「あいつが安田を潰すくらいなら俺が潰す」安田財閥創業者の四男VS日銀から来た雇われ専務の修復不可能な確執
2025年4月16日(水)16時15分 プレジデント社
安田善次郎の肖像(画像=『大日本帝国欽定人名辞典』/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
※本稿は菊地浩之『財閥と学閥 三菱・三井・住友・安田、エリートの系図』(角川新書)の一部を再編集したものです。
安田善次郎の肖像(画像=『大日本帝国欽定人名辞典』/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
■安田財閥の初代総帥・善次郎が大正10年に暗殺される
婿養子の安田善三郎(1870〜1930年)は、徒弟制度中心だった安田財閥に新風を吹き込もうとしたが、その本人が、1920年12月に安田家から追放されてしまう。そこでやむをえず、暫定的に長男・善之助を後継者として戸籍を整え、初代・安田善次郎は満82歳にして後継者問題を再考せざるを得ない状況に追い詰められる。
安田善三郎(画像=『今日の日本:1910年にロンドンで開催された日英博覧会の記念品」』望月光太郎著、リベラル通信社/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
ところが、その翌年の1921年9月、善次郎は国粋主義者によって暗殺されてしまう。大磯の別荘にいた善次郎は、朝日平吾(1890〜1921)という人物に面会を求められ、拒否するものの執拗な申し出に根負けして面会に応じた。朝日は善次郎に社会事業計画を話して寄付金を求めたが、寄付嫌いで有名な善次郎はこれを拒絶。すると、朝日は短刀で善次郎を刺殺し、自らも命を絶ってしまった。その懐には斬奸状と政府首脳等を批判する書状があったという。
■凡庸な息子が跡を継ぎ、実務者として結城豊太郎が入社
善次郎の急死にともない、長男の善之助が2代・安田善次郎(1879〜1936)を襲名して安田財閥の本社に当たる保善社総長に就任した。
2代・善次郎は中学校卒業後ただちに実務に従事し、1893年に満14歳で安田銀行取締役に就任。3年後の96年に頭取に昇格した。しかし、2代・善次郎は算盤や帳簿付けを習っただけで、ろくに教育も受けていない「名ばかり頭取」でしかなかった。
死後に安田財閥の社内報『安田同人会会誌 昭和11年12月 追悼号』で、その死を悼んだが、ビジネス上の業績はほとんど語られず、古典の蒐集や能楽への理解、寄付行為くらいしか讃えるものがなかった(だから、安田善三郎が婿養子に迎えられたのだが)。
安田財閥の経営陣は善次郎の急逝に狼狽し、外部から大臣級の人材を招聘(しょうへい)しようと考え、旧知の高橋是清に人選を依頼した。日本銀行総裁・井上準之助が高橋の依頼を受け、白羽の矢を立てたのが、日本銀行理事兼大阪支店長の結城豊太郎である。
■東大を出て日本銀行大阪支店長から安田本社に転じる
結城豊太郎(1877〜1951)は山形県の酒造家に生まれ、1903年に東京大学政治科を卒業。日本銀行に入り、秘書役、京都支店長、名古屋支店長を経て、18年大阪支店長、翌19年に日本銀行理事に就任した。
のちに大蔵大臣になった結城豊太郎(中央)(画像=『サンデー毎日』1937年3月7日号/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
1921年、結城は安田財閥に招聘され、安田保善社(財閥の本社)専務理事、および安田銀行副頭取に就任。事実上のトップに就いた。日本銀行総裁の推薦でやってきた結城に対し、安田財閥はあまりありがたく思っていなかったらしい。「大臣級の人物を」と頼んだのに、選ばれた結城が支店長級だったからだ。しかし、結城はヤリ手だった。
財閥組織は、①三菱・住友財閥のように巨大な本社から各事業部が分社化して財閥直系会社を設立し、残った本社が持株会社化するケースと、②財閥家族が個々の企業を設立・買収した後に、持株会社を設立してその下に各社を編入するケースがあるが、安田財閥は後者だった。
■結城は安田銀行など各社をまとめ、学卒者を大量採用する
後者の場合、人事や事業は各社バラバラで、資本的に繫がっているだけに過ぎないケースすらある。そこで、結城は保善社を頂点とした中央集権体制を形成して各社を支配し、安田財閥としての一体感を創出しようとした。保善社の業務機構を改革して人員を増員する一方、各社からの稟議・報告を厳格に実行させ、各社に経営方針を指示した。そして、全事業の人事を掌握し、各社間の首脳人事交流を円滑化、人材登用を容易にした。
さらに、安田財閥の閉鎖性打破のため、学卒者を大量採用。海外視察員制度を設け、毎年、3名程度の行員を海外に1年前後派遣して知見を広めさせた。
また、1923年に安田系銀行22行のうち、安田銀行・第三銀行・百三十銀行・明治商業銀行・日本商業銀行など11行を対等合併し、新生・安田銀行を誕生させた。これにより安田銀行は国内トップの銀行となった。
安田善三郎は初代・安田善次郎の意向を伺いながら、まずはちびちびと学卒者の縁故採用をはじめ、失敗した。しかし、善次郎の死後に招聘された結城豊太郎には、善次郎に気兼ねすることなく——というより、結城は善次郎の生前であっても、それを気にするような性格ではなかったが——安田財閥の閉鎖性打破のため、学卒者を大量採用、組織改革を断行した。自ら東京大学に赴いて安田への志願を訴える熱の入れようだった。1922年に30名の学卒者を採用し、24年には180名にも及び、以降、毎年100名の学卒者を採用し続けた。
写真=時事通信フォト
東京大学の安田講堂、初代安田善次郎の遺志を継いで結城豊太郎が建設に尽力した(=2024年12月20日) - 写真=時事通信フォト
■100年前の新卒採用は、銀行・保険各社に180人ていど
学卒者採用の対象は安田銀行のみならず、オール安田財閥だった。1924年の採用では、その内訳がわかっている。この年、保善社に就職を希望した専門学校以上卒業者は745名で、採用者は180名、競争倍率はおおよそ4倍。
そして、「180名の配属は、保善社22名、安田銀行121名、安田貯蓄銀行10名、日本昼夜銀行11名、帝国商業銀行4名、十七銀行、九十八銀行各1名、東京火災保険7名、帝国海上保険1名、共済生命保険2名であった」(『富士銀行百年史』)。さらに、安田銀行配属の121名は、帝国大系卒が75名、東京商大(東京高商の大学昇格)卒が11名、慶応、早稲田その他卒が35名という内訳であった(『竹村吉右衛門追想録』)。
出典=『財閥と学閥』
■結城の始めた改革に「これは面白くなりそうだ」と学生が応募
安田財閥が日本最大の銀行を誕生させ、学卒者の大量採用をはじめたことに、学生は好感を持って臨んだ。
1924年に東京商科大学(旧東京高商)を卒業して安田銀行に採用され、のちに安田生命保険社長に就任した竹村吉右衛門(1900〜84)の小伝によれば、
「昔の安田銀行は前だれ主義の旧式で、誰も大学出は行かなかった。ところが安田善次郎翁が大正10年の9月に、大磯の別邸で凶漢に刺殺された。そのあと安田の総帥として迎えられたのが、日銀の結城豊太郎氏です。その結城氏が、安田に入って大改革をやるという噂が立って、これは面白くなりそうだと思いましたね。ちょうど鳥なき里のコウモリみたいなものですね。
それに当時、三井銀行は慶応でなければだめで、慶応以外の者が入ったら、一生うだつが上がらないといわれていた。そんなふうだから、たまたま安田が全く白紙の状態で、人材を集めるというので、私もそれならばと志望したわけだ」(『竹村吉右衛門追想録』。文中の「鳥なき里のコウモリ」とは、すぐれた者や強い者のいない所で、つまらない者がいばることのたとえ)。
■安田銀行の「実家が太い」行員を海外視察制度で留学させた
結城は海外視察員制度を設け、毎年、3人程度の行員を海外に1年前後派遣して知見を広めさせた。『株式会社安田銀行 職員名簿 大正14年11月1日現在』『(同)大正15年11月1日現在』を見比べると、1925年派遣組が3人、翌1926年が2人と推定される。
そのうちの一人・卜部東次は「出発のとき、結城さん主催の壮行会で訓話みたいなものがあった。そのなかで未だに感銘深く思い出すのは、題目は与えてあるけれども、君らが外国に行く目的は、結局自分を磨くためだ。すぐ銀行の役に立つことがありやしないかと、ケチなことを考えていたら神経衰弱になる。自分の修行に行っていると云うことを忘れんようにして、広く世のなかを見てこいと言われたことです」(『富士銀行百年史』)と述べている。
対象は入行年次4、5年辺りから20年目の中堅まで様々であるが、富山の銀行頭取のお坊ちゃん・安念精一、貴族院議員の養子・佐々田三郎など実家の力も配慮されている感がある。
ちなみに、1923年の安田系銀行11行の大合同の際に合同事務係に選抜されたメンバーは「私(鈴木福男)の外、佐々田三郎、安念精一、安田久蔵、大平福夫、横田一雄、江口親憲、田中武夫、椙山俊郎、大沢信次、水渓文雄等の諸氏」(『安田同人会会誌 昭和11年5月 安田銀行創業60周年記念特輯号』)で、佐々田・安念・江口の3人が海外派遣に選ばれている(筆者が確認できなかっただけで、鈴木も選ばれている可能性が高い)。
安念は帰国後に調査部長に就任。他にも本部系の部署から出入りするケースが多かったと思われ、のちに役員に昇進したメンバーが多い。海外派遣が新たなエリートコースになった可能性が高い。
出典=『財閥と学閥』
■「安田を国家のために役立たせる」と言った結城の失脚
結城は「自分は国家的な観点から仕事をする。即ち安田のために仕事をするのではなく、安田の組織を、国家のために役立たせるやうに運用するのだ」(『安田コンツェルン読本』)と放言した。これはあたかも三井財閥における中上川彦次郎のような発想・姿勢である。
菊地浩之『財閥と学閥 三菱・三井・住友・安田、エリートの系図』(角川新書)
しかも、結城は中上川と同じく傲岸不遜で独断専行な手法でバンバンと改革の手を打った。ただ、中上川と違ったのは、中上川の上司で三井一族の長老・三井高保がかれを信頼し、庇護していたのに対し、結城は安田一族や番頭たちから信頼されていなかったことだ。
特に善次郎の4男・安田善五郎(1886〜1963)は「結城輩に金を使はれて安田を潰すくらゐなら、この俺が潰す。国家のために安田を利用して貰ふなどという目的で来て貰つたのではない」(『安田コンツェルン読本』)と憤慨。1928年1月頃には安田財閥内部で結城排斥の流れが表面化する(婿養子の安田善三郎ですら追放されたのだから、赤の他人の結城がそれ以上の改革を実施して追放されない訳がない)。
善次郎以来の番頭・竹内悌三郎が、推薦者たる高橋是清・井上準之助の間を奔走し、渋る両名を根気強く説得して、結城解任が決定的になる。冷却期間を設ける意味合いから、結城をいったん外遊させることになり、結城は辞任覚悟で1928年6月に外遊、翌1929年3月帰国し、正式に辞任した。
なお、結城は安田辞任後の1930年に日本興業銀行総裁に就任し、1937年2月に大蔵大臣、同年7月に日本銀行総裁に就任した。
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菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者
1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005〜06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『三菱グループの研究』(洋泉社歴史新書)など多数。
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(経営史学者・系図研究者 菊地 浩之)