結局G7サミットは「被爆地」の名を借りた岸田首相のための政治ショーだった

2023年6月6日(火)6時0分 JBpress


G7サミットは誰の、何のための、行事だったのか

「国家権力見本市2023」。5月19日からの3日間にわたって開かれたG7広島サミットは、広島市中心部に暮らす一市民のわたしにとって、そんな印象を残した。非日常で妙な緊張感が張り詰めた空気の中、生活のさまざまな局面で実に多くの規制や制限、指示が降りかかる一方で、それをひたすら受け入れることにならされていく日々だった。

 あるいは、「全国警察車両博覧会in広島」。北海道警から沖縄県警まで、全国各地のパトカーや白バイ、人員輸送車などの警察車両や各種装備品を見て、小学生の息子は終始大はしゃぎだった。

 G7サミットが過ぎ去って2週間あまり、日常を取り戻した広島で、今でもわたしは考え続けている。「あれはいったい、誰のための、何のための、行事だったんだろうか」

 平和記念公園の周囲には、内側の様子をうかがいしれなくなるように目隠しをした形で、背丈を超える高さのフェンスがぐるりと設置された。公園を所有・管理する広島市ではなく外務省の名で「静穏保持指定地域」と赤字で書かれた警告が、妙な威圧感を醸し出していた。

 開幕2日前の夜に原爆ドームの前を歩いていたら、他県からの応援組の警察官に「部外者の方は迂回してください」と指図された。子どもたちの小学校は休校措置が取られ、学童保育も休みとなり、甚大な影響を受けている一生活者なのに、県外から来た人に「部外者」よわばりされるとは。

 各国首脳の広島入りが始まってからの広島市中心部はカオスだった。信号待ちをしていたら、一瞬のうちに横断歩道が封鎖され、足止めを喰らう。いつ頃解除するかを聞いても「わからない」。迂回先での規制状況を聞いても「向こうで聞いて」。

 明らかにされるわけがない要人の皆様のスケジュールに合わせて、朝早くから深夜日付が変わる頃まで規制は続き、わたしたち庶民は終始振り回された。バイデン米大統領専用のイカつい公用車、通称「ビースト」も、期間中目の前で二度ほど見た。総勢40台ぐらいの大車列が通り過ぎる間のまちの異様な静けさが忘れられない。


被爆地が切に願う「核兵器廃絶」はどこへ

「部外者」扱いをされた広島市民のわたしだが、戦争の理不尽さや原爆の非人道性に対する怒りを抱きながら、核兵器の完全廃絶を願い、そしてその実現を見ることなく力尽きてしまった人々の話をたくさん聞いてきた一人の記者だし、子どもたちが生きていく社会が、核兵器による脅しなどがない公正な世界であってほしいと願う一人の親でもある。そして、原爆被害を実際に受けた被爆者の孫でもある。

 開幕が近づくにつれ、そして始まってからも、「これは、核兵器廃絶を願う世界の人たちにとって意味のある会議なんだ」「広島でやることにきっと意味があるんだ」と思うようにしてきた。

「核兵器のない世界への決意を改めて確認するとともに、法の支配に基づく、自由で開かれた国際秩序を守り抜く、こうしたG7の意志を強く世界に示したい」。広島1区選出の岸田文雄首相は、サミット開幕を前にそう意気揚々と語っていた。

 終わってみれば一市民の目には「自由で開かれた」どころか、「不自由で閉鎖的な」G7サミットにしか見えなかった。

「広島」の名を冠した共同声明「核軍縮に関するG7首脳広島ビジョン」は、「核兵器のない世界への決意」ではなく、「核兵器には防衛目的のための役割がある」ことを、核兵器を手放す気がない国々が確認しあう内容だった。つまりは、防衛のためには核兵器は必要だということだ。そんな考えは、「被爆地」の訴えとは大きく異なる。

 広島市は、米軍による原爆投下のその日である8月6日に毎年開いてきた平和記念式典で世界に発信する「平和宣言」において、核兵器は「絶対悪」だと訴えてきた。使わなければ持っていい、とか、特定の国は持っていていいとか、そういう考えではなく、文字通り「絶対悪」として、どの国による保有も許していない。もう一つの被爆地である長崎市だってそうだ。

 広島県の湯崎英彦知事は、2018年の平和記念式典において、「核抑止力」について、子どもにもわかるこんな表現を取り入れたスピーチをして話題になった。

「うちとお隣さんは仲が悪いけど、もし何かあれば、お隣のご一家全員を家ごと吹き飛ばす爆弾が仕掛けてあって、そのボタンはいつでも押せるようになってるし、お隣さんもうちを吹き飛ばす爆弾を仕掛けてある。一家全滅はお互い、いやだろ。だからお隣さんはうちに手を出すことはしないし、うちもお隣に失礼はしない。決して大げんかにはならないんだ。爆弾は多分誤作動しないし、誤ってボタンを押すこともない」。大人が子どもに対して、こんな説明ができるだろうかと問うた。


米国の指示の展示、核保有国に乗っ取られた平和公園

 岸田首相は、閉幕後の議長国会見の場で、「被爆地を訪れ、被爆者の声を聞き、被爆の実相や平和を願う人々の想いに直接触れたG7首脳が、このような声明を発出することに、歴史的な意義を感じます」と自信満々に語っていた。

 だが、原爆資料館は、地面から天井までガラス張りの壁が、内部が見えないように全体的に目隠しされていた。わずかの時間、首脳たちの前で自らの体験を語ることを任された被爆者は、証言の詳細や首脳たちのリアクションについて口外しないように指示された。資料館の中で、どういった展示品を首脳たちが見たのか見ていないのかについての情報もまるで開示されなかった。

 報道によると、展示の内容については、事細かに米国側から指示があり、日本側はそれに対して配慮したという。何をどう見たのか、あるいは見ていないのかもわからないまま、「被爆の実相」などという常套句を使われても、手放しで評価できるわけがない。核兵器を持つ国、そして核の傘の下で守られている国々のG7首脳たちは、本当に「被爆の実相」に触れたのだろうか。資料館を隅々まで見たとしても、それでも「被爆の実相」の一部でしかないというのに。

 旧知の被爆者たちは、力無さげにこう言った。「平和公園が核保有国に乗っ取られてしまった」「平和のまちが、汚されてしまったね」。彼らもまた、わたしと同様、サミットの「部外者」だったということなのだろうか。

 核兵器禁止条約の採択への貢献を認められ、2017年にノーベル平和賞を受賞した「ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)」国際運営委員の川崎哲氏は、「(G7首脳の共同声明は)核兵器廃絶を求めていない。『核兵器のない世界』という言葉は出てくるが、行動しない言い訳ばかり」と鋭く批判した。「核兵器による威嚇や使用を非難することをロシアの問題に矮小化している。すべての核保有国の課題ではないか」。

 13歳の頃に広島で被爆し、ICANの若者たちの精神的支柱となってきたカナダ在住のサーロー節子さんも「『広島』の意味を少しでも理解してほしかった。広島に来てこれだけしか(共同声明に)書けないかと思うと胸がつぶれそう」。核兵器禁止条約についての言及がまったくなかったことを嘆いた。


国家権力の前で考える「被爆地」の意味

 そんな残念なG7広島サミットだったが、学んだこともある。うまく言葉で表現できないが、「戦争に向かう社会の空気感」とでも言おうか。

 国家総力戦の遂行のため、国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できることを規定した「国家総動員法」なり、「国の非常事態下で起きた身体や財産の被害は、国民が等しく受忍(我慢)しなければならない」という、いわゆる「受忍論」なり、戦時下そして戦後史に出てくるそうしたフレーズについて「こういうことか」とその雰囲気の一端を感じることができた。いざとなれば、国家権力はいかようにも庶民の権利や生活を制限できるんだ、と。

 サミットへの異論を表明する声も上がったが、「静かにしろ」「水を差すな」と言わんばかりの圧力にかき消された。必ずしも国家権力だけでなく、「受忍論」を受け入れた人たちによって。

「『被爆地で開催されたサミット』だとしきりに言われているけれど、長崎での受け止めはどうだった?」。語り継ぎに取り組んできた長崎の人に尋ねると、答えはこうだった。「長崎の『な』の字も無く終わった。広島だけのG7。被爆地は広島だけに見えた。同じ被爆地なのに、なんだろう」。だが、広島のわたしにとっては、広島さえも被爆地ではなくなったように見えた日々だった。

 サミットの開催地は、「被爆地・広島」ではなかった。広島生まれでなければ広島育ちでもない岸田首相のお膝元「広島1区」でしかなかった。「被爆地」の名を借りて、壮大な政治ショーが展開されたことを、被爆地広島、そして被爆地長崎の足元に眠る、核兵器によって奪われた命たちはどう感じているだろうか。彼らは、核兵器の被害者であるだけでなく、国家権力の暴走の被害者でもある。

 もう何も言うことができない彼らに代わって、声のあるわたしたちがきちんと表明していかなければいけない。「過去の過ちを繰り返さないでくれ」「核兵器廃絶をいつまでたっても『理想』扱いするのではなく、現実の社会課題として真剣に取り組んでくれ」と。

筆者:宮崎 園子

JBpress

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