コシノヒロコ「着る人を美しく見せる服作り」の原点とは。「『おまえはブスや』とよく言われた子ども時代。外見よりもっと大事なのは、本質的な個性」
2025年2月20日(木)12時30分 婦人公論.jp
コシノヒロコさん(撮影:下村一喜/『コシノ三姉妹 向こう岸、見ているだけでは渡れない』より)
大阪・岸和田のコシノ洋装店に生まれたコシノヒロコさん、コシノジュンコさん、コシノミチコさんの三姉妹は、50年以上ファッション業界で世界的な活躍をしています。そんな三姉妹の初の共著『コシノ三姉妹 向こう岸、見ているだけでは渡れない』が、2025年1月10日に刊行されました。そのなかから、三者三様の人生哲学の一部をお届けします。5月23日からは、連続テレビ小説『カーネーション』のモデルになった母・小篠綾子さんとコシノ三姉妹の人生を描いた映画『ゴッドマザー コシノアヤコの生涯』も公開され、ますます目が離せない姉妹です。
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パリコレでの悔しさもバネに
パリコレに初参加したのは82年です。
アパレルの経営者が集まる会議で、私が「日本のよさを海外に売り込んでいく時代です」と訴えたところ、イトキンの辻村金五社長が、「ローマでのコレクションは大成功で、あの洋服、全部アメリカ人に買われたんやってな。僕らはパリのデザイナーと提携して、高いお金を払っているけれど、今度は日本のデザイナーを外に売っていく時代や。一緒に、パリコレに打って出ようやないか」と持ち掛けてきたのです。
そんなわけで実現したパリコレは、残念ながら悔しい結果に終わりました。期間中、大中小のテントでそれぞれのブランドがショーを開くのですが、パリでは無名だった私は一番小さなテントでした。その上、プレスの人たちを誘導する際、現地のスタッフがわざと私のテントを飛ばしたのです。
そのときは腹が立ちましたが、落ち着いて考えてみれば、そうした扱いを受けるのも致し方なかったのかもしれません。
当時、経済成長をいいことに、日本の企業がフランスの由緒あるレストランやゴルフ場、お城まで買い取るなど、やりたい放題でした。また、家電や車のメーカーが進出して、フランスの企業を圧迫していたこともあり、当時フランス人にとって日本人は鼻もちならない存在だった。
だからパリコレに参加するにあたっても、イトキンは高いお金を払わざるをえなかったし、私もカネに飽かしてショーにやってきたんだろう、という目で見られたのでしょう。どうやら「日本人がフランスの文化を荒らそうとしている」と思われたようで、フランスのファッション誌でも酷評されました。
苦い経験も糧になる
それでも、アジアの技術を生かした高度な刺繍を施した作品を褒めてくださった方もいましたし、パリコレに出たということで日本での注目度がぐっと上がり、デパートでの扱いも変わりました。
翌年にパリのサン=トノーレ通りに出店する夢も叶えることができ、84年には改革開放路線が始まっていた中国・上海でファッションショーを開催し、テレビ放送までされる大成功を収められた。
『コシノ三姉妹 向こう岸、見ているだけでは渡れない』(著:コシノヒロコ、コシノジュンコ、コシノミチコ/中央公論新社)
中国では反響の大きさに嬉しくなって、打ち上げの場でテーブルの上に乗ってザルを持って踊ってしまったのはいい思い出です。上海市長の「外から新しい、素晴らしい風を上海に持ち込んでくれた」という言葉は、とても励みになりました。
こんなふうに、苦い経験も厳しい目で見られることも、考え方次第で励みにも糧(かて)にもなると思っています。
断腸の思いで大阪を離れる
85年、仕事の拠点を東京に移しました。関西を離れることに対しては、内心忸怩(じくじ)たる思いもありましたが、バブル経済期を前にモノもお金も情報も東京に一極集中し、ファッションビジネスも大阪にいると後れをとる時代になってしまっていたのです。
バブル期は大量消費の時代でしたが、私はいいものを作るという方針を貫きました。そのため縫製工場泣かせとも言われましたし、こだわってモノづくりをしたため利益率が低く、赤字になる年もありました。それでも私は、自分の信念を変えるつもりはありませんでした。
バブル経済が崩壊し、景気が悪くなると、倒産する縫製工場も増えました。でも、他の仕事が激減している時期だからこそ、複雑なデザインも時間と人手をかけて丁寧に取り組んでくれ、難しい技術を求められても頑張ってついていくと言ってくれる工場経営者もいたのです。
おかげで他にはないファッションをみなさんにお届けすることができ、バブル崩壊後、黒字に転換できたと自負しています。
このように、さまざまな艱難(かんなん)辛苦がありましたが、今思えばすべてが糧となりました。苦しみはあるのが当たり前。なんでもスイスイとうまくいっていれば、こんなに長続きしなかったかもしれません。
やはり継続するには、苦しみも喜びもひっくるめて全部取り込み、なにが起きても乗り越える力を自分で育まなくてはいけないのだと思います。
ちなみにビジネスの拠点を東京に移したとはいえ、今でも私にとって関西は原点の地。今も週末は必ず芦屋の家で過ごすようにしています。
毎週飛行機で往復するのは大変ですが、緑に囲まれた静かな芦屋の家で絵を描いたり、お客様方を招いて食事をするなどしてリフレッシュするからこそ、東京で忙しい日々を過ごすためのエネルギーがチャージされるのです。
コンプレックスを美点に変える
私は一貫して、「着る人をいかに美しく見せるか」を大事にして服作りをしてきました。その原点は、変な言い方ですが、私が美人に産んでもらえなかったことかもしれません。
子ども時代は、学校で「おまえはブスや」とよく言われました。そんなこともあって、ファッションの仕事を始めてからは、自分を美しく見せるにはどうしたらいいかを真剣に考えるようになりました。
今もデザインをしているときが一番楽しいのですが、デザインしながら考えるのは、「この服、私に似合うかしら」「もっと自分をきれいに見せるにはどうしたらいいんだろう」ということ。
きれいなモデルさんが着なければ映えない服では、多くの人に買っていただけません。美人に生まれなかった私だからこそ、着る人の気持ちを第一に考えるデザイナーになれたのではないかとも思っています。
女性はともすれば、「私は目が小さい」「背が低い」など、容姿に関してマイナス面を探してコンプレックスを抱きがちです。でも実は弱点だと思っているところが、プラスにもなります。
背が低い人は、かわいらしいファッションが似合うかもしれないし、目が小さい人は、メイクとファッションでジャポネスクな美を表現できます。ふくよかな人には、私は「その身体があなたらしさなんだから、そこをもっと生かしましょうよ」と言います。
でもそうした外見よりもっと大事なのは、本質的な個性です。歳を重ねれば重ねるほど、その人の生き方によって培われてきたものが見えてきます。それは、人間性と言ってもいいかもしれません。そうした個性を見ながら、その人に似合う服はどんなものかを考える。それが、私のデザインの基本です。
90歳を目前に
ファッションの仕事は毎年毎年、春夏と秋冬の2シーズン、新しいものを作っていかなくてはいけないので本当に忙しく、年齢なんて気にしているヒマがありません。
その一方で、重ねてきた年の分だけ経験という財産が増えるのも確かです。その財産を放出する場があるのは、とても幸せなことです。しかも、たくさんの人たちが「ヒロコさんの新しい服を着ると気分が上がる」と喜んでくださいます。こんなにありがたいことはありません。
みなさんに喜んでいただけると、それが私の喜びとしてかえってくるし、もっと素敵なものを作りたいというエネルギーの源になります。90歳を目前にした今も、日々、新鮮な気持ちで仕事を続けられるのは、みなさんから喜びのパワーをいただいているおかげです。
※本稿は、『コシノ三姉妹 向こう岸、見ているだけでは渡れない』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。