戦国最強武将は謝罪の方法もすごかった…遅刻に激怒していた豊臣秀吉が思わず許してしまった伊達政宗の服装

2025年4月23日(水)17時15分 プレジデント社

仙台市博物館所蔵の伊達輝宗像(写真=仙台市博物館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

戦国時代の武将、伊達政宗はどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「秀吉や家康の配下になっても、あわよくば天下を狙う姿勢を持ち続けた。そこには政宗なりの冷徹な合理主義があった」という——。

■3代将軍家光の「待った」に政宗が放ったひと言


すでに大平の世を迎えてのちのこと、3代将軍徳川家光と伊達政宗は固い信頼関係で結ばれていたといわれる。ある日、家光に招かれ、将棋の相手をしていた政宗は、家光にたびたび「待った」をされると、それでは「城ノ後カラ這入(はい)ルゾ這入ルゾ」と口にした。将棋にかこつけて、江戸城の後ろに弱点があることを示唆したというのだ。


この逸話は江戸後期に肥前平戸藩主、松浦清(静山)が記した随筆集『甲子夜話』に出てくる。ここに書かれた話は聞き書き、実見談、風聞など多岐におよび、この逸話も史実かどうかわからない。あるいは将棋の相手は、2代将軍秀忠だったのかもしれない。


というのも伊達政宗は元和6年(1620)、秀忠に命じられて神田山を掘削する工事を開始している。現在、JR御茶ノ水駅は地表より低い場所に設置され、その前に深い渓谷のような断崖があり、下を神田川が流れている。じつは、あの川は神田山を掘削して通された人工の堀で、政宗を皮切りに伊達家が工事を担当したため、仙台堀とか伊達堀とも呼ばれる。


いずれにせよ、「城ノ後カラ這入ルゾ」という政宗の言葉は、この武将がそれ以前から、ある目的をもって江戸城の弱点を見通していた、ということを示しているのではないだろうか。


■目的のためには実の父も殺す


永禄10年(1567)8月に生まれた政宗が家督を継いだのは、本能寺の変から2年後の天正12年(1584)10月、数え18歳(満17歳)のときで、以後、急激に勢力を拡大した。その際に採った戦術は、現代の感覚からすると、あまりに残酷で衝撃的なものが多い。


たとえば、家督を継いで1年に満たない天正13年(1585)8月、小浜城(福島県二本松市)の城主、大内定綱と対立すると、その支城の小手森城(二本松市)を攻め、8000丁の鉄砲を撃ち放って、城中の者を老若男女の別なく皆殺しにした。この「撫で斬り」は見せしめだったといわれ、実際、近隣諸国は肝を冷やしたに違いない。


続いて、大内定綱と組んでいた二本松城(二本松市)の城主、畠山義継が和議を申し出たのちのこと。和議を取りなした政宗の父、輝宗が義継に拉致されたのだが、政宗はすぐに義継を追うと、義継一行を銃撃して皆殺しにした。父の輝宗ももろともに、である。


仙台市博物館所蔵の伊達輝宗像(写真=仙台市博物館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

これについては、輝宗が「自分に構わず敵を撃て」と命じたとも、邪魔な父を片づけたのだともいわれるが、いずれにせよ、目的のためにはどんな残酷な手もいとわない、という政宗の冷徹な合理主義が貫かれていると思われる。


■お家騒動を避けるためにとったエグイ行動


以後、奥州では蘆名氏や佐竹氏を中心に反伊達同盟ができ、政宗との対立は激化するが、政宗は父の初七日法要が終わると、自分が殺した父の弔い合戦と称して二本松城を包囲。反伊達連合軍3万に対し7000余りの兵力で分が悪かったが、政宗は二本松城を落城させ、その名を奥州にとどろかせる。


その後、いくつかの戦いや和睦を通じて、天正19年(1591)には家督を継いでわずか5年で、奥州のほぼ全域を制圧している。だが、そこに立ちはだかったのが豊臣秀吉だった。


秀吉はすでに天正15年(1587)には、関東と奥羽に惣無事令を発し、私戦を禁じていたが、政宗は従わなかった。上洛の求めにも応じなかった。しかし、秀吉が小田原の北条氏を討伐する段になると、そこへの参陣要請は無視できなくなった。断れば、次は政宗が討伐の対象になることが明白だったからである。


だが、こうした危機を迎えると、政宗の豪胆さが明らかになる。小田原征伐の天正18年(1590)、弟の政道が急死したが、お家騒動のタネを消すために政宗が殺したといわれることが多い。ただし、その確証はないが、小田原に参陣する前に家督争いのもとを断ったのだとしたら、やはり冷徹な合理主義に貫かれた政宗らしい用意周到さだといえる。


小田原城天守閣(神奈川県小田原市)(写真=663highland/CC-BY-2.5/Wikimedia Commons

■独特な遅刻の謝罪法


さて、政宗は小田原征伐に遅参したが、理由は弟が命を落としたトラブルのせいだともいわれる。そして、反省の意を示すために死に装束で秀吉と謁見したという話は有名だ。しかも、遅参を問責にきた前田利家に対し、千利休から茶の指導を受けたいと所望したという。


秀吉は死に装束の政宗の首を杖で突いて、「もう少し遅れていたらこの首はなかったぞ」といったとされるが、要は、秀吉の心をとらえたということだ。また、茶の指導を所望する心意気も、秀吉が気に入ったとされる。これらはみな、秀吉の性格を読んだうえでの行動だったとも指摘される。


結果として、約114万石から約72万石へと大幅な減封を余儀なくされるが(その後、58万石へと再減封)、切腹を命じられても不思議ではない状況を、うまく乗り切ったのは間違いない。その間も、豊臣政権に反対する一揆を政宗みずから扇動するなど、秀吉一辺倒にならず、常に並行してほかの可能性を考えていた。


だから、秀吉に臣従しながらも、秀吉が死去するとその遺言を破り、長女の五郎八姫を徳川家康の六男、忠輝と婚約させている。関ヶ原合戦に際しては、東軍に与して上杉景勝攻めに参戦した。


だが、その際も、叔父である最上義光から援軍要請が出ていたのに、最上軍と上杉軍をぎりぎりまで戦わせ、最上軍が破れて上杉軍が疲弊したタイミングで、領土を総取りする作戦を立てていた。関ヶ原で東軍があっけなく勝利し、上杉氏も降伏したため、策略どおりにはいかなかったが。


■「家康の天下」でも諦めていない


関ヶ原合戦が終わった時点で、政宗は数え34歳(満33歳)。もう少し早く生まれていれば、天下取りで秀吉や家康の強力なライバルになったのだろうが、天下の夢はいったん破れたかのように見えた。しかし、政宗にとっては、まだ夢が続いていたと思われる。


前年に大坂夏の陣で豊臣氏が滅んだ元和2年(1616)正月、豊前(福岡県東部と大分県北東部)小倉藩主だった細川忠興は、息子の忠利に次のような急ぎの書状を送った。「政宗之事、今に色々申候、ざうせつともまこと共しれ不申候、内々陣用意可然候」。


政宗についていろいろいわれ、嘘とも本当とも言い切れないから、出陣の準備をしておいたほうがいい、というのである。


種々の史料からも、この時期に家康の命で、秀忠が政宗討伐を検討していた様子がうかがい知れる。原因は政宗の娘婿であった家康六男の忠輝が、大坂夏の陣への遅参を責められた際、政宗が大坂方に通じていたと讒言(ざんげん)したことにあった。


家康の怒りを解くために、政宗は元和元年2月、駿府に家康を訪ねて疑いを解いたが、家康はその2カ月後に没した。秀忠は一人で政宗に対峙するのが怖くなったのではないだろうか。その後の鎖国政策を見ると、そう考えられる。


■伊達と豊臣で徳川を挟撃


周知のとおり、政宗はスペイン帝国との通商を企図し、軍艦サン・ファン・バウティスタ号を建造し、慶長18年(1613)に支倉常長ら一行をメキシコ、スペイン、ローマへ派遣した。この時点ですでに家康は禁教令を発していたが、通商にもまだ期待を寄せていて、貿易の条件として布教を求めるスペイン側の要請を断り切れてはいなかった。


クロード・デリュエ画、サン・ファン・バウティスタ号は1617年、支倉常長と共に描かれている。ガレオン船の帆の先端、支倉の旗(オレンジ色の旗に赤い鉤十字)が見える(写真=663highland/CC-BY-2.5/Wikimedia Commons

だから政宗は、家康の許しを得て、領内での布教を容認してスペインとの交渉を進めることができたのだが、逆にいえば、それはまだ大坂に豊臣氏がいて、徳川政権が盤石ではなかったことの証でもあった。仮に政宗と豊臣氏が連携した場合、あいだに挟まれた徳川政権が危機を迎えるのはまちがいない。その状況では、家康は政宗の要望を受け入れないわけにはいかなかった。


だが、豊臣氏がいなくなれば、徳川が挟み撃ちになることはない。このタイミングで、秀忠が政宗を牽制したとしても不思議ではない。


平川新氏は「遣欧使節支倉常長を迎えるために、元和二年八月、サン・ファン・バウティスタ号がメキシコに向けて二回目の出航をすることになっていた。それが政宗対策の好機として利用された。政宗討伐の噂を市中に流すことによって、海外との通交をめざす政宗を強く牽制したのである」と書く(「政宗謀反の噂と徳川家康」東北文化研究室紀要)。


それは逆に言えば、政宗はその時点まで、あわよくば豊臣氏と組み、あるいは交易の力を借りて、天下をねらっていた可能性があるということだ。


■家康を唸らせた「天下」についての発言


政宗は幼くして疱瘡(天然痘)を患い、右目を失った。このため「独眼竜」と呼ばれたが、この武将の経歴をたどると、常に「複眼」で状況を見渡し、さまざまにリスク回避をしながら、天下を獲る可能性を見いだし続けた。


この「複眼」があればこそ、さまざまな危機を乗り越えることができ、秀吉からも家康からも一目置かれたといえるだろう。


写真=iStock.com/bee32
伊達政宗を始めとした伊達家三藩主の霊屋「瑞鳳殿」(宮城県仙台市) - 写真=iStock.com/bee32

晩年の政宗が小姓の木村宇右衛門に語った言行録『木村宇右衛門覚書』には、政宗が弁明のために駿府の家康を訪ねた際、申し述べた言葉が連ねられている。そこにはこんなくだりもある。「今御不例のみきりをうかゝひ、天かにさまたけいたすへきいはれなし。跡ゝうはふへきちせつたに身にさつかぬ天下なれはのそみなし、と申上げれば」。


いま御病気と聞いて、徳川の天下を妨げようなどというつもりはありません。かつて奪えそうなときにも手に入れられなかった天下なのだから、いまはなおさら望みなどありません——。そう答えたというのである。


自分は天下をねらっていた。圧倒的権力者の前で、堂々とそういえたのが政宗だった。もちろん、家康の性格を計算し尽くしての発言で、さぞかし家康を唸らせたことだろう。その度量の大きさは、状況を俯瞰したうえで最適解を導き出す冷徹な合理主義と、やはり一体のものだった。


----------
香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
----------


(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

プレジデント社

「伊達政宗」をもっと詳しく

「伊達政宗」のニュース

「伊達政宗」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ