山県有朋総理に無視され、明治天皇に直訴…歴史の授業では習わない「足尾銅山鉱毒事件」田中正造の破天荒な人生
2025年4月28日(月)9時15分 プレジデント社
田中正造、1876年(写真=『渡良瀬川』/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
田中正造、1876年(写真=『渡良瀬川』/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
■幕末から明治へ、村の名主から追放された青年
※〈〉は編集部による補足
〈天保12年(1841年)、栃木県の小中村(現在は佐野市)で生まれた田中正造は、祖父と父を継いで18歳で村の名主となりました。江戸から明治に変わる激動の時代、田中正造は仲間たちと共に、領主である六角家の改革運動に取り組みますが、牢に入れられ、領地から追放されてしまいます。
一度は破産同然となったものの、東京の友だちの家に居候した田中正造は、縁もゆかりもない江刺(えさし)県(現在は岩手県)でようやく職を見つけました〉
■刀を持って駆けつけた夜、始まった冤罪の悲劇
1870年のはじめ、29歳の田中正造は、月給6円の下級官吏として江刺県に出むいた。役所の本部は遠野町にあり、その支所が花輪町にあった。正造は支所のある花輪町に住んで、県内をまわって報告書を書いた。前年秋の凶作のために、鹿角郡と二戸郡とでは農民が飢えに苦しんでいた。正造は下級官吏の身分ながら、自分の責任で貯蔵米500俵を開放して救助にあたった。
1870年の日記を見ると、県下の貧しい家の一軒一軒について、こまかい覚え書きをつくっている。
この民のあわれを見れば
あずまじのわがふるさとのおもい出にける
という和歌が書きつけてある。
窮民救助のための努力、訴訟をきいて取り調べをしたことなどが、こまごまと日記に書いてある。
そのうちに冬になり、寒さのためにリュウマチスが出たので、小豆沢という山奥の温泉に行って年末の休みをとった。正月になって花輪町のすまいに帰ると、そのあくる晩、正造の上役、木村新八郎が何者かに斬られた。
知らせを聞いて、正造は刀をもって上役の家にかけつけた。そのころは、役人はまだ刀を差していたものだったから、あたりまえのことだったが、もしこの時、丸腰でかけつけたなら、無用の疑いは受けなかったかもしれない。
田中のかけつけた時には、木村はまだ生きていたが、やがて息絶えた。そして、4カ月たってから、田中正造が木村新八郎殺しの下手人としてとらえられた。理由は、正造の刀のやいばに人を斬ったくもりがあるということだった。
■獄中で生まれた「一つのことに打ち込む」決意
〈身におぼえのない罪で逮捕されてしまった田中正造は、遠野町の監獄で苛酷な取り調べを受けます。思ったことを正直に話す田中正造は、役人の反感を買い、「そろばん責め」という拷問にもかけられました。最終的に3年以上に及ぶ勾留は、30代の大切な時期を奪うことになりましたが、同時にまた大きな気づきをもたらしました〉
異郷に忘れられたひとりの囚人として、正造は記憶術にあたらしい工夫をした。牢屋の中には、本の差し入れをしてくれる人もなく、紙に文字を書くこともできなかったので、ただ黙ってすわって自分の今までのこと、これからのことをくり返し考えていた。
その時、自分は人よりも頭が悪いということに気づいた。とくに物覚えがわるい。これではとても、器用な人のように二つも三つものことができるわけがない。これまでは体力にまかせて、百姓の仕事、名主の仕事、子どもの教育、藍玉の商売、役人の仕事などいろいろしてきたが、どうも自分は一つのことに打ち込むしかないようだ。一つの目的と仕事にささげる生涯をおくることにしたい、と正造は考えるようになった。
自分が本気でしようと思う仕事を一つだけに限るならば、その仕事の底にある情熱と自然にむすびついて、その仕事に関係のあることは忘れるということも少ないだろう。この方法によるならば、自分のたよりない記憶力も活用できるであろう。
それが、獄中で自分の生涯を整理した結果、正造の達した一つの発明だった。
■政治と経済は監獄で学んだ
郷里の栃木県小中村では、正造からの音信がとだえたのを心配して、父の富蔵と妹ムコとが岩手県遠野町まで旅をしてきた。正造との面会はゆるされなかったが、役所の人びとに会って頼みこんだらしい。新しい年になってから牢番のあつかいが、ゆるやかになった。
明治5年(1872年)の3月末、正造は岩手県遠野町から盛岡町に移された。ここの牢獄は、今までの牢獄にくらべて牢番がやさしかった。あとで聞いたところでは、岩手県県令(今の県知事)の島惟精(これきよ)は、幕末に勤王派だったために、若いころ牢につながれたことがあり、そのために囚人はいたわるようにという方針を出したのだそうである。
この年の冬になると、栃木の故郷からあたたかい着物などが送られてきて、正造はようやく人心地がついた。あくる年の明治6年(1873年)、正造は畳のある部屋にうつされ、ここでようやく本も読めるようになった。夏の日には、菖蒲だとか、そのほかのいろいろの草花を生けて、囚人の気持をなごやかにするなどという思いやりが見られるようになった。
欧米諸国にならう監獄の規則がさだめられて、それがようやく、岩手県においても行なわれるようになったのだ。正造は、囚人仲間で本をもっている人から借りて、翻訳書で政治と経済について勉強することにした。
■正造の冤罪が証言で明らかに
どういうわけかわからないが、県庁の役人の中には、田中正造に同情する人も現われた。もとの正造とおなじ下級官吏の西山房文という人は、正造のために、毎日卵を二つずつ差し入れてくれた。どうしてこんなに親切にしてくれるのか、正造があやしんだくらいだった。
こうして明治7年(1874年)4月になったある日、正造は急に、牢獄から法廷に呼び出された。
岩手県県令の島惟精が出てきて、
「そのほうは、明治4年4月以来、木村新八郎暗殺の疑いで入獄し、吟味を受けていたが、このたび証人たちの申し立てにより、そのほうの疑いは晴れた。これ以上の取り調べは必要ない。きょう、無罪放免を言いわたす」
と言った。
田中正造が未決囚として獄につながれた月日は、3年と20日に達していた。30歳から33歳までのたいせつな年月を、岩手の牢獄で暮らしたことになる。
調べになぜこれほど手間取ったかというと、江刺県の廃止にともなって、江刺県の上級役人3人が戊辰戦争(明治元年)当時の行動を追及されて投獄されたりしたことがあったので、県の行政が一時とまってしまったからだった。その後、正造の事件がふたたびとりあげられた時には、木村の未亡人とその長男をふくめて、正造に有利な証言があつまった。犯人を見たという木村桑吉をさがしたところ、この人は混乱のあとで静岡県に移っていたので、その証言を得るまでに月日がかかった。
■「犯人が田中ではないと断言できます」
桑吉は、「私は、田中正造とは平生から知っているので、犯人が田中ではないと断言できます。犯人は、田中とちがって色白の男でした。また、細面であった点も田中とはちがいます。着ている服が田中の着ていたとおなじように小紋と見えたのは、夜の行灯の光で見たのですから、はっきりしません。小紋も無地に見えるでしょう。小紋のように見えたのは、こまかい中形染だったのではないでしょうか。それに、犯人は田中のように白い袴をしてはいませんでした。」
これで、田中の袴が血によごれていたのも、かけつけてから木村を介抱したためとわかった。
もう一つ問題となった、田中の脇差しについては、刃にくもりはあるとしても、切っ先はきれいであるという証言が出ていた。
写真=iStock.com/Elena Zinenko
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Elena Zinenko
それらの関係者の証言をつきあわせるという法廷事務そのものが、維新直後の変動で、とどこおりがちなのだった。
正造は、無罪放免になってから、前に卵二個ずつさし入れをしてくれた西山房文の家にひきとられた。明治7年4月5日のことである。まだ長い旅行に耐えるからだぐあいではなかった。西山の家で1カ月あまり養生をしてから、5月9日に盛岡をたって、故郷にむかった。正造の母は、かれの出獄のわずか1カ月ほど前の3月9日になくなったことを、かれは帰国の直前にきいた。
■せっかく始めた酒屋の番頭は続かず…
この3年あまりの獄中生活は、正造にとって最良の学校だった。友人の少ない異国の牢獄にいるということが、正造の心の中で、くり返し故郷のことを呼び起こす原因となった。かれは、故郷の山河と、家の人びとと友人たちとを思い出しては自分の心にやきつけ、これらと対話しつづけた。
フランスの哲学者アランは、力学的な問題を考える時にはいつもつるべのことを思い起こしたというが、人間が考える時に用いるモデルは、ふつうは単純なものである。田中正造が天下のことを考える時、かれの中には、万次郎(ジョン万次郎。江戸時代にアメリカに渡り船乗りとなった=編集部注)のように無人島と捕鯨船が浮かんでくるのではなく、追放された村の外から見た故郷、獄中にあった時に思った故郷の姿があらわれた。この故郷への献身が、明治以後の数ある政治家の中で、田中正造を独特の政治家にした。
その後の田中正造は、小中村の隣の石塚村の酒屋の番頭となって、せっせと働いて、失った資産を回復しようとした。だが、酒を買いにくる人に説教するくせがあって、店の主人に喜ばれず、やめてしまった。
■夜学と西郷隆盛・板垣退助に寄せた心
その後、青年たちをあつめて夜学をひらき、おおいに成功したが、西南の役と呼応する反乱のきざしをつくるものと思われ、政府筋から妨害されて、解散するところまで追いつめられた。正造は、このころから西郷隆盛と板垣退助に心を寄せ、とくに板垣退助に会いに土佐まで行こうとして仲間に相談したが、反対されて旅費をつくることができなかった。
しかし、このころから板垣の民権運動に深い関心をもっていた。議会を早く開くようにという建白書を書いて、県令まで送ったことがあった。また、町村の自治の構想をたてて建白書を書き、県令に出したこともあった。これは明治10年(1877年)11月のことである。この町村自治の思想は、田中正造の政治思想の骨格をなすものだった。
西南戦争が起こると、政府は紙幣を乱発した。正造はこの時、物価がきっとあがるだろうと思った。そして10年前に、六角家の改革運動の仲間が貧しくなったのを助けようとして、
「いま、土地を買えば、きっともうかる」
と説いてまわった。
「正造さんのもってくるもうけ話なんて信じられるものか。あんた自身が、自分の財産を失ってしまったではないか。酒屋の番頭をしてもつとまりはしないし、少しばかりそろばん勘定を覚えただけだろう」
と言って、昔からの知り合いからは、相手にされない。
■土地価格の高騰を見抜いて金持ちになったが…
正造は意地になって、自分の見通しの正しさを、自分で実験してみようとした。そこで、父と妻とに相談して、土蔵から納屋からとにかく家につたわっている道具を全部売りはらい、それに姉妹の金も借りてきて、ともかく500円というまとまった金をつくった。
そのころ、正造はまだ3年の獄中生活のたたりで病気がちだったが、家に寝ていながら、だんだんに近所の田畑を買い入れた。人びとはそれをわらって見ていたが、その数カ月ののちに土地のねだんが上がりはじめ、ついには10倍以上になってしまった。
写真=iStock.com/liebre
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正造は、3000円以上のもうけを得て、祖先からゆずり受けた資産を回復することができた。
この時になって、遠野、盛岡の獄中で考えたことが思い出された。
普通の頭をもっているものならば、片方で金もうけをして、片方で政治運動をすることもできるだろう。だが自分の頭はかたよっていて、そんなことには耐えられない。だからここで、姉妹から借りた金を全部返し、だれのめんどうも見なくてよいひとりの人間となって、政治だけに打ち込むことにしたい。
正造は、父の富蔵に手紙を書いて、この決心を知らせた。
その要点は三つある。
一、今より後、自己営利事業のため精神を労せざること。
一、公共上のため毎年一二〇円ずつ、三五年間の運動に消費すること。(この予算は、後に明治二二年以来、選挙競争のために破れたり。)
一、男女二人の養児は相当の教育を与えて他へつかわすこと。
■政治に命を懸けた男の「かたよった」生き方
正造、勝子夫妻には子どもがなく、養子をもらっていた。その子どもたちに、このさい資産をわたして他家に養育をたのむというのだった。正造は、政治に打ち込むためには、公平なつき合いを人とのあいだにもちたいと考えた。
正造には四〇〇〇万の同胞(当時の日本の人口)あり。うち二〇〇〇万は父兄にして、二〇〇〇万は子弟なり。天はすなわちわが屋根、地はすなわちわが牀とこなり。
正造の生涯の終わりから見るなら、この文章に誇張はない。この後、天を屋根とし、地を寝床として、正造は暮らしてゆく。この時以後、家をもたぬ伴侶として、勝子は長い年月をともに暮らし、正造の最期を、他人の家の屋根の下でみとることになる。
この手紙を書いた時、正造は父から反対されるだろうと思った。ところが、父はこの手紙を見て、喜んで正造に言った。
「よく言ってくれた。おまえの志はりっぱだ。ただ、それをよく貫くことができるかどうか。」
そして筆をとって、むかしの禅宗の僧侶がつくったという狂歌を一つ書いてくれた。
死んでから仏になるは、いらぬこと
生きているうちに善き人となれ
正造は、父の態度に感動して、3日間ものいみ(ある期間、食事や行ないをつつしんで心身をきよめること)をして、神々にこの約束の実行をちかった。
明治12年(1879年)、正造が38歳の時のことである。
■「鉱毒被害」を国会で訴えるもむなしく
〈こうして自らの生きる道を定めた田中正造は、1880年に栃木県会議員に立候補し当選、86年には栃木県会議長となります。90年の第一回国会議員選挙で当選し国政に乗り出すと、明治政府を相手取り、足尾銅山の鉱毒について国会でうったえました〉
国会議員としての演説は、何度くり返しても、政府にたいしてはのれんに腕押しだった。
人民を殺しておいて国家がたちゆくと思うか。1900年2月17日、正造のこの質問にたいする総理大臣の答えがのこっている。
質問の旨趣その要領を得ず。よって答弁せず。右答弁におよびそうろうなり。
明治三三年二月二一日
内閣総理大臣侯爵山県有朋
たしかに正造の質問は答えにくいものだっただろう。金持ちはその金にまかせて事業を自由にすすめてよいという資本主義のおきてをそのまま受け入れるならば、足尾銅山の事業を住民のために停止するなどということは考えようもなかった。しかし、封建制度の身分の上下のルールをうちやぶって幕府とたたかって倒したその青年時代の思想にたち返るならば、山県にも、自分たちのつくった自治社会の秩序をもう一度、根本から疑ってみることができたはずだ。
■「おねがいでござる」ついに明治天皇に直訴へ
人間がそれによって生きる土地をたいせつにしないならば、そういう国は滅びるだろう。いや滅びるだろうというのではない、滅びてしまったのである、と正造はこの時に言った。そのことばは、その後80年たって日本が公害に苦しんでいる今日、予言としてわれわれの耳には聞えるが、その時の政府は、聞く耳をもたなかった。
1901年10月31日、正造は衆議院議員をやめた。
おなじ年の12月10日、足尾銅山鉱毒問題について、天皇に直訴した。
明治天皇(写真=内田九一/『明治天皇御伝』/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
明治天皇の行列が貴族院のわきにさしかかった時、黒の紋服、黒の袴で、下駄をぬいで足袋はだしのまま、正造は直訴状を頭の上に高くささげて、
「おねがいでござる」
と、叫んで近づいた時、馬車のわきの近衛騎兵が正造をさえぎろうとした。しかし騎兵は自分のかたむいた姿勢をささえきれずに馬もろともどっと倒れた。この時に、正造も倒れて進むことができず、警官に捕えられた。
■明治の偉人とは対極の人生を歩んだ男
伊藤博文、山県有朋、桂太郎らは、いずれも勲一等、公爵といったような肩書を残して死んだ。死んだあとも、自分の位置はそのようにして残るものと考えてその位置を墓石にきざみ、華族として子孫にも同様の栄典があたえられることを当然と信じた。
鶴見俊輔『ひとが生まれる 五人の日本人の肖像』(角川新書)
明治史の表面をかざるこの人びとを対極におく時、田中正造の生涯をささえた思想は明らかになる。田中正造にとっては、名主となったこと、土地の売り買いで財産をつくったことは、自分の身についたものとは考えられず、まして、子孫につたえるべきものとは考えられなかった。偶然に自分の得たそのヴァンテイジ・ポイント(有利な位置)を利用してなにかを実現して社会に返すための要請だと考えられた。
そこで、これらの有利な位置を全部、自分の生きているあいだにくずしてしまう計画を、青年時代にたてた。自分の生涯が、その設計どおりにゼロになることが、かれが自分の生涯にたいしてえらんだゲームの目標で、その目標に達するには、かれ自身の力では避けられないさまざまの困難があったが、人びとの協力と偶然の助けによって、ここに予定どおりの終わりを迎えることができた。
明治の歴史に田中正造の果たした役割は、勢力として見る時には小さいが、かれの生涯は、明治の支配層のつたなさを照らし出す一つのともしびとなっている。
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鶴見 俊輔(つるみ・しゅんすけ)
哲学者
1922−2015年。1942年、ハーバード大学哲学科卒。46年、丸山眞男らと「思想の科学」を創刊。65年、小田実らとベ平連を結成。2004年、大江健三郎らと「九条の会」呼びかけ人となる。著書に『アメリカ哲学』『限界芸術論』『アメノウズメ伝』などのほか、エッセイ、共著など多数。『鶴見俊輔集』全17巻もある。
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(哲学者 鶴見 俊輔)