二年の収監後に放免された『まんぷく』萬平のモデル・百福。信用組合理事長になって平穏な暮らしが続くと思いきや、妻の心にまさかの変化が…

2024年3月5日(火)7時0分 婦人公論.jp


百福が信用組合の理事長になったことで、生活は華やかになりましたがーー(写真提供:Photo AC)

2018年に放送されたNHK連続テレビ小説『まんぷく』がNHK BSとBSプレミアム4Kで再放送され、再び話題となっています。『まんぷく』のヒロイン・福子のモデルとなった、安藤仁子さんは一体どのような人物だったのでしょうか。安藤百福発明記念館横浜で館長を務めた筒井之隆さんが、親族らへのインタビューや手帳や日記から明らかになった安藤さんの人物像を紹介するのが当連載。今回のテーマは「一難去ってまた一難 〜仁子、巡礼の旅」です。

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銀行の頭取に


脱税容疑で二年の収監後、放免はされたものの、百福の人生はまた振り出しに戻ってしまいました。人間の運は、いったん悪い方へ転がり出すと、もう止めようがないのかもしれません。心のどこかにあせりがあって、冷静な判断を誤らせるのでしょうか。

1951(昭和26)年のことです。百福は四十一歳になっていました。

ある日、こんな話が舞い込みました。

「信用組合を新しく作ります。ついては理事長を引き受けてくれませんか」

百福は金融関係の仕事は経験したことがありません。いったんは断ったものの、「そこを何とか」としつこく依頼されます。三顧の礼といえば聞こえはいいのですが、実際は「名前だけで結構です。安藤さんのような方がトップにいるだけで信用がつくから」というものでした。

はっきりと断るべきだったのです。しかし、百福はいろいろ苦労した後でした。こうした誘いがうれしくもあり、おだてに弱くなっていたのでしょう。理事長のポストを引き受けてしまったのです。

小さくても銀行の頭取です。生活は華やかになりました。それまで仕事一途でほとんど趣味も遊びもなかった百福ですが、ゴルフを覚えました。早朝、ゴルフ場が開くのを待ちきれずにコースに入り込み、練習をするほど熱心でした。始めると夢中になるくせは仕事だけではなかったのです。

また、宝塚歌劇が好きになり、当時、娘役の人気スターだった乙羽信子のファンになりました。観に行きたくなると、自分からは言い出しにくいので、いつも子どもやお手伝いさんに言わせて「では連れて行ってやるか」とチケットを買いました。

小さい宏基(次男)は少しも面白くありません。ステージのすぐ下のいい席で見るラインダンスがはずかしかったのです。席に座らず舞台横の隅っこに立って、舞台を見ないで客の顔ばかり見ていました。百福はよく家で「すみれの花咲く頃」を歌いましたが、あまり上手ではなく、実際の歌を聴くと違う歌に聞こえたほどです。

心の変化


正月の三が日には、池田の自宅に年賀の客が絶えません。とうとう百人を超すようになると、もう仁子の手に負えなくなり、コックを二人呼んでお膳を用意するほどのにぎわいになったのです。

仁子は家事の合間に、映画と文楽を見るのを楽しみにしました。洋画が好きで、映画を見て帰ってくるといつも主題歌を口ずさみました。『腰抜け二挺拳銃』(1949年、米映画)でボブ・ホープが歌った「ボタンズ・アンド・ボウズ」(ボタンとリボン)や、フォークソングの「テン・リトル・インディアンズ」をきれいな声で歌いました。若い頃から親しんだ英語の発音はさすがに上手だったそうです。文楽もよく観に行きました。こちらは若い頃の百福にそっくりな人形遣いがいたためです。

須磨(仁子の母)はもっぱら、孫の面倒を見ました。幼い宏基と明美(長女)が可愛くて仕方がなかったのです。二人が幼稚園に通っている頃は、いつも三人が川の字になって寝ていました。小学生になって、二階の個室をもらうようになると、須磨は孫のことが気にかかり、夜中に階段を上がって様子を見に行くのでした。顔をさわって、ちゃんと息をしているか確かめるのが日課だったのです。

一見、平和な暮らしです。

しかし、仁子の心に変化が生じました。


『チキンラーメンの女房 実録 安藤仁子』(著:安藤百福発明記念館/中央公論新社)

今は幸せだけれど、人の世は無常。泉大津の時のように、いつなんどき、また家族に災難が降りかかるか分からない。結婚した当時、「人間にとって一番大事なのは食だ」と、塩や栄養食品の開発に取り組んでいた百福が、今は慣れない銀行の仕事をしている。大丈夫だろうか。そんな不安がよぎったのかもしれません。「私にできることは祈ること」と、仁子は信仰の道に入りました。

巡礼の旅


山梨県にある日蓮宗総本山久遠寺の修行僧だった関法尊(ほうそん)師に出会い、教えを受けることにしました。人を悲しみから救ってくれる観音様の慈悲を知り、自らも観音様と一体となることを望んだのです。

近畿二府四県と岐阜県に点在する「西国三十三観音霊場」を巡礼しました。日本ではもっとも古い霊場で、全部を回ると「現世のあらゆる罪が消滅する」というので多くの巡礼者を集めました。仁子はいつも行けるところまでは車で行き、後はたった一人で歩きました。元気な時は、馬が歩く幅くらいしかない狭い山道を登りました。観音様めぐりがすべて終わると、すぐに新しい巡礼の旅を始めました。

現世利益を叶えてくれるという「近畿三十六不動尊霊場」、病気を治して長生きできるという「西国四十九薬師霊場」、さらに、他人を苦しめないようにという「尼寺三十四霊場」をめぐり、その合間に「関西花の寺二十五ケ所」を訪れて季節ごとに咲くアジサイ、ハナショウブ、カキツバタなどを愛でるのでした。

ただし、弘法大師ゆかりの寺を訪ねる「四国八十八ケ所霊場」めぐりだけは晩年の楽しみにとっておきました。

仁子の巡礼はすべて日帰りでした。車や飛行機で出かけますが、帰る頃になるといつもそわそわし始めます。家のことと、百福の帰りを気にしているのです。

「主人の健康は、私が支える」


百福は若い頃から早寝早起きで、仕事が終わるとさっさと帰宅しました。高級料亭の宴会や、酒席のお付き合いがあまり好きではありませんでした。その代わり、家では夕食、朝食はフルコースといっていいほどしっかりと食べました。仁子はその準備にいつも頭を悩ませていたのです。

「主人の健康は、私が支える」という責任感が強く、帰宅した百福が、今日はこれが食べたいというと、今まで準備したものをすべて作り変えました。

百福はいつも世界の中心にいる人でした。何か始めると、周りの人はいつの間にかその渦に呑みこまれました。仁子は決してグチは言いませんでしたが、我慢にも限界がありました。

気持ちがどうしても収まらない時は、周りにいる人に、「ちょっと手を出してちょうだい」と言い、出てきた手の平を「くそっ」と言ってつねるふりをし、溜飲を下げたそうです。これをいつしか人は「仁子のくそ教」と呼ぶようになりました。幼少時から、どんなにつらいことがあっても「なにくそ」と乗り越えてきた仁子ですが、晩年の対象は、いつも百福だったのです。

不安が現実に


さて、「名前だけで結構ですから」と頼まれて引き受けた仕事ですが、百福はただ、じっと座っている仕事は性に合いません。営業担当者と一緒に心斎橋周辺をぐるっと挨拶に回ると、相当な預金が集まりました。「私の信用度もまんざらではないな」と内心うれしくなりました。

百福自身も口座を作り、トラの子のお金をすべて預金しました。

最初の数年間は順調に進みました。やがて雲行きが怪しくなりました。組合員への融資がルーズだったため、あちこちで不良債権が発生していたのです。こんな時に限って、うまい話が持ち込まれます。不振を一挙に取り戻せそうな投機的な話です。経営を再建したいという思いでこの話に乗りました。やはり、失敗でした。

百福は自分の預金を引き出して債権の処理にあてようとしました。しかしすでに信用組合の資産は凍結されていて、自分の預金口座といえども勝手に引き出せない状況になっていたのです。倒産です。百福は理事長として責任を問われました。またしても、財産を失うことになったのです。

国税局の役人が池田市呉服町の家に差し押さえにやってきました。彼らが、玄関先から上がり込んでくる前に、須磨は現金や証書類を腹巻の中に隠しました。残りはまとめて仁子に渡します。仁子はそれをハンドバッグに押し込むと、離れの間にほうり込みました。

別の部屋では、スキー場から帰ってきたばかりの冨巨代(仁子の姪)が疲れて寝ていました。その布団の中にも書類を隠しました。税務署員も、さすがに若い女の子の布団までははがせませんでした。またとっさに、小学校一年生だった明美のランドセルの中にも書類を押し込みました。明美はそのまま気が付かずに学校に行き、何も知らないままに帰宅しました。

役人は裸電球のともった納戸の中に入って財産になりそうなものを探していました。小学校三年生の宏基がタンスに貼られた赤紙をはがそうとしましたが、「これはもう私たちのものではないのよ」と須磨に止められました。

税務署の査察は三回ありました。百福はいつも不在で、翌朝になると、食堂で何事もなかったように、知らん顔をして座っていたそうです。

仁子の漠然とした不安が現実のものとなってしまったのです。

※本稿は、『チキンラーメンの女房 実録 安藤仁子』(安藤百福発明記念館編、中央公論新社刊)の一部を再編集したものです。

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