魚市場の食堂に大行列ができる…儲からない「2000円のマグロ食べ放題」を続ける元金融マン社長の流儀
2025年4月23日(水)8時15分 プレジデント社
土浦魚市場食堂。2000円のマグロ食べ放題を目当てに、大勢の客が列を作っている - 筆者撮影
筆者撮影
土浦魚市場食堂。2000円のマグロ食べ放題を目当てに、大勢の客が列を作っている - 筆者撮影
■テレビ番組の「人情社長」を求めて茨城へ
土曜朝6時から大行列ができる食堂が、茨城県にある。テレビ番組で紹介された『土浦魚市場食堂』だ。2000円でマグロ食べ放題、当日が誕生日の顧客には3000円相当の魚をプレゼントする大盤振る舞いで、早朝から長蛇の列ができるという。
魚市場の社長は元金融マン。テレビの取材を受け、「右も左もわからないころに助けてくれたお客さまへの恩返しのため、『採算度外視』でサービスしている」と語った。
「たとえビジネスとして大きく儲からなくても、苦しいときに助けてくれたお客様のために」。そんな人情物語を求め、「土浦魚市場食堂」を訪れることにした。
日本列島を大寒波が襲った2025年2月8日、朝7時の気温はマイナス1℃、よく見れば雪までチラついている。それでも魚市場食堂には、既に50人以上の客が列を作っていた。
「採算度外視でやっていたら、ビジネスなんて続かないでしょ」
社長の掛札尚樹さん(筆者撮影)
挨拶もそこそこに、テレビで見た「人情社長」掛札(かけふだ)尚樹(なおき)さん(59)は言った。北関東特有の波打つような発音のおかげで、言葉の印象は柔らかいが、市場全体を見渡す目は鋭く抜かりない。
テレビ番組で「人情社長」として描かれた男性は、鋼のメンタルを持ち、元金融マンらしい戦略で経営危機を乗り越えてきた、「鉄の男」だった——。
■バブル崩壊後の金融業界から転身
掛札尚樹さんは、1965年茨城県東海村で理髪店の息子として生まれた。自営業の両親の期待をよそに、高校卒業後は理髪店ではなく地元の金融機関へ入社する。1983年、当時は第二次オイルショック後の景気停滞を抜け、日本という国がまさにバブルに向けて大きく伸びあがろうとしていた時期。金融業に決めたのも、事業として先行きの明るさがあったからだ。
社内の成績も悪くなかった。入社7年目には、25歳で社内結婚をする。1990年当時、日本の預金金利は8%。従業員の待遇もよく、掛札さんの所属する金融機関では年間ボーナスが給料の8カ月分あったという。バブル経済絶頂期、誰もが日本の終わらない経済成長を信じていた時代だった。
ところがこの年を頂点として、日本経済に影が差し始める。時を同じくして、掛札さんの金融マンとしての思いも陰り始めていた。当時のことを聞くと、掛札さんは少し言いにくそうに口を開いた。
「結局銀行も客商売でしょう。客商売をやるときは、お客さんの方を見ていなきゃならない。なのに銀行では、自分の出世ばかりを気にする。客商売なのに、見ている方向が違うんだね。……まあ、そんな環境でもパフォーマンスを出せる能力が、俺にあればよかったんだけどね」
■ハマチも、カンパチもわからない状況だった
少しずつ金融の仕事に失望を重ねていった掛札さんは、遂に退職を決意した。1997年、32歳のときだった。
「妻の実家が、この魚市場でね。義父が社長をやっていた。自分で一から商売を立ち上げる度胸はなかったけれど、俺には運よくこの市場があった。自分のやり方が正しいかどうか、ここで試してみたいって思ったんだよ」
金融機関を辞めた理由を掛札さんは、「逃げた」と表現する。しかし、逃げ込んだ先には、生き馬の目を抜くような世界が待っていた——。
「それからはテレビでも話したとおり、ハマチもカンパチもわからない状況からスタートだった」
魚のせりが行われる市場は、当時隙あらば相手を出し抜こうとする仁義なき世界だった。毎週義父と共に築地市場へ魚を競り落としに行くが、義父は何も教えてくれず、「見て覚えろ」と言うばかり。魚について無知だった掛札さんは、簡単にだまされ、出し抜かれた。
魚のせりには、現物を見て値を競う「現物せり」と、商品の見本だけを見せる「相対売り」がある。しかし当時は見本と現物が同じものとは限らなかった。
「見本の魚は氷がびっしり詰まった箱に入ってるから、俺から見れば新鮮に見える。しかし、いざ競り落として実物の箱を開けてみると、氷なんて溶けて一つも残っていないんだ」
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賑わう魚食堂の隣で、黙々と作業を続ける掛札さん - 筆者撮影
■取引先の店主たちに助けられた
輸送技術がそれほど発達していなかった当時、遠方から市場に届く魚の中には、輸送の間に氷が解けて、魚の鮮度が下がってしまうものもあった。しかしせりでは氷をたっぷり入れ直した見本を見せられる。魚を見てその鮮度を判断できなかった掛札さんは、氷のある、なしで判断するしかなく、鮮度の下がった魚を掴まされることもよくあった。
「だまされたとわかれば、徹底的に相手に噛みついたよ。『こいつをだますと面倒なことになるぞ』と思えば、二度とだまそうと思わなくなるから。相手に電話して、怒鳴り散らしたりしてね」
だまされるたびに助けてくれたのは、自分で開拓した取引先の店主たちだった。
「いいか、こんくらいの魚を、このぐらいの値段で買ってくるんだぞ」
「もういい加減だまされずに、市場からいい魚を買ってこいよ」
「この値段じゃ田舎では通用しねえから、これくらいまで値切らなきゃだめだぞ」
「俺が言ってるのはそんな魚じゃねえぞ。真っ黒で目が光ってるのが鮮度のいい魚なんだ」
休みの日があれば、たいていスーパーや飲食店などの取引先へ顔を出していた。店主たちはそれぞれどんな魚を求めているのかを掛札さんに根気よく教え、失敗しても悪態を一つ二つついて、許してくれた。
「お客さんによって、求める魚は違う。とにかく質の良い魚を、値段にこだわらずに求めるお客さんもいれば、どんな魚でも料理の腕で加工できるから、なるべく安い価格を求めるお客さんもいる。安ければいいわけじゃない。お客さんの方を向いて、お客さんが求める魚を競り落としてこなきゃだめなんだ」
叱咤激励してくれる店主たちのアドバイスを吸収し、掛札さんは鮮魚店としての目利き力を上げていった。同時に金融マン時代に培った営業力で、新規の取引先もどんどん開拓した。
お客さんの方を向いて客商売をしていれば、数字はついてくるはず——。金融機関でも魚市場でも、掛札さんが信じた商売の鉄則だった。
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列は時間が経つほど長くなっていった - 筆者撮影
■生き残るための食堂
2000年代前半、土浦魚市場に転換点が訪れる。当時の小泉政権下で行われた「骨太の方針」により大型スーパーやコンビニへの規制緩和が進み、個人店の経営が厳しくなっていったのだ。
もう、一つの事業だけをやっていればいい時代じゃない。生き残りを掛け、魚市場も模索を始める。そして、事業の多角化のために始めた施策のひとつが、食堂だった。
当初は早朝市場に来る取引相手の業者に対して、安く朝ご飯を提供することが目的だった。白ご飯と味噌汁におかず一品で100円、蕎麦やうどんは200円。しばらくして、当時は珍しかったマグロ食べ放題を1000円で提供し始めたことで口コミが広がり、人気店になっていく。
「食堂を始めたのも、マグロの食べ放題を提案したのも会長(義父)だった。彼は戦後世代なので、とにかく安いものを出して、お客さんを喜ばせたいと考えていた。しかし、もう安ければ何でもいいという時代じゃない。お客さんの好みに合うものを提供しなければ、喜ばないでしょう」
自分のやり方を信じた掛札さんは、食堂のお客さんにアンケートを実施した。どんなものが食べたいか、海鮮丼のご飯は白飯がいいか、酢飯がいいか……。その意見を取り入れてメニューも変えていった。
「マグロ食べ放題といっても、そんなにたくさん食べられる人は多くないし、常連さんなら別のメニューを選ぶからね。そのときどきで安く手に入る魚をメニューに入れる。野菜なども地元から安く手に入るものを使う。『採算度外視』では、ビジネスは続けられないから、頭を使わないとね」
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安いだけではダメ。お客さんを向いた商売にこだわる - 筆者撮影
■大規模店に押され、取引先が大量倒産
結局「数字」が全てなのだと、掛札さんは繰り返す。ときに義父と意見がぶつかることもあったが、そのたびに「数字」が掛札さんの後ろ盾となった。
「お客さんから見て、何かいいことがあるから売り上げの数字が上がるんだよ。努力を評価しないわけじゃないけれど、努力していてもやり方が間違っていたら数字がついて来ない。結果として数字に現れてくる方向に、努力しなきゃダメなんだよ」
2008年、掛札さんは43歳で代表の座に就いた。義父は会長となり、掛札さんの経営方針に口を挟まなくなっていく。
「このころから、俺は変わったんじゃないかな。人によっては、『冷たくなった』と思うかもしれない」
掛札さんを変えたのは、小規模店舗の大量倒産だった。小泉内閣の構造改革の下、土浦にも大規模店舗が進出し、主な取引先だった個人スーパーやホテルなどは次々と閉店に追い込まれた。
近隣に出店した全国チェーンの大型スーパーでは、その組織力を生かして卸しを通さず直接漁業者と取引する「浜直取引」を始めた。その結果業界に価格破壊が起こり、デフレが加速。小規模店舗が、その価格競争に太刀打ちできるわけもなかった。
「取引先がバタバタ倒産してしまうと何が大変かっていうと、回収できない売掛金が大量に発生してしまうことなんだ。当時は付き合い優先の昔の名残でね、末締めの2カ月後払いなんてのは当たり前、なかには3カ月後っていうところもあった」
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魚市場に並ぶ鮮魚 - 筆者撮影
■思い、人情だけでは生き残れない
2カ月、3カ月先まで売り上げが入ってこない。さらに世話になった取引先に支払いを待ってくれと頭を下げられれば、受け入れざるを得なかった。しかし、売掛金も貸付金も限界まで膨らんだところで、取引先は風船がはじけるように次々と倒産していった。
「あのときは相当勉強させてもらったよ。あれから古いやり方を変えた。思いや人情があったとしても、ビジネスとして考えたときに、ダメなものはダメなんだと」
「お客さんの方を向いて商売していればうまくいく」という信念だけでは、この先生き残れない。
吹きさらしの市場で、食堂に並ぶ客の列はどんどん長くなっていった。いつの間にか駐車場の誘導係が数人立っており、次々と入ってくる車をさばいている。掛札さんによると、食堂には毎回1000人前後が訪れるそうだ。空は分厚い雪雲に覆われ、昼時になっても日光は弱々しい。強い風が市場に積まれた段ボールの山をまき散らし、インタビューは一時中断された。段ボールの回収を手伝っていると、ふと背後から袖を引かれた。振り向くと、小学校低学年ぐらいの女の子が立っていた。掛札さんの孫だという。
「これからおじいちゃんに算数を教えてもらうの」
毎週土曜日はここにきて、仕事の合間におじいちゃんに算数を教えてもらうそうだ。不撓不屈の精神で経営危機を乗り越えてきた「鉄の男」の、意外な一面を見た気がした。
——だから、インタビューを早く切り上げてね。
暗にそう言いたいのだろう。見返りとして赤い飴をひとつ、受け取った。
風の強い市場から事務所内に場所を移して、取材を続けた。エアコンで室内が温まるまで、掛札さんが買ってくれたホットの缶コーヒーを飲んで寒さをしのぐ。先ほどの少女がいつの間にか事務室前の廊下までついてきて、窓から手を振っていた。寒い廊下で風邪を引かないだろうかと心配になる。「言っても聞かねえから、好きなようにすんべ、っていつも言ってんだよ」と掛札さんが教えてくれた。
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受け取り口に並んだマグロ食べ放題の定食 - 筆者撮影
■「声がかかった品物は絶対に断らない」
次に「鉄の男」を襲った危機は、新型コロナウイルスによるパンデミックだった。
「あの時は大変だったよ。最初のひと月で30%以上の利益が落ちたからね」
実質無利子・無担保融資、いわゆる「ゼロゼロ融資」を申請して一時的な経営危機を凌いだが、一度目の緊急事態宣言が明けても、客足は戻らない。当時従業員65人を抱える大所帯になっていた会社は、大きな決断を迫られた。
「従業員が、みんな『休みたくない』って言うんだからしょうがない。うちはみんな早朝から働いていて、基本給に割増賃金がつく。国から基本給に対して補助金が支給されたって、それだけじゃ生活できないってみんなが言うから、『じゃあ、俺が考えることを全てやるから、文句言うんじゃねえぞ』って肚を決めたんだ」
「利は元にあり」。取材中何度も口にした言葉のとおり、掛札さんがまず取り組んだのは、利益率の調整だった。そうは言っても、単に安いものを高く売るのでは客が離れてしまう。築地や豊洲などの市場では、その日によってよく売れるものもあれば、売れないものもある。魚は生ものなので、業者は何としても売り切りたい。
「そういう業者ってのは、『ここにお願いすればまとめて買ってくれる』っていう相手を決めている。だから俺は、声がかかった品物は絶対に断らないって決めていた」
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市場の裏側まで列が伸びていた - 筆者撮影
■新しい卸先に挑む
同時に、病院や老人ホームへの卸しの仕事を始めた。取引先の飲食店の多くが休業している一方、施設関係からは変わらず需要がある。ただし、通常高齢者や身体の弱った方に提供する商品は、誤えん事故が発生しないように細かく刻まなければならないなど、手間もかかれば気も使う仕事でもあった。
「いいか、一度始めたらやめられないからな。それでもお前らが働きたいっていうからやるんだから、文句言うんじゃねえぞ」と、従業員に念を押し、取引を開始した。
コロナが明けるまでの約2年半、従業員を休ませることも辞めさせることもなく、事業を続けた。従業員には、「ひとりでもコロナにかかったら、うちの事業は成り立たなくなるからな」と告げて緊張感を持たせ、収束まで社内での感染を抑え込んだという。
それでもこの期間、会社は売り上げを大きく落とした。一番ひどいときには年間6億円程度下がったが、取引先の営業再開、新規開拓、食堂部門の集客力により、その落ち込みをコロナが明けた1年後には元に戻したという。
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おかわり小屋 - 筆者撮影
■なぜ儲からない「食べ放題」を続けるのか
「数字が全てだからな」
掛札さんは、インタビュー中に何度もこの言葉を繰り返した。
確かにこれまで掛札さんは、数字を上げることで社員の生活を守り、事業を継続してきた。事業を継続することは、結果的に顧客の利益に貢献し続けることにもつながるだろう。しかし、数字が全てなら、なぜマグロ食べ放題を2000円で提供し続けるのか。先日大手ファミリーレストランが期間限定で本マグロの食べ放題プランを開始したことが話題になったが、それでもコースは120分限定で、牛肉・豚肉と組み合わせて5000円以上だ。
本マグロとマグロの違いはあっても、週に一度従業員を総動員して時間無制限でマグロ食べ放題を提供するなど、数字だけを考えていてはできない。多少の利益は出たとしても、人件費と材料費を補えるかどうかだろう。「鉄の男」なら真っ先に切り捨てかねない事業を、なぜ20年以上続けているのか。
「会長から、『商売ってのは、人に来てもらってなんぼだろう』って、よく言われたからな」
数字を追い続ける掛札さんに、よく義父である会長がかけた言葉があったという。
——あんたは利益がどうのって言うけんど、あんただって自分が儲かった、メリットがあったところにまた行くでしょう。当然商売だから人件費とか最低限の経費分ぐらいは利益を出さなきゃしょうがないけんども、お客さんに喜んでもらって、喜んでもらったお客さんがまた来るっていうのが、商売だからな——
義父の言葉を、掛札さんはよく覚えていた。
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マグロをさばく従業員。早朝から大忙しで休む暇はなさそうだった - 筆者撮影
■本業の「数字」があってこそ
時代の波に押され、取引先だった小規模店舗は減っていったが、掛札さんが病院や老人ホームにまで取引対象を広げたことで、卸売業の業績は伸びている。現在はテレビの影響で食堂の売り上げも順調だが、それでも事業全体の5%程度に過ぎず、95%は卸売業が担っているという。
「『採算度外視』ってわけじゃないけど、食堂を続けるためには、こっち(卸売業)でしっかり数字を出していかなきゃな。食堂に来るお客さんにも魚を買ってもらえるような仕組みを作らないと」
かつて義父が「取引相手であるお客さんに、腹いっぱい食べてほしい」と採算度外視で始めた食堂事業。利益率の低いこの事業を継続するためには、本業である卸売業で企業努力をしてしっかりと利益を出す必要があるということか。
「苦しいときに助けてくれたお客様のために」。あのテレビ番組の演出も、案外的を射ているのかもしれない。この食堂は掛札さんにとって、恩返しの手段なのだろう。
食堂を訪れる客が増えると、その分待ち時間も長くなる。そこで、並んでいる時間も楽しんでもらえるよう、3000円相当の魚セットをかけたじゃんけん大会を始めた。また、グループ客が順番に列を抜けて買い物できるよう、小売りスペースも充実させた。顧客に「また来たい」と思ってもらうためにはどうすればいいか、掛札さんは常に考えている。
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じゃんけん大会。この日の優勝賞品はカキ、サバ、アジなどが入った魚セットだった - 筆者撮影
■「今が一番の危機かもしれない」
魚市場に入ってから27年、掛札さん自身、これまでに体調を崩したり、心が折れたりしたことはなかったのだろうか。
「身体は丈夫な方だろうね。これまで大きな病気一つしたことないから。休みの日は山登りに行ったり、ランニングをしたりして、体力も維持してる。人間だからくじけそうになることもあるけれど、まあしぶとい方だろうな。くじける前に何をすべきかって、いつも考えてるから」
「鉄の男」は現在59歳。息子と娘婿が次世代として事業をサポートしている。
温まった室内で、インタビューは終わろうとしていた。外ではまだ少女がこちらを見つめている。待っている間に折ったのか、折り紙で作った「バネ」のおもちゃを嬉しそうに窓に押し付けた。
帰りに掛札さんが車で駅まで送ってくれるという。極寒の中、重いカメラを背負ってバスを待つのがつらかったので、ご厚意をありがたく受け取った。
「これから、この業界はどうなっていくと思いますか?」
世間話の流れで聞いてみた。
「食べ物商売だから、全くなくなるとは思ってないよ。でもね、そこまで稼ぎは出ない時代になってくるとは思う」
10年ほど前から、地球温暖化の影響で今まで採れた魚が日本近海で採れなくなってきた。そのうえ、新型コロナ後の物価高が事業を圧迫している。1箱2000円だった生イカが、今は8000円から1万円。1キロ1500円程度だったすじこは、9000円まで高騰している。今が一番の危機かもしれないと、掛札さんは言う。
■人情と数字の狭間で
体力もあり、鋼のメンタルを持つ掛札さんなら、また乗り越えられるだろうと、励ます意味を込めて答えた。
「実は先日トラックから降りる際に転倒して、左腕を骨折してね。なかなか治らず、その間運動もしていなかった。今は治っているけれど、それ以来運動する気も起きなくなってね。……歳なのかもしれないな」
「鉄の男」が初めて漏らした弱音は、レコーダーには残らなかった。
最後に銀行員をやめて魚市場に入ってよかったかと聞くと、掛札さんは答えた。
「間違った選択なんてない。選択した後に、やり方を間違うだけだ」
その表情は、既に「鉄の男」に戻っていた。
掛札さんの車が遠ざかっていく。これから市場に戻り、かわいいお孫さんに算数を教えてあげるのかもしれない。受け取った赤い飴が、まだポケットに入っていることを思い出した。
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宮﨑 まきこ(みやざき・まきこ)
フリーライター
立命館大学法学部卒業。2008年より13年間法律事務所勤務後、フリーライターとして独立。静岡県在住。
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(フリーライター 宮﨑 まきこ)