「真の山一のDNAは…」再就職がうまくいかない仲間を助けるため人材派遣会社を立ち上げ…くすぶっていた“元・山一證券No.1営業マン”を復活させた「ある事件」

2025年5月26日(月)18時0分 文春オンライン

〈 「最低なサラリーマンだった」会社を辞めたあとは「今日はどこで飲もうか」と考える毎日…預かり資産100億円“山一證券No.1営業マン”だった男のその後 〉から続く


 山一證券から転職したあとは「酒を飲むこと」ばかりを考えていた永野修身さん。ところが、そんな彼に転機が訪れる。一度は燃え尽きた彼の心に、また火をともした「ある相談」とは——。山一證券No.1営業マン”だった男のその後の人生を、読売新聞の人物企画「あれから」をまとめた新刊 『「まさか」の人生』 (読売新聞社「あれから」取材班著、新潮新書)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/ 最初 から読む)



かつて山一證券のNo.1営業マンだった永野さん〈読売新聞提供〉


◆◆◆


元同僚たちからの相談


 そんな頃、山一時代の元同僚たちから相談が寄せられ始める。「転職した会社で酷使され、寝る時間もない」「入社前に聞いた年収と全然違う」──。7500人もの社員が職を失った混乱の中では、善意の再就職支援もあった一方で、不本意な転職となった仲間もいた。山一で組合活動をしていた永野さんを頼ってくる人は多かった。


「人の山一」が自慢だったのに、その「人」が力を発揮できないなんて。


「それなら、自分がプロになって助けよう」


 2000年12月、永野さんは、山一時代の先輩が役員を務める人材派遣会社に転職。仕事のノウハウを覚え、2003年に金融業界などに人材を紹介・派遣する会社「マーキュリースタッフィング」を設立した。


「マーキュリー」の名は、ロックバンド「クイーン」のボーカル、フレディ・マーキュリーからつけた。駆け出しの頃、クイーンの曲を聴いて闘志を燃やし、営業先に向かった永野さんとしては、かつての仲間を応援する会社にしたかった。


 同社から地元・栃木の銀行を紹介してもらった石山智志さんは、永野さんが新宿新都心支店で法人第1課長を務めていた頃の新人だ。自主廃業後、コンサルタント会社を起こしたが、2008年のリーマン・ショックで仕事が激減。「困ったことがあったら言ってこいよ」という永野さんの言葉を思い出し、連絡したという。「おかげで路頭に迷うことなく、人生を見つめ直すことができました」


契約社員→営業部長になった女性も


 やはり山一時代の後輩で、神奈川県内でアルバイトをしていた女性には、東京都内の銀行を紹介した。「彼女は同期でトップの営業成績だった。金融の世界にカムバックしたらいいと思った」と永野さん。


 最初は契約社員として採用されたこの女性は、数年後に正規雇用に。みるみる昇進し、現在は営業部長になった。「契約社員を1人送り込むために、マーキュリーは付きっきりで面接指導をしてくれた」と語る。


 元山一社員を受け入れたある大手銀行の担当者は「元山一の人たちは勉強熱心で気さく。支店の営業マンだけではなく、お客さんにも愛されていた」と話した。


 永野さんは2021年12月、社長を退き顧問になった。生み出した雇用は、元山一社員ら約500人を含め9541人。当初2人で始めた会社は、今は約60人となり、その4分の1は山一の元社員や家族だ。実は、野澤元社長も同年末まで取締役に名を連ねていた。「前を向いて頑張ろうとするのは立派ですよ」と、永野さんの姿勢を支持する。


 会社を起こす時に永野さんが肝に銘じたのが、「オープン」であること。


「真の山一のDNA」は…


「山一が突然死したのは、旧経営トップが社員のことも顧客のことも信じていなかったからではないか。損失を隠さず、皆が一丸となって知恵を出し合っていれば、自主廃業は避けられた」と思えてならない。だからマーキュリー社では、財務状況や契約書類は社員なら誰でも見られるようにした。個人の業績も全部オープンに。


「陽の当たる広い道の真ん中を愚直に歩いて行くことが、結局は大切なんだと思う」


 姑息な手を使わず、地道に誠実に、お客のために、会社のために、自分のために。それが「真の山一のDNA」だと、永野さんは思っている。


[2022年5月8日掲載/木村雄二]


(読売新聞社会部「あれから」取材班/Webオリジナル(外部転載))

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