「広末涼子は変わってしまった」は本当か…「清純派美少女」を搾取、消費し続けたメディアが逮捕で大騒ぎする異様
2025年4月11日(金)18時30分 プレジデント社
2022年12月7日、東京・有明アリーナで開催された「ブルガリ アウローラ アワード2022」に出席した俳優の広末涼子さん - 写真提供=WireImage/ゲッティ/共同通信イメージズ
写真提供=WireImage/ゲッティ/共同通信イメージズ
2022年12月7日、東京・有明アリーナで開催された「ブルガリ アウローラ アワード2022」に出席した俳優の広末涼子さん - 写真提供=WireImage/ゲッティ/共同通信イメージズ
■清純派女優・広末涼子はいつから変わってしまったのか
高い演技力や繊細な表現力、そして名作や傑作とされる出演作品にも恵まれ、なんといっても唯一無二の透明感、そして透明感という言葉がまるで彼女一人のためにだけあるようなたたずまいを見せつけてくれた、女優、広末涼子。
芸能の枠を超え、社会現象になるほどの存在感すら具(そな)えていたが、正統派アイドル、王道の清純派女優だったのは、成人するあたりまでなのか。いつの間にか離婚歴2度で、子どもも3人もうけておられた。
結婚しようが離婚しようが出産しようが不倫しようが、絶対的に彼女は第一に透明感という、数値に表せない、科学的に分析できないものをまとい続けてきた。一方で、彼女は奇行だのスキャンダルだの情緒不安定さも、常に取り沙汰されてきた。
いつの間にか透明感と同じくらい、「プッツン女優」と一部心無いメディアからは冠されるようになった。
先頃ついに交通事故を起こしただけでなく、病院で看護師にけがをさせたとして逮捕、薬物検査まで行われた。東京の自宅の捜索も行われ、もはやプッツンだの奇行だのでは済まないことになった。
■ヒロスエとセイコちゃんの違い
デビュー時は15歳の中学生だった彼女は、もちろん化粧っ気もなくショートカットにボーイッシュ寄りのファッションで、そこから一貫してちょっと中性的な雰囲気であったことが、生々しい性を感じさせず透明感を保てたのではないか。
男に媚びているなどと女性たちにも敵視されない。男性ファンもまた、性的な目で見入るのではなく中学の同級生だった女の子を応援するように、透明感あふれる気分でヒロスエが好きと言えた。そうした、ヒロスエを好きという男に、女たちも優しかった。途方もなく可愛い、飛び抜けた美人なのに、私のライバルにならないと、女性たちも透明感の魔法にかけられた。
さらに彼女は一人称をよく「ヒロスエ」と言い、ファンも「リョウコちゃん」ではなくヒロスエと呼んだ。20歳ほど離れているが、松田聖子さんはマツダなんて自称も他称もなく、今もってセイコちゃんだ。
そしてヒロスエと真逆の、髪型もファッションもふわふわ路線のセイコちゃんは、当初は女性たちから激しく「敵」認定されバッシングされた。「ぶりっ子」なる言葉はセイコちゃんが典型例とされている。
写真=iStock.com/Liudmila Chernetska
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Liudmila Chernetska
■世間が彼女を搾取・消費し続けた結果
もしヒロスエがセイコちゃんみたいにふわふわしたフェミニン、ガーリッシュを強く演出していれば、年相応の成熟なども求められ、ときには「若作り」「イタい」だの言われたあげく、男に媚びているなどと謗(そし)られたかもしれない。
しかしセイコちゃんは、こちらも一貫してスタイルを変えなかった。やがて女性たちもセイコちゃんの外見に反する強靭さ、豪快さに気づき、熱烈ファンになっていく。
セイコちゃんもまたさまざまなスキャンダルはあったし、離婚歴も同じく2度だが、セイコちゃんの場合はプッツンだの奇行だのはいわれなかった。セイコちゃんには猛烈な安定感と安心感があったからだ。さらにセイコちゃんの場合は芸の肥やしといった、能動的で意志的なものも感じられた。
ヒロスエの場合、ボーイッシュ、中性的を打ち出しても、それはあたかも性別なき天使のように、ただひたすら無垢な透明感を増していくだけだった。だが、突如表面化したプッツンともいわれた言動は、実は現実社会ではずっと性的な被害を受け、搾取され続けたために壊れていった乙女だとわかってしまう。
■ぶりっ子スタイルは迷彩服だった
地方の静かな町で、ごく普通に育っていった純朴な少女が、いきなり都会に出て大勢から性的な眼差しを向けられていく。それはヒロスエに限らず、芸能界などを志せば必ずや見舞われる事態であるが。
彼女を応援している者たちは、中性的な可愛い子を、自分たちも透明感あふれる気持ちで見ていたのだろう。だが実際はちっとも透明じゃない透明感だ。
あくまでも透明「感」をまとわせていったのはヒロスエ本人ではなく、ヒロスエを見る者たちの方だったのだ。
同じように地方の普通の家庭から、十代で芸能界に乗り込んでいったセイコちゃんは、ふわふわな武装をして中身を守っていったというより、あのぶりっ子スタイルはジャングルにおける迷彩服であろう。
写真=iStock.com/South_agency
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/South_agency
だから生き残れ、勝ち残ったのだ。それを思えばヒロスエは、どうにか生きて帰れたものの、ずっと後遺症や精神的外傷に苦しめらられている戦場帰りみたいなものではないか。しかも、社会復帰したはずなのに、透明感という兵隊服をまだ脱がせてもらえないでいる。
セイコちゃんも、もちろん苦難の芸能生活があり、私生活でも大変に不幸なこともあり、戦勝続きなわけではないが、誰もが「セイコちゃんなら大丈夫」「セイコちゃんだったら乗り越えられる」と信じている。
セイコちゃんは透明感ではない、スターの輝きを放っている。セイコちゃんは最初からスター然として振る舞い、世間からは搾取や消費と見えるものも、本人はそれを許さなかったと。
■私が思い出す「天才少女占い師」
ここまでセイコちゃんと対比させてきたが、私はヒロスエを見ていると、真っ先に占い師として一世風靡した藤田小女姫(こととめ)さんを思い出してしまうのだ。
まだ彼女が11歳の頃、天才少女占い師として世に出た途端、その美少女ぶりも相まって大人気となり、瞬く間に時の人、時代の寵児となった。社会を揺るがす出来事を次々に的中させていき、政財界の大物を顧客にし、巨万の富も得た。
写真=iStock.com/undefined undefined
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/undefined undefined
だが成人すると3年で離婚し、経営していたサウナが火事になって死者を出し、有罪判決が下り、逃げるようにハワイに移住した。占い師は自分は占えないというのは定説だが、どうしてもそこを追及されてしまった。そして30年ほど前、ハワイの地で息子とともに殺害された。犯人は捕まって終身刑を受けたが、仮釈放が下りるとなった去年、同房者に殺害された。
断っておくが、ヒロスエと藤田さんは若くして大スターとなった激動の人生の美女、という共通点があるだけ。藤田さんのような晩年や事件とは無関係であると強調しておきたい。
だが藤田さんも凡庸な容姿であれば、どんなに霊感や占いの能力が凄まじくても、あれほどまでに顧客を掴めなかったのではと、どうしても思ってしまう。
彼女は占い師であるから、透明感ともまた違う神秘のベールのようなものをまとい、そしてまとわされていた。周りの、濁った欲深き大人たちによって。
顧客やファン、信者のようにもなった人たちは、間違いなく美少女の彼女に性的な目を向けていたはずだ。だが、彼らは、当時はまだそんな一般的に使われていなかったであろう、カリスマ性だのオーラだのそういった言葉や感覚に変換し糊塗(こと)していた。
■アイドルからカリスマになってほしい
藤田さんはセイコちゃん路線というか、ボーイッシュや中性的ではなく、ふわふわ可愛らしい、当時の世間が一般的に感じる女の子らしさを押し出していた。だが、それでもなお「神秘的な占い師」という別種の透明感をまとっていた。
その透明感の濁りは、離婚や火事にもたらされたが、猟奇的事件の最期によって、もはや透明と対極にある深い闇に包まれる存在となった。
しかし考えてみれば、透明というものは文字通り透き通っていて、遮蔽するものがない素通しであることを指す。ヒロスエの場合は繰り返すが透明感であって透明ではなく、みな自分が見たいように色付けして見ているのに、透明だと信じさせられる目くらましがあった。
彼女らを取り巻く透明と闇は、実像が見えないというところ、自分で想像したり補正したりするあたり、実は同じようなものかもしれない。
何で読んだか聞いたか、すぐ思い出せないのだが、かなり昔に知ってずっと覚えている言葉がある。アイドルは視線に守られ、スターは視線を跳ね返し、カリスマは視線をねじ伏せる。
それに当てはめてみればヒロスエはアイドル、セイコちゃんはスターだ。では藤田さんはカリスマかとなると、否、視線にねじ伏せられた側ではないか。
ヒロスエは今回の事件を機に、まだ透明を期待してくれる「視線をねじ伏せる人」になってほしい。
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岩井 志麻子(いわい・しまこ)
作家
1964年、岡山生まれ。少女小説家としてデビュー後、1999(平成11)年「ぼっけえ、きょうてえ」で日本ホラー小説大賞受賞。翌年、作品集『ぼっけえ、きょうてえ』で山本周五郎賞受賞。2002年『チャイ・コイ』で婦人公論文芸賞、『自由戀愛』で島清恋愛文学賞を受賞。近著に『でえれえ、やっちもねえ』(角川ホラー文庫)がある。
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(作家 岩井 志麻子)