とことん落ちて失うものはない…「本社を麹町の一等地から川崎へ」泉屋・先代社長にはできなかった決断を娘が【2025年3月BEST5】
2025年4月15日(火)16時15分 プレジデント社
「泉屋東京店」4代目社長の泉由紀子さん - 撮影=市来朋久
2025年3月に、プレジデントオンラインで反響の大きかった人気記事ベスト5をお送りします。キャリア部門の第1位は——。
▼第1位 とことん落ちて失うものはない…「本社を麹町の一等地から川崎へ」泉屋・先代社長にはできなかった決断を娘が
▼第2位 百貨店から追い出され「お徳用」を量産…「クッキーといえば泉屋」の知られざる栄光と転落
▼第3位 ようやく和式便器を洋式便器にできた…赤字続きの「トヨタの下請け工場」を蘇らせた"婿入り社長"のアイデア
▼第4位 だから13坪の「まちの本屋さん」は生き残れた…女性店主が25年前から続けている"超アナログ"な手法
▼第5位 愛車はフェラーリから軽バンになった…「殺処分に最も近い問題犬」を全国から引き受ける元実業家(54)の情熱
父の急逝により突如、「泉屋東京店」の4代目社長に就いた泉由紀子さんは、2027年に創業100周年を迎えようとしている。厳しい経営状態を引き継いだ当時を「ドン底までとことん落ちたのだから、もうこれ以上落ちることはないだろう。そう思ったら、失敗しようが何しようがやってみるしかない、そう開き直れた」という——。
(前編からつづく)
■顧客の年齢層をより下げていこう
クッキーの老舗である泉屋東京店の社長・泉由紀子さんは、20代の頃から役員に任命されて取締役を務めている。代々泉家の人物が率いる会社にとって、それは当然のなりゆきだった。
由紀子さんは約3年の社長秘書業務を経て、開発部に異動する。1999年の頃だ。
「開発部時代は、いろんなお菓子をつくりたいという野心がありました。でも、自分が手を動かしてお菓子をつくるわけではなく、あくまでも企画立案です。だからでしょうか、パッケージや詰め合わせのアイデアなどたくさん提案しても、ほとんどが却下されました。顧客の年齢層をより下げていこう、販路を今より広げようと毎日そればかり考えていましたが、結果的には社長の父がGoサインを出すものだけになりました」
■「お前が社長なら3カ月でつぶれるぞ」
それでも直談判する由紀子さんに、3代目泉邦夫社長は遠慮なく言い放った。
「お前に何がわかる」「そんなんじゃ将来、社長なんてやれない」「お前が社長になったら、泉屋は3カ月でつぶれるぞ」
もう、ただの親子の言い合いですよね。そんなふうにカラリと笑って振り返る由紀子さん。さすがは“ワンマン社長”の娘で、こちらも負けていない。
「今思うと、私は父と性格が似ています。父からそんなふうに言われると、口答えしたり、無視したり、話してもらちがあかないと思ったらパッとその場を立ち去ったり。恥ずかしながら、そんな態度でした。でも本心では、『なんでもっと時代の先を見て行動しないんだろう……』と冷静に感じることもありました」
その後、開発部で課長、部長と昇進し、ほどなく泉屋の常務になる由紀子さん。しかしこの時点でも、邦夫社長が経営実態をオープンにしていなかったことから、会社の売上や借入の実額を知るには至らなかった。
撮影=市来朋久
「泉屋東京店」4代目社長の泉由紀子さん - 撮影=市来朋久
■10期連続赤字の衝撃とメインバンクとの面談
そんな邦夫氏が倒れたのが2018(平成30)年の夏。記録的な猛暑が続く日々の中だった。
「父の入院中に、社のメインバンクから面談を求められたのです。私が一人で行くことになりましたが、その時初めて泉屋の経営実態を知りました。父から一切知らされていなかったので、面談前に経理担当に頼んで会社の借入金や社員の給料など実際の数字を教えてもらったんです。驚きました。10期連続赤字で、借金も相当あったんです」
メインバンクとの面談は厳しいものだった。すでに大きな借入がある中、毎年冬の繁忙期に備えて定期的に受けてきた短期融資を「今年はお出しできないかもしれません」。そこまで話は差し迫っていた。
「私ですら決算書を見て、これはかなりまずいとわかっていたところに面談で言われ、『私一人では決して決められない』。すぐにそう思いました」
その時はまだ、父が復帰すると思っていた。邦夫氏の病状は回復し、リハビリ病院の転院先まで決まっていたという。その矢先に急変し、亡くなってしまったのだ。
「9月に突然、亡くなりました。頭の中がまっしろになりながらも、とにかく父が絶大な信頼を置いていた専務に連絡し、そこから役員に伝えて……と、必然的に私が仕切っていくことになりました。葬儀の手配はもちろん、取引先やメインバンクへの連絡など、すべてが初めてのことばかりで、気づいたら泉屋の代表者の名義が私になっていた、というのが実感です」
■先代のワンマン経営が与えてくれた多くのこと
葬儀と同時に怒涛の日々が始まる。四方八方から「あなたが社長なんだから、決めてください」と決断を迫られる。そこからは「二度と戻りたくない壮絶な一年」だったという。一番の苦難は、メインバンクとの交渉だった。「御社の現状のままでは、短期融資は出せません」と、ストレートに言われてしまう。
「でも、そこが私の性格なんでしょうね、もう負けず嫌い(笑)。ドン底までとことん落ちたのだから、もうこれ以上落ちることはないだろう。そう思ったら、失敗しようが何しようがやってみるしかない、今まで父に反対されてきたことを今度は自分でできるチャンスじゃないの! そう開き直りました。万一ダメなら、資産を売却して整理して、廃業するしかない。でも今はまだぎりぎり試せる。顔を上げて気づいたんです、やる必要があることだらけだと」
失うものは何もない。良い状態で事業を継承したら、それ以上のことを目指さなければならない。しかし事態は真逆だった。先代の“ワンマン経営”が、翻って自分にやるべきことを与えてくれた。由紀子さんはそう腹をくくった。
撮影=市来朋久
「失うものは何もなかった」と語る泉由紀子社長 - 撮影=市来朋久
■会社のしくみを見直すことから始める
由紀子さんはまず、昔から家族ぐるみでつき合いのある“第二の父母”のところへ相談に行く。
「うちのように事業をしている御家族で、子どもの頃から御世話になっていました。恥をしのんで、泉屋の状況をすべて打ち明けたところ、『まさか、そんな状況になっているとは……』と。同時に『全面的に応援するから頑張りなさい』と、とても信頼できる方を紹介してくれました。会社のしくみを見直すことから始めた、と言っても過言ではありません」
それは父の苦労を辿る経験にもなった。泉屋が90年以上続いてきた意味であり、一つの組織継承の難しさを知ることでもあった。先代たちの願いと存在をとにかく痛感したという。
「正直なところ、『泉屋のクッキーは古めかしい』なんて思うこともあったんです。なんでイマ風のお菓子をつくれないんだろう、と。でも先代に思いを馳せてからは、むしろ泉屋の商品の良さを引き出していこう、社長になったからには、私がその良さを自由に引き出していける、そんなふうに考えが変わりました」
撮影=市来朋久
シンボルマークの浮き輪が施されている泉屋オリジナルのティースプーン - 撮影=市来朋久
■今や一等地にこだわる必要はなし
会社再建のために実際に行ったことは、主に次の3つである。
1つめは、ずばり「商品の値上げ」だ。「価格を上げれば顧客が去ってしまう」という社内の声にも、時間をかけて向き合った。
「適正価格を探ることから始めたんです。お菓子の原料の高騰もありますし、今の時代に見合ったお値段にしていこうと。同時にアイテムの整理も行いました。つくっても赤字になる商品は手放し、価格も種類も整理整頓していきました」
2つめは、一大決心だった「本社の移転」である。東京・千代田区麹町にあった本社を、神奈川県川崎市の製造工場に移転したのだ。「麹町三丁目一番地」に本社があることが泉屋の看板でもあったが、今やそんな一等地にこだわる必要はない。ましてや本社と工場が離れているせいで、これまでどれほど非効率であったかを冷静に判断し、思い切って本社を移した。これによって大幅なコストカットがもたらされた。
「父には絶対にできなかったことです。父にとって、泉屋は千代田区麹町にあるというのが大事でしたから。私の決断に、父が怒って蘇ってきても不思議じゃないくらいです」
そして3つめが、メインバンクの変更だ。
「創業以来のメインバンクを変えました。第二の父母の力を借りて心機一転、新しいメインバンクと金融策を立てていくことにしました。10期連続赤字だったものを3年後に黒字化する、という中期計画です。人間同士の話し合いをとことんさせてもらえたのが有難かったです」
■泉屋の常識は世間の非常識
由紀子さんが事業継承してから3年後、泉屋の経営は予定通り黒字化し、現在も売上をキープしている。
「ようやくスタートラインに立てました。これからやっと新しい挑戦ができるという感覚です」
どんなことに挑戦したいのだろうか。
「“宝の山”である生産部門の改革ですね。衛生面を保ちながら生産性を上げて、黒字化の幅をもっと大きくしていける余地があります。ただ、うちは良くも悪くも『泉屋の常識は世間の非常識』と言われているので、泉屋らしい生産性の上げ方をしていきたいです」
泉屋らしさとは、具体的にどんなことなのだろう。
「例えば、コールセンターもその一つです。お客様からの電話の受け答えを機械化している会社も多いですが、うちは昔ながらの一対一の対話方式です。高齢の方からのお電話は、ご注文ばかりではなく昔話になることも。1時間以上に及ぶこともあるんです。泉屋はお客様そのものも受け継がれていますから、こうしたことはとてもわが社らしいんです。創業者も喜んでいるんじゃないかと思います」
撮影=市来朋久
「泉屋はお客様そのものも受け継がれています」と泉社長 - 撮影=市来朋久
■リングターツに込めた物語づくり
創業100周年を迎える2027(令和9)年も見えてきた。一世紀という節目を4代目社長はどのように考えているのだろうか。
「創業者は人の喜ぶ顔が好きな人でした。お金もうけでもなく、イメージのための社会貢献でもなく、お菓子を通じてみんながつながることを望んでいた人。『家族団らんの中にある丸いお菓子』という願いがそのまま、『リングターツ』というメインのクッキーを生みました。今は家族のかたちが多様化していますから、お一人でも、夫婦やカップルでも、泉屋のお菓子がその人の人生のワンシーンに寄り添えればうれしいです。そのワンシーンから生まれるストーリーを考えながら、商品開発につなげています。ですから100周年は、物語づくりの節目でもありますね」
リングターツは、泉屋と聞いて誰もが思い浮かべる丸いクッキーだ。泉屋のシンボルマークである浮き輪をかたどっていることを知る人も多いだろう。「甘い浮き輪」が乗り越えてきた海は、決して甘い水ではなかったわけだ。だが、それを味わった4代目社長の笑顔はどこまでも優しい。
「最近鏡を見るとハッとするんです。ますます自分が父の顔に似てきたぞ、と(笑)。こうして今も、父と対話を続けているのかもしれません。突然に降りかかってきた社長承継でしたが、どうにかここまでやってきました。私自身の充電タイムは温泉めぐり。それも地元の共同浴場など、ちょっとマニアックなところが好きなんです。そんな気分転換もしながら、100周年に向けて人と人との物語をつないでいきたいです」
(初公開日:2025年3月8日)
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池田 純子(いけだ・じゅんこ)
フリーライター
ライター・編集者として、暮らしや生き方、教育、ビジネスなどにまつわる雑誌記事の執筆や書籍制作に携わる。新しい生き方のヒントが見つかるインタビューサイト「いま&ひと」主宰。
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(フリーライター 池田 純子)