なぜ、やなせたかしは『あんぱんまん』が酷評されても気にしなかったのか…妻が明かした異次元の素顔
2025年5月21日(水)8時15分 プレジデント社
CDデビューの記者会見で、歌を披露するアンパンマンの作者、やなせたかしさん=2003年12月5日午後、東京都文京区 - 写真提供=共同通信社
※本稿は、物江潤『現代人を救うアンパンマンの哲学』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
■『あんぱんまん』への予期せぬ悪評
絵本『やさしいライオン』が成功を収め、そして雑誌『詩とメルヘン』というヒットを飛ばしたことで、新作の依頼がやなせたかし先生に舞い込みます。ここで描かれたのが、1973年に発表された『あんぱんまん』でした。そして同作は、編集者、評論家、幼稚園の先生等々の各方面から、実に手厳しい批判を浴びてしまいます。残酷だ、もうこんな作品は描かないでください、こんなものは図書館に置くべきではない等々、散々な言われようだったようです。
しかし、やなせ先生はアンパンマンを捨てることができません。自身の出世作『やさしいライオン』ではなく、すこぶる評判の悪い『あんぱんまん』にこだわり続けます。
さて、そうは言っても、これだけ悪評がとどろいた作品です。また描いて世に出すなんてことは考えにくい。案の定、どこからも続編の制作依頼は届かなかったようです。
そんな状況のなか、やなせ先生は力業にでます。自身が編集長を務める『詩とメルヘン』に、アンパンマンの新作を連載してしまうのです。しかも、抒情詩を扱う雑誌なのに、不人気作のアンパンマンを叙事詩として掲載してしまうとくれば、もはや編集長による職権乱用に近い。どうしてもアンパンマンを描きたいという強い気持ちが伝わってきます。
写真提供=共同通信社
CDデビューの記者会見で、歌を披露するアンパンマンの作者、やなせたかしさん=2003年12月5日午後、東京都文京区 - 写真提供=共同通信社
■やなせ先生が困難にめげないワケ
この強引なまでの振る舞いは、定言命法の凄まじい力を物語っています。どんなに困難でも、どれほど批判をされようとも、「〜にもかかわらず」アンパンマンを描かずにはいられません。ひとたび定言命法が下れば、その人に恐るべき行動力を与えることがよく分かります。
一方、仮言命法であればこうはいきません。ヒット作をつくりたい「なら」、『やさしいライオン』の続編を制作「せよ」という仮言命法にしても、がらりと売れ筋が変わってしまえば、たちまち続編をつくる動機は消滅してしまいます。流行がどう変わろうがビクともしない定言命法とはまるで違うわけです。
仕事の核や勝負のしどころを見つけられない現代人がすべきことは、まずは「〜なら、……せよ」という仮言命法を絶対視するのをやめて、慣れ親しんでしまった目的論の呪縛から逃れることなのかもしれません。仮言命法にこだわるあまり定言命法を軽視してしまっては、勝負のしどころを見つけるのは難しいように思います。
■太陽のような柳瀬夫人の励まし
やなせ先生を支えていたのは、定言命法だけではありません。柳瀬夫人という非常に大きな支えがあってこそ、やなせ先生はめげずに仕事を続けることができました。その意味で、アンパンマンは柳瀬夫人との合作に他なりません。
ネガティブなやなせ先生に対し、柳瀬夫人は常に「あなたは普通の人とちょっと違うところがある。必ずいつか認められます」と励まし続けました。陰気だった当時のやなせ先生を、太陽のように陽気であった柳瀬夫人が照らし続けたわけです。
それでは、柳瀬夫人はどんなふうに「普通の人とちょっと違う」と感じていたのでしょうか。その一端が、1987年6月に発売された『週刊ダイヤモンド』の「佐々木信也のトップレディ対談」に掲載されています。
この対談で柳瀬夫人は「なんていうんでしょうね。ただ気がやさしいとかの程度じゃないんです。ちょっと標準をはずれるくらい」としたうえで、やなせ先生は虫も殺せないような人間であり、精神科医からは「あなた、そんなにやさしい目をしてて、よくこんな世の中に生きてますね」と言われたという逸話を紹介しています。
■「ムードで暮らしてます」との伴侶評
そんなやなせ先生に対し、柳瀬夫人は自分とは全く性格が違うと認識していました。これから描くものについて、やなせ先生は奥さんに何か話すのかと聞かれた際には「いいません。結局私と主人と性格があまり違うもんですから。私は現実的で理屈っぽい方で、主人はムードで暮らしてますから」と返答しています。そして、やなせ先生の詩集は必ず読んでいるとしつつも「私わからないんですよ。理解できないんです」と、やや素っ気なく思える返答をしています。
しかしながら、この返答には、やなせ先生が仕事に没頭できたカギが隠れています。
1歳の頃のやなせたかしさん(写真=『やなせ・たかしの世界』増補版/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
柳瀬夫人が「嬉しい話を描いている時はニコニコしながら、悲しい話の時は顔をしかめて描いてます」と話すように、やなせ先生はメルヘンの世界に入り込んでいました。やなせ先生自身が、まるでメルヘンの世界の住民だったと言っても過言ではありません。柳瀬夫人による「ムードで暮らしてます」との表現は言い得て妙です。
当たり前ですが、やなせ先生は現実に存在しています。「よくこんな世の中に生きてますね」と言われてしまう世知辛い世界にいます。過去、何度か自殺を考えたように、こんな世の中に自ら別れを告げるリスクもありました。やなせ先生のようなメルヘンの住民にとって、この薄汚い現実は随分と過酷であったはずです。
■メルヘンの住人であり続けられた理由
しかし、そんな現実での生活には、柳瀬夫人という最良のパートナーがいました。精神的なサポートだけでなく、ありとあらゆる家事雑事もこなすことで、やなせ先生が仕事に集中できる環境を整えたのです。
物江潤『現代人を救うアンパンマンの哲学』(朝日新書)
こうした献身的なサポートについて、柳瀬夫人は1988年5月28日付の『朝日新聞』で「夫の仕事がこんなだから、3度の食事はもちろん役所への用足し、計算、雑事はみんな私が引き受けて。1日30時間あったら、どんなにいいかって思います」と話しています。柳瀬夫人が現実における全ての仕事をこなしていたからこそ、やなせ先生がメルヘンの住民であり続けられたことがよく分かるコメントです。仮に柳瀬夫人までもがメルヘンの世界に共感し入り込みでもしたら、二人の生活はたちまち崩壊したことでしょう。
「困ったときのやなせさん」という評判もまた、やなせ先生がいつでも仕事に没頭できる環境が整っていたからこそです。この評判がやなせ先生を困らせたと本書で先述しましたが、本当に困らせたのは、そんな環境を整える役割をますます強いられた柳瀬夫人だったのかもしれません。
メルヘンの世界とは縁のない現実的な性格でありながら、やなせ先生の仕事を心の底から、それも底なしの陽気さで応援できる——。この柳瀬夫人なくして、やなせ先生の仕事は考えられません。
仙台アンパンマンこどもミュージアム&モールにて(写真=克年三沢/CC-BY-2.0/Wikimedia Commons)
■幻の迷作『熱血メルヘン 怪傑アンパンマン』
柳瀬夫人に支えられながら、やなせ先生は売れないヒーロー・アンパンマンを描き続けます。それも、ありったけの熱血を込めてです。
感情や情緒の表現である抒情詩が『詩とメルヘン』に並ぶなか、叙事詩として異彩を放つ『熱血メルヘン 怪傑アンパンマン』について、やなせ先生は次のように思いを語りました。
叙事詩は多く民族その他の社会集団の歴史的事件、英雄の事跡を客観的に叙述する韻文。
たとえばホメロスの『オデュッセイア』レッシングの『ラオコーン』ドイツの国民的史詩、英雄ジークフリートの死とクリエムヒルトの復しゅうをうたった『ニーベルンゲンの歌』等です。
(中略)「怪傑アンパンマン」は作者としては叙事詩をかくつもりでかいておるのですな。エヘンオホン(どういうわけかひどくせきこむ)。
(やなせたかし編『詩とメルヘン』第三巻第十三号十二月号、サンリオ、1975年)
やなせ先生が「民族その他の社会集団の歴史的事件」を描くのであれば、それは戦争がテーマになるはず。だから『熱血メルヘン 怪傑アンパンマン』には、やなせ先生が考える戦争を経験した日本社会の姿が、色濃く映し出されているに違いありません。やなせ先生の思想を理解するうえで、同作を読む価値は十二分にあるのです。
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物江 潤(ものえ・じゅん)
著述家
1985年福島県生まれ。早稲田大学理工学部卒業後、東北電力に入社。2011年退社。松下政経塾を経て、現在は地元で塾を経営する傍ら、執筆に取り組む。著書に『ネトウヨとパヨク』『デマ・陰謀論・カルト』など。
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(著述家 物江 潤)