魁・五代目瀬川を待ち受けていた「意外なその後」
▼第3位 「3億円で仙台藩主に身請け→吊るし斬り」という話も…五代目瀬川より悲惨な「落籍された吉原遊女たち」のその後
▼第4位 100年前の吉原の遊女は生理中も客を取った…腹痛に耐え「この苦しみを見て下さい」と神に祈った21歳の実録
▼第5位 「吉原史上最高の玉の輿」2億5000万円で落籍されたが…身請け先「姫路城主」のとんでもない好色ぶり
吉原遊廓(新吉原)は江戸時代から昭和の戦後まで存在していた。その歴史を調べた毎日新聞記者の牧野宏美さんは「大正時代に吉原を脱出し、自由廃業した女性・光子の記録によると、吉原の遊女は彼女たちを人間扱いしない妓楼の経営者に搾取され、生理中でも客を取らされた」という——〈後編〉。
※本稿は牧野宏美『春を売るひと 「からゆきさん」から現代まで』(晶文社)の一部を再編集したものです。
写真=iStock.com/ilbusca
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ilbusca
■性病検査に引っかかり休業することを恐れていた遊女たち
光子の日記には、吉原病院で性病検診や治療を受ける場面も描かれている。性病の拡散を防ぐため、当時は娼婦への性病検診が行われていた。吉原病院は1911年に性病予防を目的として開設され、42年には東京府に移管された。パンパンへの強制検診も多く担っていた場所だ。光子が描く検診の様子はリアルで、当時検診を遊女や店がどうとらえていたかがわかる。
検診で病気や不具合が判明すると入院して治療するため、その間遊女は店に出られず、稼ぐことができなくなる。そのため店側は検診の日は検査にひっかからないために火打石を打つなどして縁起を担ぎ、多くの遊女もなじみ客が離れることや入院生活を恐れ、検査を無事パスすることを願っていたようだ。
遊女たちは吉原病院での検査に行く前に、「外来」と呼ばれる廓内の町医者を訪れ、事前のチェックを受ける。局部を見てもらい、検査にひっかからないよう、おりものなどを取ってもらい、水薬がついた脱脂綿を受け取って病院へ。検査の直前に遊女たちはその脱脂綿で局部を丁寧に「掃除」して、用意されたかめに捨てた。こうした場面は、五社英雄監督による映画『吉原炎上』(1987年公開)でも出てくる。
■光子は吉原脱出する直前、梅毒と肺病と心臓病で入院
光子は日記で確認できるだけでも複数回、入院している。中でも遊廓を脱出する年の1月には梅毒と肺病と心臓病で入院した、とある。入院生活は食事はひどく、まったく外に出られないため「地獄か『ろうや』のようなところ」と表現し、2カ月半も入院して退院したところ、その夜から客を取らされたという。
生理の時でさえも、店側は休ませてくれなかった。光子は腹痛のなか、カイロで腹を温めながら客を取っていたといい、「神よ、あなたは、妾共のこの苦るしみを見て下さらないのですか」と訴える。
からゆきさんやパンパンにも共通することだが、性病検診や性病の治療など、遊廓での生活は女性の体に非常に重い負担を与えていたことがわかる。しかし、店側は儲けを重視し、女性の負担や体調への配慮はほとんどなかった。
■生活は過酷だったが、遊女同士で助け合うこともあった
山家悠平氏が論文「闘争の時代の余熱のなかで森光子『春駒日記』の描く吉原遊廓の日常風景」(2022年)でも指摘しているように、日記は、遊女の生活の苛酷さを訴える一方で、遊女同士の友情や、助け合う姿も描いている。
先述した罰金のように、遊女たちが、店側への不満を語り合う場面は複数回登場し、現代の私たちの多くもイメージできるシチュエーションで、共感しやすい。不満は食事に関しても語られていた。冷めきった夕食について二人の遊女が「こんなに寒いのに、蒸かしたってよさそうなものに」「まったくだよ、腹の中が凍ってしまいそうだよ」などと言い合い、「馬鹿にしていらあ」と怒りを隠さなかった。光子はそのやりとりを聞いて、こうした境遇は仕方ないとあきらめてしまわない姿に「救われる気」がした、と明かす。
また、吉原病院に入院した際は、他の遊女のために薬をこっそり盗んで配り、自分の妹のように世話をやいていたある遊女のことや、光子が親しい遊女から心配する手紙をもらって涙したことなどに触れている。
■男性客を取り合うライバルでもあるが、待遇改善のため共闘
もちろん妓楼では遊女は序列化され、売り上げを競わされるライバルでもある。実際、日記にも客の奪い合いでトラブルになる場面が何度も出てくる。たとえば、初めて店を訪れた客の相手をした遊女が、以降もその客の相手をするというのが習わしとなっているが、そのルールを破って、初訪問時は相手をしていない遊女が「自分の客」だと主張し、その後別の遊女が「私が最初に相手をした客だ」と訴えて嘘が発覚するといったケースだ。
そんななかでも、光子が遊女の身の上話を聞いて同情を寄せたり、恋の相談を受けたりしたエピソードがあり、他の遊女の存在が互いの癒やしや励みになっていたこともうかがえる。
自由廃業した光子の影響を受けたのだろう。光子がもっとも親しかった遊女の千代駒は、妓楼で同朋とストライキを敢行したことや、ついには遊廓を脱出したことを光子への手紙で報告している。
日記で紹介された千代駒の手紙では、ストライキについて、1926年12月25日の大正天皇の崩御から1週間、喪に服すため他の妓楼では休みにしていたのに、千代駒の店では休みでなかったことから、それに抗議してみなで相談し、店に出るのをやめた、としている。14人の遊女のうち、11人がストライキに参加したという。
豊春楼国周画「遊女屋べつさうのてい」1893年(明治26年)、国立国会図書館デジタルコレクション
■遊女たちがストライキを起こし「シスターフッド」の先駆けにも
井上輝子ら編集『岩波女性学事典』(2002年)によると、日本で初めてのストライキは1886年、山梨県甲府の製糸場の女性労働者が起こしている。雇用主団体が工女取締規則をつくって労働条件を改悪し、労働強化したためだった。女性労働者100人余りが「雇主が酷な規則を設け妾等を苦しめるなら妾等も同盟しなければ不利益なり」とストライキに突入し、待遇改善を勝ち取ったという。
こうした遊女たちが助け合いやストライキなどへ共鳴していく姿は、私には「シスターフッド」の表出とも感じられる。
前掲『岩波女性学事典』によると、シスターフッドとは、女性同士の連帯・親密な結びつきを示す概念だ。1960〜70年代の日本の「ウーマン・リブ運動」(女性解放運動)で掲げられたが、近年、女性たちが性被害を告発する#MeToo運動の高まりのなかで再び脚光を浴びている。ストリッパーの女性たちが結託し、リーマン・ショック下でも裕福な金融マンに詐欺をしかける米映画『ハスラーズ』(2019年)などが公開されたほか、日本の文芸誌『文藝』は2020年に「覚醒するシスターフッド」という特集を組み、話題になった。
井上安次画「新吉原夜櫻景」1880年(明治13年)小林清親 畫『清親畫帖』より、国立国会図書館デジタルコレクション
■女性をモノのように扱う楼主や社会に反発
もちろん大正期にジェンダー平等、ハラスメント反対といった概念は希薄だっただろうが、遊女たちが闘っていたのは妓楼での不当な扱いだけでなく、女性をモノのように扱う遊廓やそれを許容する社会とも受け取れる。時には競合する相手と助け合い、不条理な共通の敵に立ち向かう。それは朝霞の「パンパン」の女性たちにも見られたが、そんな姿を想像すると、現代の女性の多くも胸が熱くなるのではないだろうか。
一方的な被抑圧者とみられがちな遊女に、生き残りをかけて連帯や抵抗の動きがあったという事実は注目に値する。
■光子は純潔を奪われ死のうと考えたが、復讐を決意する
そもそも、光子はなぜ日記を書き始めたのか。初めて客を取る「初見世」を経験した後の日記で、その胸の内を明かしている。
牧野宏美『春を売るひと 「からゆきさん」から現代まで』(晶文社)
光子は初見世から1週間苦しみ、死のうと考え何度も遺書を書いたが、死んだとしても、周旋屋や楼主、初見世の相手の男など自分をどん底に突き落とした人々に虐げられたままだと考え、復讐のために日記を書こうと以下のように決意する。
〈もう泣くまい。悲しむまい。(中略)復讐の第一歩として、人知れず日記を書こう。それは今の慰めの唯一であるとともに、また彼等への復讐の宣言である〉
「復讐」ととらえる背景には、体を売ることに対する光子の強い嫌悪感がある。嫌悪感は、日記の随所からうかがえる。初めての相手を「処女の純潔を、鼻紙でも踏みにじるようにして、自己の獣慾を満たしたその男!」「極悪非道の人間」と強い言葉で非難し、日記を書くことによって清らかな心になり、「妾(わたし)は処女になれる」とつづっている。多くの遊女が入院を嫌がることについても、入院を客をとらなくてもいい期間ととらえる光子は「解せない」と吐露している。
■吉原を出た光子は結婚、心の傷は癒えたのか?
こうした光子の意識は、貞操観念が強く反映されたものとみられ、当時の娼婦に対する蔑視的な世間の見方も内面化しているように感じる。全国的に盛り上がっていた廃娼運動の影響を受けていたとも言えるだろう。
光子は先述した本を2冊出版した後、結婚したが、晩年の様子はわかっておらず、没年も不明だ。光子が自由を得て遊廓での体験を世間に発表した後、どのように自身の過去や嫌悪感と向き合っていったのか気になるところである。
(初公開日:2025年3月16日)
----------
牧野 宏美(まきの・ひろみ)
毎日新聞記者
2001年、毎日新聞に入社。広島支局、社会部などを経て現在はデジタル編集本部デジタル報道部長。広島支局時代から、原爆被爆者の方たちからの証言など太平洋戦争に関する取材を続けるほか、社会部では事件や裁判の取材にも携わった。毎日新聞取材班としての共著に『SNS暴力 なぜ人は匿名の刃をふるうのか』(2020年、毎日新聞出版)がある。
----------
(毎日新聞記者 牧野 宏美)