「時間がないから」以上のもっと根本的な理由がある…社会人から「運動習慣」を奪い取る「泥棒」の正体
2025年5月19日(月)17時15分 プレジデント社
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/riskms
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■元日本代表なのに、運動しなくなった
先日、50歳になった。自分が50代になるなんて思いもよらなかった。というのはいささか大袈裟で、ほとんど誰もがいずれは50歳になるわけだから、想像するのを忌避していたというのが正確な表現である。
当然ながら、いまや30代のときのような体力はない。ラグビー選手だったときのように機敏には動けないし、雨天時などに気圧が下がると足首などの古傷が痛む。
錆びゆくこのからだを恨めしく思いながら、ふと気づく。そういえば最近は運動をしていないと。
31歳でラグビー選手を引退してからしばらくは、積極的に運動を行っていた。空き時間になると勤務する大学周辺でランニングをしたり、グラウンドでシャトルランをしたりしていた。ラグビーボールを蹴り、タックルバックにからだを当て、四股を踏んでもいた。
大学教員に転身してすぐのころはまだ時間的に余裕があって、授業や会議や研究の合間を運動に当てることができていた。からだを動かすことで得られる爽快さをいやというほどわかっていたから、積極的に汗を流していたわけである。
週に1〜2回は何らかの運動を行っていたし、特段、意を決することもなく、ただ衝動に任せてからだを動かせていた。
■なぜ社会人の運動は続かないのか
それがいつしかできなくなっていた。からだを動かすことが好きな私にとって、これは衝撃的な気づきだった。運動への衝動がいつしか薄れていたのである。
運動がもたらす爽快さを身をもって知っている私でさえそうなのだから、スポーツや運動に縁遠い人たちはなおさらであろう。健康診断の結果が思わしくないとか、階段を上がるだけで息が切れるなどの理由から、なにかしらの運動を始めなければと思ってはいるものの、その一歩がなかなか踏み出せない。忍び寄る老いに漠然とした不安を感じながらも、それを解消するための運動を始めることがどうしてもできないでいる。
少し早く起きてジョギングをしよう。近所にできたスポーツジムに行ってみるか。昔かじっていたゴルフを再開しよう——。
そう眦を決するもののなかなか実行には至らず、たとえその億劫さを振り切って始めたとしても3日も経てばいつもの生活に逆戻りする。継続できなかったことへの自己嫌悪が余韻を引いて、自らの意志の弱さに項垂れる人もいるだろう。
なぜ運動ができない、あるいは続かないのか。これが今回のテーマである。
■まず思い浮かぶのは「時間がないから」
まず言えるのは、とにもかくにも「仕事」が忙しくて時間がないからであろう。
いまやパソコンやスマホさえあれば場所を問わずに仕事ができる。通勤時間はひっきりなしに届くメールへの返信でいっぱいいっぱい。手元にガジェットさえあれば勤務時間を終えたあとでも仕事ができてしまうため、喫茶店はパソコンを広げて画面とにらめっこする人たちで溢れ返っている。物価高の影響と将来への不安から、少しでも稼ぎを増やすべく副業に勤しむ人もいるだろう。
これに加えて育ち盛りの子供がいる人は、子育てにも時間を費やさざるを得ない。運動会や文化祭などの行事や、保護者面談などへの参加は外せないし、休日にはテーマパークや映画館へのお出かけ、急な体調不良での病院への付き添いや各種習い事への送迎などが立て込んでくる。歯科検診にヘアカット、スーパーに食材の調達、生活必需品の買い物など、生活のために不可欠な「すべきこと」が山積みで、余暇なんてどこにもない。
■せっかくの自由時間をつらい運動に充てるのは難しい
忙しさに追われる日々では、たとえ自由に使える時間が作れたとしても、趣味に興じるなどのリラックスタイムにしたいと誰もが思うはずである。重苦しいからだを引きずりながら息が切れる運動をする気など、なかなか起きない。せっかくできた余暇をしんどさが伴う運動に捧げては、いつリラックスできるというのか。
つまり運動ができない一因に、長時間労働がある。余暇が持てるほど時間に余裕がなければ、そもそも運動なんてできやしないのだ。ジョギングやランニングやジムで汗を流し、心身の健康を維持、増進するためには、長時間労働が強いられる社会そのものの構造改革が必要だ。生活のために「すべきこと」を含めての長時間労働と、運動習慣が伴う文化的な生活は、相容れないのである。
■スマホが運動習慣に与える影響
運動習慣を身につけるには、「すべきこと」をかいくぐって余暇を作り出さなければならない。どうすればよいか。
それはスマホとの付き合い方を見直すことである。いわゆるデジタルデトックスだ。
そんな当たり前なことをいまさらと思う向きもあろう。頭ではわかっていながらもそれが難しいんだという声も、聞こえてきそうである。まさにその通りで、スマホのスクリーンタイムを減らすのはそう簡単なことではない。社会構造上の、なかなかに厄介な問題を抱えているからである。
今日の社会では、仕事のみならずなにをするにもスマホが欠かせない。SNSをはじめとするネット空間が私たちの実生活に多大な影響を及ぼしている。社会の動向を掴むために、あるいは非日常を仮想的に味わうべく、また友人の近況を知るために、ついスマホに手が伸びる。世知辛い現実空間から離れられるのもまた魅力だ。
つまりスマホは、長時間労働により心身の余裕を持ちづらい現実社会から、束の間、離れることができる手軽なアイテムでもある。精神衛生上、欠かせないものになっていて、だから電車内ではほとんどの人がその画面に見入っているし、歩きスマホをしている人も後を絶たない。
メールの返信など長時間労働を助長するのに加え、長時間労働から解放されてリラックスできるアイテムとしても、スマホは私たちの生活に深く入り込んでいる。中毒症状を引き起こしていると言っても過言ではない。
写真=iStock.com/somethingway
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/somethingway
■生活は格段に便利になったが…
つまり、時と場所を選ばずに仕事ができるようにしたのもスマホながら、そうして増えた仕事量がもたらすストレスを解消するのもスマホなのである。まさにマッチポンプの様相を呈しているこの点が、厄介なのだ。生活を、社会を便利にするための道具にすぎなかったスマホに振り回され、私たちがスマホに使われているような情況に陥っている。
確かにスマホが私たちの生活を便利にしたのは否めない。めぼしい飲食店を見つけてその予約ができたり、目的地までの効率的な移動手段を知ることもできる。現金を持たずとも支払いができるので財布を持ち歩かなくて済むし、外部記憶装置としても機能するから、さほど記憶を探ったり想像を巡らせなくてもよくなった。
いつでもどこでも仕事ができるし、いつでもどこでもリラックスできるようになり、そうして私たちから時間という資源を容赦なく奪い去ったといえる。
■「便利」に慣れ過ぎたあまり不便な運動ができない
さて、ここでもう一歩、踏み込んで考えてみたい。
そもそも「便利になる」とはどういうことなのか。
論理的に考えれば、それは「からだをさほど使わなくても済むようになる」ということになる。便利になればなるほどこのからだは甘やかされていく。つまり便利とは、さほど筋肉を使わずともよい状態を指す。考えたり想像することも頭を使うという意味で運動に含めれば、思考を駆使せずとも済む。これをひっくり返してみると、不便であるとは、からだを使わざるを得ない状態にあるということになる。
エレベーターやエスカレーターを使わない。メールよりも電話で連絡し、オンラインよりも対面で会議を行う。手書きの手帳でスケジュール管理をしたり、手紙を書く。すぐにネット検索するよりもまずは記憶を頼りに想起してみる。スマホをポケットではなくカバンにしまう。ちょっとした不便を実践するだけで、このからだは活性化される。理屈で考えればつまりそうなる。
スマホにその身を丸投げしていると、確実にこのからだは衰えゆく。これを避けるには、ちょっとした不便を手ばなさいことだ。このからだを目覚めさせるカギは、ちょっとした不便の実践にある。
■運動習慣は「ちょっとした不便」を取り戻すところから
ちょっとした不便を実践するために、ぜひとも紹介したい一冊がある。
福岡賢正『たのしい不便 大量消費社会を超える』(南方新社、2000年)には、自転車で通勤する、自動販売機で買わない、外食しないなどのちょっとした不便を自らに課した著者の生活実践が詳細に記録されている。
大量消費社会を超えるという文脈で、しかも今ほどスマホが普及していない時代の書物だが、長時間労働が強いられる今日の社会を快適に生きるヒントが示されている。なんせ不便なのだから、実践を始めた当初は面倒臭さや億劫さとの葛藤が避けられない。これまでよりもからだをたくさん使わなければならないのだから、それは仕方がない。しかしそれが継続するうちにだんだん楽しさへと変化してゆく。
最終的には体重が減って健康になり、さらにはお金も貯まっていったと、著書は活き活きとした筆致で書いている。一読すれば、ちょっとした不便がどれほど人を豊かにするのかに想像が及ぶだろう。
■スマホを置いて散歩に出かけてみよう
繰り返すが、頭を使うことも含めたからだを使うこともまた立派な運動である。ならば、ちょっとした不便を手放さなければからだを使える、つまり運動ができる。ちょっとした不便の実践も、立派な「運動」と考えてもなんら差し支えない。
リラックスできるが仕事も増やすスマホをいったん脇に置いて、散歩にでもでかけてみよう。ポジティブな身体実感を手繰り寄せながら、少しずつ生活のなかに余白をつくってゆく。便利さ、つまり効率性や合理性を追求する手を緩めてみる。ときに脇道に逸れるのを恐れず、行きがかり上で行動してみる。無駄だと思われることでも、あとになって実は役に立っていたとわかることは意外にも多い。
写真=iStock.com/Kanizphoto
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SNSのタイムラインをぼーっと眺めるよりも、ちょっとした不便の方がなんとなく楽しく感じられるようになればこっちのもの。そうこうするうちにやがて本格的な運動が習慣になる、かもしれない。
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平尾 剛(ひらお・つよし)
成城大教授
1975年、大阪府生まれ。専門はスポーツ教育学、身体論。元ラグビー日本代表。神戸親和大教授を経て現職。スポーツハラスメントZERO協会理事。著書・監修に『合気道とラグビーを貫くもの』(朝日新書)、『ぼくらの身体修行論』(朝日文庫)、『近くて遠いこの身体』(ミシマ社)、『たのしいうんどう』(朝日新聞出版)、『脱・筋トレ思考』(ミシマ社)、『スポーツ3.0』(ミシマ社)がある。
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(成城大教授 平尾 剛)