夫婦2人の1カ月の生活費は3万円…昭和の名経営者・土光敏夫が貯めたお金をジャンジャン使った意外な投資先
2025年4月23日(水)8時15分 プレジデント社
土光臨時行政調査会(第2臨調)会長=1981(昭和56)年6月24日、東京・永田町のヒルトンホテル - 写真=共同通信社
写真=共同通信社
土光臨時行政調査会(第2臨調)会長=1981(昭和56)年6月24日、東京・永田町のヒルトンホテル - 写真=共同通信社
■経団連会長なのに寝室に暖房を設置しなかったワケ
「社員は3倍働け、重役は10倍、オレはもっと働く」
こう豪語し、石川島播磨重工業(現IHI)と東芝を再建し、経団連会長まで務めた土光敏夫。「ミスター合理化」と呼ばれ、戦後日本の高度経済成長を牽引した経営者として名を馳せた人物だ。
彼は経営手腕が多くのビジネス書で語り継がれるだけでなく、意外なB面——「メザシの土光」と呼ばれた徹底的な質素な食生活も知られるが、その倹約ぶりはおそらく皆さんの想像を超えているはずだ。
土光が住んでいた家は、太平洋戦争直前に建てられた3部屋だけの平屋建てだった。石川島播磨重工業社長、東芝社長、そして経団連会長という錚々たる肩書を持ちながらも、50年近くその小さな家に住み続けた。
驚くべきことに、この家には1980年代に入っても応接間以外には暖房設備がなかった。大企業のトップや経団連会長を務めた経済人の自宅の居間や寝室に暖房がないのだ。
「社長を務めた東芝は暖房器具をつくっているんだから、自社製品ぐらい買えよ」と突っ込みたくなるが、土光は冷静に説明する。
「別にケチでそうしていたのではない。家の中と外とで温度差が大きいと、かえってカゼを引きやすい。その点、うちは実に健康的で、ぼくはカゼをほとんど引かない」(『日々に新た わが人生を語る』、PHP研究所)
確かに健康的ではあるが、東京とはいえ冬を暖房なしで乗り切るのは並大抵の苦労ではない。しかし土光は「思想は高く、暮らしは低く」を実践し続けた。
■夫婦1カ月の生活費は3万円
土光の日常生活はまさに「倹約」そのものだった。
朝は4時か5時に起床し、30分間法華経を唱え、散歩と木刀振りで体を動かす。その後、新聞に目を通して6時半には家を出る。夜は酒席を避け、7時30分には帰宅し、11時には就寝した。
食事は質素そのもので、ゴハンは茶碗一杯、好物はメザシという庶民派。一汁一菜が基本で、野菜は自給自足していたため、なんと夫婦の1カ月の生活費はわずか3万円だったともいわれた。
写真=iStock.com/Thai Liang Lim
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Thai Liang Lim
『日経ビジネス』1974年6月10日号の「日米トップの所得比較」によると東芝会長(当時)だった土光の年収は昭和47(1972)年度が5612万円、同48(1973)年度が6162万円である。2年後の同じ特集では昭和49(1974)年度が6361万円、昭和50(1975)年度が4939万円とされている。
今でも年収5000万前後もらっている人などほとんどいないだろうが、時代は昭和50年前後だ。昭和47年のサラリーマンの平均年収は約115万円にすぎない。郵便はがきは10円で大卒の平均初任給が4万8600円、国立大学の年間授業料が3万6000円の時代である。そんな中、5000万円である。今でいえば2億円は軽く超えているだろう。それでも3部屋しかない暖房もない家に住み、銀座に飲みにも行かずに、メザシを食べる。「メザシの土光」と呼ばれるわけだ。
■服は新調せず、床屋にも行かず、移動は電車
ちなみに先の特集によると、昭和50年度の経済人のトップは大正製薬の上原正吉会長が10億7233万円、東急電鉄の五島昇社長が9億4256万円で続き、3位に松下電工会長の松下幸之助が8億3045万円で入っている。
土光はファッションセンスも独特だった。作業用のズボンはベルトの代わりに使い古したネクタイで締め、自宅の草むしりは業者を使わず、つぎはぎだらけの帽子をかぶり、上半身裸になって自ら行った。
服も新調せず、床屋にも行かず、息子に頼んで髪を切ってもらっていた。移動はハイヤーを使わずにバスと電車を乗り継ぎ、この生活を91歳で亡くなる数年前まで貫いた。
経団連会長時代には「経費削減」を掲げて来客用のエレベーターを一基だけ動かし、自身は80歳近い年齢にもかかわらず階段を使った。周囲の人々はさぞかし大変だったことだろう。
土光の倹約術はプライベートだけでなく、会社経営の場でも遺憾なく発揮された。
東芝の社長になった際には、トイレ付きの社長室を撤廃した。出張の際はお付きを伴わず一人で出かけ、社用車もなくし、バスと電車通勤で通した。
役員の個室も4人部屋に変えてしまった。いくら「モーレツ」が賛美された時代とはいえ、3倍働いて役員になっても4人部屋で10倍働かなくてはいけないなんて、少し同情してしまう。
■決してケチだったわけではない
第二次臨時行政調査会の会議では洋食弁当や大きな折詰めが出されたが、土光は量が多すぎて全部食べられないと思った時には、パンと牛乳を用意して、弁当は事務局の若い人に譲ってしまった。これを見た他の出席者は、土光の目を気にして無理してでも残さず食べたという。
しかし土光は決してケチだったわけではない。常識にとらわれずに無駄なことを嫌っただけだ。
興味深いことに、彼の質素な生活ぶりは、母親から強い影響を受けていた。母親は「国の基盤となる人を育てたい」と願い、70歳を超えてから周囲の反対を押し切って「橘学苑」という女学校を設立した人物だ。
土光は母親の死後、理事長に就任してその遺志を継ぎ、会社勤めで得た給料のうち、わずかな生活費を差し引いて残りをすべて学校運営に充てた。お金を貯めるのではなく、社会に還元していたのだ。
橘学苑は現在も神奈川県横浜市鶴見区に校舎を構え、創立者の教育理念「実践躬行」(知識だけでなく実行することの大切さ)を掲げて教育活動を続けている。土光は理事長として学校経営に携わるだけでなく、自らも講師として生徒たちに人生哲学を説いたという。彼の死後も、その精神は学校の校風として脈々と受け継がれている。
橘学苑中学校・高等学校、2007年3月24日(写真=Hykw-a4/CC-BY-SA-3.0-migrated-with-disclaimers/Wikimedia Commons)
■余ったお金は教育に
「生活はごく普通で、無駄な贅沢はしていないが、よく『土光さんみたいに、日本人がみなつつましい生活をしたら、日本経済は不況になり、失業者が増える』と言われる。カネをためてタンスの引き出しにしまい込んでいるのならともかく、使うべきところには使っている。余ったお金は、母親から継いだ橘学苑のほうに回している」(同前)
「無私」の心で、人を育て、良い世の中をつくりたいという理想を掲げ突っ走る。これは何も著名な経営者になってからのスタイルではなく、土光の場合、一貫している。
土光は石川島造船に入社後、純国産船舶用タービンの開発に没頭した。それこそ、睡眠時間を削りに削り、眠る以外の全ての時間を開発に捧げていた。そうした中でも唯一、土光が時間を割き続けたことがある。教育だ。
仕事が終わると、やる気のある少年工を集めて、機械工学や電気工学を教える「夜間学校」を手弁当で開校したのだ。少年たちがお腹が空けば自腹でごちそうした。
少年たちに対する気配りや愛情もあっただろうが、ひとりひとりの技術力が上がらなければ造船所全体、国全体の技術力も上がらないという土光なりの考えがあった。
■的中した「名経営者の預言」
土光の経営哲学の根本には「60点主義で即決せよ。決めるべきときに決めぬのは失敗」という言葉がある。
最初から完璧を求めず、とりあえず着手する姿勢を重視した。この60点主義は「完璧を目指して何も始められないより、まずは行動し、後から修正していく方が結果を生む」という実践的な知恵だ。土光は「100点を取ろうとして0点になるよりは、60点でも取った方がいい」と説いた。
この哲学は私生活にも一貫して反映されていた。日常生活においても「今、本当に必要なものは何か」を常に問い、必要最低限の生活環境で満足し、余計なものを求めなかった。暖房のない家に住み、質素な食事で満足したのも、「まずは最低限のもので始め、本当に必要なら加えていく」という姿勢の表れだった。
しかし、多くの場合、彼にとって「必要最低限」以上のものは不要だった。結果、無駄を省いた質素な暮らしが続いた。
彼の質素な暮らしは単なる倹約ではなく、本質的なものだけを追求する姿勢の表れだった。
土光は晩年、日本の将来をこう危惧していた。
「みんなの生活は豊かになったが、このままでは二十一世紀の日本はどうなるか。物質的に豊かになったけれど、心がなくては困るでしょう。豊かであることと贅沢とは根本的に違うことなんだ。贅沢するから文化が上がるのではない」(同前)
1988年、バブル経済の真っただ中に土光は91歳で亡くなった。「心がなくては困るでしょう」と彼が懸念したとおり、日本経済は狂乱の時代へと突き進んでいった。
他人の目を気にせず、本質を見つめ、実行する。「無私」の心で社会に貢献し続けた「メザシの土光」の生き方は、令和の今こそ学ぶことが多いのではないだろうか。
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栗下 直也(くりした・なおや)
ライター
1980年東京都生まれ。2005年、横浜国立大学大学院博士前期課程修了。専門紙記者を経て、22年に独立。おもな著書に『人生で大切なことは泥酔に学んだ』(左右社)がある。
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(ライター 栗下 直也)