「よそ者」と疎まれ、刃物入りの封筒が届いた…潰れかけた酒蔵をV字回復させた20代元証券マンの覚悟

2025年5月21日(水)9時15分 プレジデント社

新潟県佐渡市にある「天領盃酒造」 - 筆者撮影

新潟県の佐渡島に、かつて廃業寸前だった酒蔵「天領盃酒造」がある。2018年に酒造り未経験の24歳の男性が買収し、当時、史上最年少の蔵元となった。今ではファーストクラスの機内酒に選ばれるなど高い評価を得ているが、どのような苦労があったのか。ライターの本間ユミノさんが取材した——。
筆者撮影
新潟県佐渡市にある「天領盃酒造」 - 筆者撮影

■24歳で“史上最年少の蔵元”になった


新潟港から船で最短67分の距離にある佐渡島で、日本酒業界に革新の風を巻き起こしている蔵元がいる。加登仙一さん(31歳)だ。


2018年3月、酒蔵の家系出身ではない加登さんは個人で資金を調達し、佐渡島にある酒蔵をM&A。24歳にして当時史上最年少の蔵元となった。M&A先は「天領盃酒造株式会社(以下、天領盃酒造)」。経営難に陥っていたうえ、後継者不在で廃業が危ぶまれていた酒蔵だ。


写真提供=天領盃酒造
加登仙一さん 「企業を買収した人」を想像していざ会ってみると、思っていたよりも爽やかで穏やかな方だった - 写真提供=天領盃酒造

加登さんの造る酒は、2023年に日本航空国内線ファーストクラスの機内酒に、2024年には国際線ファーストクラスのラウンジ提供酒に採用された。独立行政法人酒類総合研究所が開催する「全国新酒鑑評会」では2年連続金賞を受賞、世界一美味しい市販酒を決めるとされている世界最大級の日本酒品評会「SAKE COMPETITION 2023」では純米酒部門6位(出品数273点、1〜10位までが金賞とされる)を獲得。2025年4月からは、ユナイテッドアローズとのコラボ日本酒も販売するなど、幅を広げている。


古くからファミリービジネスが主流の酒蔵に吹いた、まだ青さの残る新しい風。青年「加登仙一」はいかにして史上最年少蔵元となり、廃業寸前だった酒蔵を立て直したのだろうか。


■「美味しい」とは言えない酒だった


天領盃酒造の歴史は、佐渡島にあった3蔵が合併し「佐渡銘醸株式会社」として1983年に創業したところから始まる。日本で初めて酒造りにコンピューターを導入し、近代化を進めた。蔵人たちが勘で行っていたことを機械化することによって、少ない手間で酒を生産できるようになった。


大量かつ安価に製造できることを強みとしていたが、それがブランドとしての魅力を失うことにつながってしまったのか、業績は悪化の一途を辿る。2008年に倒産し、民事再生法により天領盃酒造として生まれ変わった。


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創業当時ののれん。今も蔵を見守る - 筆者撮影

しかし、中身は何も変わっていなかった。設備投資も行われず、大きな経営改善は見られなかった。時代の流れに応じて、求められる酒も変わってくる。しかし、味に対する意識が薄れて「ただ酒になればいい」と思っていたのか、決して「美味しい」とは言えない酒だった。「潰れた時と全く同じやり方で、潰れた時と同じ酒を造っていては何も変わりません」と話す加登さんが経営権を引き継ぐ2018年まで10年。その間の累積赤字は1億2000万円にまで膨れ上がっていた。


■“日本酒=罰ゲーム”という印象だった


日本国内における日本酒の消費量は1973年をピークに減少している。ブルーカラーと呼ばれる肉体労働系の仕事から、ホワイトカラーと呼ばれるデスクワークへの移行により、酒との付き合い方が変化した。日本酒の需要がワインや第3のビール、RTD(缶チューハイといった購入後にすぐ飲めるドリンク)といった他のアルコールに取られていることも一因だ。


また、需要が低下することに伴い、「儲からないのだったら継ぎたくない」と後継者がいなくなってしまう承継の問題もある。実際、後継者不在を理由に廃業する酒蔵は増加傾向だ。


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酒蔵の経営者である「蔵元」と、製造責任者である「杜氏」を兼ねる「蔵元杜氏」スタイルをとる - 筆者撮影

天領盃酒造の創業から遡ること15年前の1993年、千葉県成田市に生まれた加登さん。その土地柄、外国語が身近にある環境で、漠然と海外に憧れを抱いて育った。大学時代の留学先スイスで、日本酒と運命的な出会いをする。


「いろんな国の友達に日本酒のことを聞かれたんです。でも私は、『罰ゲームで飲むもので、美味しいものではない』という悪い印象を持っていた。すると、『自国のものに誇りを持たないなんて』とばかにされて、とても悔しく恥ずかしい気持ちになりました」


その日から徹底的に日本酒について調べた。そして、「日本酒を知りたい」という強い思いは「酒蔵を経営したい」という夢に変わっていく。


■“どん底”の酒蔵を買収した


日本酒を製造するためには酒税法で定められている「酒類製造免許」が必要となるが、原則として新規発行は認められていない。斜陽産業といわれる日本酒業界で、既存の酒蔵を保護し、国内における需要と供給のバランスを維持するためだ。免許取得の壁にぶつかり、夢破れた加登さんは証券会社に就職。財務や経営について学びながら、日々の営業に奮闘していた。しかし、ある日担当していたお客様の発した「会社を興せないのなら買えばいい」という一言で、加登さんの人生と日本酒が、また、絡み合う。


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蔵の後ろには金北山が見える。この金北山からの伏流水を仕込み水に使用している - 筆者撮影

全国の売りに出されている「瀕死」の酒蔵を巡り歩き、その中からM&A先として加登さんが選んだのは、最も業績の悪かった天領盃酒造だった。中途半端に良い酒蔵よりも、どん底にいる酒蔵だからこそ、逆に這い上がるしかないと考えていた。


「株投資でいうところの『逆張り』を意識しました。売り上げは最低ライン、利益も出ておらず赤字でどん底の最悪の酒蔵を選んだ方が、その先下がりようがないのでリスクは抑えられる」


なんとも証券マンらしい考え方だが、そう簡単に事は進まない。自己資金もなければ経営の経験も酒造りの経験もない東京在住の若者が、突然縁もゆかりもない新潟の銀行に向かう。しかも目的は「10年赤字続きで廃業寸前の酒蔵をM&Aする資金の融資を受けるため」だ。


■「若い」「未経験」がネックに


「まずは事業計画書を見てもらう、という段階にさえいけませんでした。担当者にも会わせてもらえず、『この若造は一体何を言っているんだ?』という反応でしたね。


事業計画書さえ見てもらえれば、天領盃酒造の現状が改善点だらけだということも、その改善点さえクリアすれば立て直せるということもわかるはずだと思っていたので、もちろん悔しかったです。若いとか経験がないとかそういう外側しか見られないことにいら立ちも感じていました」


一方で、自身も証券会社で働いていたことから、銀行がリスクのある相手に融資しないのは「そりゃ、そうだよな」と、当然分かっていた加登さんは天領盃酒造の当時のオーナーに協力を依頼する。どうしたら融資を得るための信頼を得られるのか、天領盃酒造を存続させることができるのかを協議した結果、天領盃酒造の土地・建物・資産全てを担保化。銀行に信憑性を示すため、オーナーと契約書も交わした。


■プレッシャーで眠れなくなった


ここまできてやっと銀行に話を聞いてもらえる状態になる。とはいえ、事業計画書の内容も融資がおりるか否かの重要なポイントだ。きっかけとなったのは、国境近くにある離島の無人化を防ぎ、保全していくことを目的とした「有人国境離島法」という法律(2017年施行)の存在に気づいたことだ。全国で29地域、148島ある有人の国境離島地域のうち、佐渡島は、地域社会を維持するために早急に居住環境整備が必要な「特定有人国境地域」に指定されている。


「施行されたばかりの法律で、まだ注目している人がいなかった。この法に沿って、『国が守りたい島(佐渡島)に雇用が生まれ、地域企業も再生されること』『関連する補助金(年間1200万円)で設備投資を行うので、企業としての成長速度も早くなること』を盛り込んだ事業計画書の作成を思いついた時に、『すべての要素が組み合わさって、事業の再生が見込める計画を作ることができればイケるんじゃないか』と思いました」


こうして地銀の北越銀行(当時)と日本政策金融公庫の共同融資で資金を調達し、M&Aが成立。しかし、書類上で行っていた「数字遊び」がいざ現実となった時には「これまでは実体のないものに向き合っていたというか。強気に熱意だけで机上の数字合わせをしていたところから、それを実現させなければいけないというプレッシャーと不安で1週間ほど眠れなくなり、やっと眠れたと思ったら会社が倒産するという夢を見て目が覚めるという日々だった」という。


■従業員たちに相手にされない日々


24歳の青年が背負うにはあまりにも大きすぎる金額と責任、そして夢。それでも、ここで“日本酒”に人生を懸けることを決めた。


だが、覚悟だけで事業が急に上向くことはない。晴れて蔵元となった加登さんを待っていたのは、想像を超える「最悪」な経営状態と、その状態に慣れてしまった従業員たちだった。長年同じメンバーで働いていたことによる居心地が良いだけの体制に、古い慣習。都会からやって来た「たびんもん(佐渡弁で旅の者。島外の人、よそ者を意味する)」、しかも一回り以上も年下の加登さんに対して当時の従業員たちはとても否定的な反応だったという。


「何か嫌なことを言われるとか、全ての意見に反論されるとかそういったコミュニケーションもとれず、まともに相手にされない。僕の存在は見えていないような、そういった反応をされました」


経営再建の第一歩として、「一切の聖域を作らず、無駄遣いをなくした」と語る加登さん。従来、出張時の新幹線は毎回グリーン車を使用、1泊1万円程する小綺麗なホテルに泊まっていた。天領盃酒造のある土地は借用地だが、相場の何倍もの金額を長年支払っていた。このような「無駄遣い」に対して、交通費は加登さん自ら最安値で手配して従業員に手渡し、土地代は貸主と直接交渉するなど一つひとつ正していく。


■刃物の入った封筒が届いた


もちろん、この改革にも反発はあった。その場では指示に従ってくれ、少しずつ理解してもらえたと思った相手が、休憩所で加登さんのことを「裸の王様」と揶揄しているのを聞いたことも。それを聞いた加登さんが、怒りをグッとこらえながら、「裸の王様が入りま〜〜す!」とわざと明るく入っていったこともある。


今も誰の仕業か明らかになっていないが、加登さん宛てに刃物の入った封筒が差出人不明の郵送で届いたこともある。加登さんがその場に現れると、行っていた作業の手を止めたり、仕込み作業を止めたりするようなありさまだった。それでも加登さんは、酒造りに対する率直な思い、生半可な気持ちでやっているわけではないという熱意を伝え続けたという。


写真=iStock.com/Yusuke Ide
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Yusuke Ide

「その様子を見て、『ついて来れないと思うのなら、辞めてもらっていい』と従業員全員の前で宣言しました。一番歳が近い人でも40代、平均年齢60代なので、証券会社で働いていた頃を考えると、絶対服従だった支店長よりも上の年齢層の人たちです。


ですが、そんなことで遠慮するほどの生ぬるい気持ちで蔵元になったのではない。この酒蔵をもっと良くしたいという強い気持ちを伝えるための発言でした。13名いた当時の従業員のうち約半数が退職しましたが、企業の体制が変わる転換点で、人の入れ替えが起きるのは仕方がないことだと思っています」


■コロナ禍で売り上げが立たなくなった


酒造りについて深く学ぶため、代表就任翌年の2019年には、広島にある「独立行政法人酒類総合研究所」が主催している2カ月間の研修に参加。そこで天領盃酒造が造る酒の「現在地」を知ることができたという。


「正直、相当不味かったのです。今の時代に戦うためには、時代遅れの酒造りだったことは否めません」


知り合った他の酒蔵の蔵元たちからも知識や技術を吸収し、「美味しい酒」を造るために酒蔵の設備や環境、従業員の意識改革など抜本的な変革を次々に行った。


だがその翌年、天領盃酒造最大の試練が訪れる。2020年、新型コロナウイルス感染症の世界的大流行だ。横浜港に停泊していたクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」で新型コロナウイルス感染症の集団感染が明らかになった際には「大変そうだな」程度の感覚だったが、それからわずか2カ月後には緊急事態宣言が発出された。


「販売店への卸、観光客需要、デパートや道の駅などで行う試飲販売がうちの売り上げ3本柱でしたが、緊急事態宣言が出たことで売り上げが立たなくなってしまいました」


■「終わった、これは潰れるかもしれない」


徐々に軌道に乗り始めていた注文も一瞬にして入らなくなる。数字にして、前年対比10%まで売り上げが落ち込んだ。店頭に来店するお客さんもおらず、従業員にも休暇を取ってもらって店も閉めて一人で考えを巡らせたという。


「店の裏に広がる田んぼを眺めながら、この先どうしようか、どうするべきなのかを考えていました。僕の手腕によって業績が良くなるとか悪くなるとかそういうことなら本気で取り組んで、『成功させてやる!』という基本的にはポジティブな思考なのですが、突然現れた新たな感染症、しかも世界的な未曽有のパンデミックという外的要因を目の前に、僕の努力次第でどうこうできるものではないので勝ち目がないというか、もう本当に文字通り『終わったな。これは潰れるかもしれないな』と思いましたね。


雇用調整を行う際に、一度全員を集めて『このまま売り上げが立たない状態が続くとうちは潰れると思います』という厳しい話もしました。1年ぐらいであればなんとか雇用を維持することはできますが、それ以上だと正直厳しいし、この状況がいつまで続くのか分からない。なので、従業員一人一人に『自分の生活を維持できる最低限の金額を教えてくれ。その最低ラインだけは絶対に確保するから』とお願いするところまで言いました」


この状況が長く続けば、天領盃酒造が潰れるかもしれないと危機感を抱いた加登さんは、まるで、高く跳び上がる時に備えて低くしゃがみ込み力を溜めるかのように「どうせ潰れるのなら」と思い切った決断をする。最低限の預金を残して残りは全て設備投資へと回したのだ。コロナ禍で設備投資にかけた総額は1億3000万円。


筆者撮影
酒造りについて勉強していた際のノート。店頭に展示されている - 筆者撮影

■品質向上の設備投資は惜しまない


経営革新と酒造りの研究、コロナ禍の挑戦を経て「高く跳び上がる時」はやって来た。徹底した経費削減の結果、代表就任からたった半年で約300万円の黒字化に成功。これは3000万円の売り上げ増加と同じ効果があるという。キャッシュフローがいつも赤字だった企業は、以降6期連続で黒字継続中だ。2023年6月の決算期には、ついに、債務超過状態を解消した。


「2023年に1億8000万円の売り上げをあげ、代表就任以来の最高売上高を更新しました。今年はまだ決算を締めていないので確実ではありませんが、さらに更新する見込みです」


本来であれば、もっと大きなブームを作ることもできるが、一度爆発したものは萎むのも早い。あえてじわじわと、緩やかに上昇するようにコントロールする姿には、謙虚さと堅実さが入り混じっていた。


これまでの過程に、プライベートの時間はなかった。早朝から夜中まで365日休まず、蔵に住み込んで働いた。6年目にやっと1カ月に1日、そして7年目の今、ようやく週2日休めるようになった。利益のほとんどは、より早く酒の品質を上げるため設備投資に回している。補助金を最大限に活用しながら、これまでに費やした額は4億円に上る。業績が拡大した今でも、M&A当時の現預金とあまり変化がないのはこのためだ。


「当時から役員報酬額も変えていません。設備投資や従業員へのボーナスを優先しているので、僕の給料が一番少ないです」と加登さんは笑う。


写真提供=天領盃酒造
佐渡島の玄関口である両津港から車で10分ほどの場所に天領盃酒造はある - 写真提供=天領盃酒造

■酒屋に足を運び、“人となり”を売った


周りがどんなに批判的な態度でも、コロナ禍で先が見えなくても「辛いと思ったり悲しいと思ったり、諦めようと思ったりしたことはない」という。


「有名な漫画のあのセリフのように『諦めたらそこで終わり』だと本気で思っていました。24時間365日、たった一人で会社のことを考え続けて、『僕がやらなければこの会社は終わってしまう』というような孤独感はありましたが、それが自分の支えになっていたのだと思います。お客さんに飽きられてはいけない、おいしいと思われ続けなければいけないというプレッシャーは常にありますね」


今では、天領盃酒造の酒をめがけて佐渡島までやってきてくれるお客さんや、卸してほしいと依頼してくる酒屋さんが多くなり、知名度も増してきている。この知名度を手に入れるまでは売り方にもこだわった。前職である証券会社の「足で稼ぎ、人となりを売る」営業スタイルを適応させたのだ。


「取引をお願いしたい酒屋さんには必ず自ら足を運びました。その際も商品案内はせず、まずは僕自身を知ってもらうために日本酒への思いや覚悟をひたすら伝える。逆に取引を依頼される際は、蔵に来て、こだわりや熱意を実際に見てくれる酒屋さんにしか卸さないと決めています。どこにでも売れればいいわけではない。どこにでも卸せればいいわけでもない。そうしていくうちに、うちの酒蔵や商品を真剣に応援してくれて愛してくれる人たちが増えていきました」と加登さんは語る。


■「売らない」と買いたくなる


この加登さんの戦略、つまり「売らない」とはどういうことなのか。日本酒の専門家を尋ねた。答えてくれたのは新潟大学経済科学部教授で、日本酒学センターの副センター長を務める岸保行さん。世界初の学問「日本酒学(Sakeology)」の本丸だ。曰く、日本酒のマーケティングは工業製品とは違うのだという。


「アルコールには嗜好品という特徴的な性質があります。工業製品の場合は、作り手が『売りたい』ためのマーケティング。嗜好品の場合には逆に、『売らない』というマーケティングが『買いたい』気持ちを強くする力を発揮します。本当に好きな人は、どんなに小さな酒蔵でも、どんなに遠く離れた土地の日本酒でも、『好きで呑みたい』からわざわざ見つけ出して買いに行くのです」


写真提供=日本酒学センター
日本酒学センター副センター長の岸保行さん - 写真提供=日本酒学センター

■酒店の“心”をつかんだ


証券会社の「人柄で勝負する」営業スタイルと岸さんの提唱する「売らないマーケティング」との融合は、酒をお客さんに届ける販売店の心をもつかんだ。千葉県千葉市にある「させ酒店」の代表、佐瀬伸之さんも「加登仙一」という人間に強く惹かれた人の一人だ。今では天領盃酒造の酒が売り上げの柱だ。


「初めて加登さんと会った時のことは忘れません。若いし、スーツを着ていたので、結婚式など催し事のプレゼントを探しに来たお客さんだと思った。すると、『佐渡島にある天領盃酒造を買収しました。今年の冬から酒造りをします』と言ったので、一瞬で二日酔いからさめましたよ」


写真提供=させ酒店
天領盃酒造特約店筆頭を自称する佐瀬さん(一番左)。日本酒イベントに加登さんが不在の際には、代わりに天領盃ブースに立ち、お客さんに対して魅力を語ることもある - 写真提供=させ酒店

今や「うまい」と様々な評価を獲得している天領盃酒造の酒。だが、佐瀬さんは初めて加登さんが造った酒は「美味しくなかった」と振り返る。それでも当時は、商品ではなく「加登仙一」をお客さんに説明したそうだ。加登さん自身が酒造りを徹底的に学び、味の改善に取り組んだ努力を重ねていたことを知っていたからだ。すると、酒の味よりも加登さんの生き様や人間性に惹かれた多くの人が、酒を買って応援するようになっていったという。


写真提供=させ酒店
させ酒店では、日本酒以外の酒も取り扱う。今では天領盃酒造の酒が売り上げの柱だ - 写真提供=させ酒店

■伝統は閉鎖的になりやすい


「加登さんは、普通だったら考えなかったり諦めたりする方の道を選び、チャレンジする人です。補助金を上手く使ってお金をつぎ込んで、急速に設備投資を行いながら、能力と若さで仲間を確保する。少し背伸びし過ぎていると思うくらいのステージに挑戦して壁にぶち当たって失敗し、検証して仮説を立ててトライする——。ということを繰り返している。そこがみんなの胸を打つんでしょうね」と佐瀬さんは話す。


日本酒の需要が減少していることについては前述した通りだ。その一方で、「伝統的酒造り」がユネスコの無形文化遺産に登録され、酒に関する伝統や文化などの歴史的価値は世界から注目されている。


写真=iStock.com/kuppa_rock
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kuppa_rock

確かに、神前式での三三九度や地鎮祭での奉献酒など、日本酒は伝統的神事とも深い繋がりがある。だが、地域に根差した伝統は、ともすると閉鎖的になりやすい。地域の人々の集結が重視され、ひいては中核的な集団となり、その地域全体を固く抱きかかえたように外部のものを寄せ付けない構造になる。まさに、あの日の天領盃酒造の面々と加登さんだ。


しかし、佐渡島に埋め込まれた小さな酒蔵だった天領盃酒造も、加登さんの革新によって新たな世界が見えてきている。現在の従業員は14名。今では平均年齢33歳と、M&A当時からは30歳ほど若返った。ついていけないと袂をわかった仲間もいた。だが、熱意に次第に心を打たれて残ってくれた仲間もいた。加登さんの思いに共感し、同じ熱量を持っている人たちが自ら連絡をして、新しく仲間になってくれた人もいたという。加登さんに似て、明るく前向きで活き活きとしている人たちだ。


■“率直な思い”を伝え続ける重要性


「僕が代表に就任した当初は、僕VS元従業員のような対立構造が起きていて、お互いにお互いを敵に見ていたのだと思います。僕も今よりトゲトゲしていて、『自分がどう頑張って立て直すのか、自分がどういう行動をするのか』と『自分』目線でしか物事を見れていませんでした。今は周りを見る余裕が出てきて、従業員は従業員なりに一生懸命頑張っているということがすごくよく分かります。ありきたりな言葉ですが、今では従業員は“家族”のような存在です」


一般的に、コミュニケーションにおいては「相手の気持ちを考えること」「空気を読むこと」「聞くこと」が重要視される。衝突をいかにして避け、良好な関係を築くかという点がフォーカスされるだろう。しかしそれでは、「自分の内に秘めている熱い思い」は正しく伝わらない。


困難の壁が次々に立ちはだかったとしても、日本酒への熱意と自分の叶えたい夢を胸に、率直な思いを正直に伝え続ける。あくまで、「人間関係を円滑にするため」のコミュニケーションではなく、「夢の実現のため」のコミュニケーションを重視する。加登さん自身の、衝突を恐れずにいつも正直に相手と対話しようとする姿勢が、従業員との溝を埋めていったのかもしれないと感じた。


■「新潟を背負う酒蔵に」と全従業員が答えた


最近作成した、天領盃酒造のPR動画において、台本もなく、それぞれ個別に自由に話してもらうという環境でカメラマンから従業員一人一人にインタビューが行われたという。その際に聞かれた「今後の目標や夢」に対して「新潟を背負う酒蔵になること」と全従業員が答えた。さらに、「今のメンバーだったら本気で目指せると思っている」とも。必要な設備を揃え、新たな仲間たちと日々せわしなく、しかし同じ方向を向いて働く様子に、「瀕死」の面影はどこにもない。


筆者撮影
ヤブタ室(酒を絞る部屋)に繋がる扉には、特約店の方々からのメッセージが書き込まれている - 筆者撮影

資金調達から始まり、M&A、経営再建、コロナ禍を乗り越え代表就任以来最高売上高の達成、ファーストクラスへの機内酒やラウンジ提供酒への採用、輝かしい受賞歴など順調に進んでいるように思えるが、加登さんの顔は緩まない。


「たとえばダーツを初めてする時、ルールも分からないけどとりあえず手当たり次第に投げてみたらたまたま真ん中に刺さって、それっぽい音が鳴ったから『ここが当たりなのか!』とわかった、みたいな感じでしょうか。当たりの場所が分かれば、そこを狙って投げるだけ。僕がやっているのは同じようなことだと思っています。何が正解かも、行動した結果どうなるかも分からないけど、とにかくやってみたら結果が出た。言い換えれば、運が良いだけです」


■世界で戦うために足掻き続ける


いくら運が良いといっても、運だけで機内酒に採用されたり、品評会で立て続けに賞を受賞したりすることはできないだろう。その時々で努力や苦労を重ねてきたであろうことは、書いた通りだ。そう尋ねると、いかにも加登さんらしい答えが返ってきた。


「もちろん、やってきたことが目に見える形で評価されたことはありがたいと思いますし、特に評価基準が厳しいとされるSAKE COMPETITION(世界最大級の日本酒の品評会)で6位を受賞することができたのは素直に嬉しかったです。それでも、まだまだ道半ばですし、この先一生満足することはないですね。


日々、天領盃酒造も僕も成長していて、企業としても経営者としても日本酒としてもレベルアップしている。レベルアップすると同時に目指すものも視座も高くなる。そうすると、理想とするものに対しては技術がまだ追いつかない。だから僕の満足する気持ちがそこに追いつくことがないんです。まずは佐渡島だけでなく、新潟を代表とする酒蔵になりたいです。新潟の代表として日本そして世界のトップクラスで戦えるように、足掻き続けます」


加登さんが言うと、本当に実現するだろうと思ってしまう。伝統の重みによって止まりかけた風車を再び動かすように、日本酒業界に吹いた新しい風。革新の可能性を秘めたその風は、佐渡島の小さな蔵から日本海を越えて全国へ、そして世界へと吹き渡っていく。


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本間 ユミノ(ほんま・ゆみの)
ライター
1993年生まれ、新潟県出身。2児の母。金融業界での勤務を経て、2024年よりライターとして活動。食べることと寝ること、読書が好き。動かないことも動くことも好き。モットーは「夜を乗りこなす」。第49期 宣伝会議 編集・ライター講座修了。
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(ライター 本間 ユミノ)

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