そそっかしかった『まんぷく』福子のモデル・仁子。娘の願書を別の高校へ送ってしまい…子どもたちが成長するなかで気付いた母の愛とは

2024年3月30日(土)6時31分 婦人公論.jp


試験当日、どこを探しても受験票が見当たらずーー(写真提供:Photo AC)

2018年から2019年にかけて放送されたNHK連続テレビ小説『まんぷく』がNHK BSとBSプレミアム4Kで再放送され、再び話題となっています。『まんぷく』のヒロイン・福子のモデルとなった、安藤仁子さんは一体どのような人物だったのでしょうか。安藤百福発明記念館横浜で館長を務めた筒井之隆さんが、親族らへのインタビューや手帳や日記から明らかになった安藤さんの人物像を紹介するのが当連載。今回のテーマは「仁子の愛 〜鬼から慈母へ」です。

* * * * * * *

母が一緒に来てくれてよかった


宏基(次男)に「鬼の仁子」と怖がられましたが、本人は後年、「子どもたちのことをもっとかまってあげたかった」と話していました。結婚してからずっと、百福のいつも前しか見ない人生に振り回され、多事多難だったのです。仁子の生活は百福の身の回りの世話で精いっぱいでした。その分、子どもたちに母親らしい接し方ができなかったことを悔いていました。

戦後、家事、育児を一手に引き受けたのは、実は須磨(仁子の母)でした。

仁子は、「結婚後、母が一緒に来てくれてよかった。私を助けてくれた」と、須磨に対する感謝の思いを書き記しています。

須磨は1968(昭和43)年11月に亡くなりました。八十九歳でした。

家族全員でチキンラーメン開発を手伝った池田市呉服町の借家を出て、同じ池田市満寿美町の自宅に引っ越した翌年でした。百福はちょうど、カップヌードルの開発に忙しい時期で、研究所で作ったスープの味が気に入らず、満寿美町の自宅の台所で自ら調理して研究していました。

また、肉と野菜をミンチ状に加工した「ダイスミンチ」(現在は通称「謎肉」と呼ばれています)も、当時、百福が自宅で工夫して作りあげたのです。須磨は、若い頃と変わらぬ百福の姿を見ながら、日清食品の成功と、仁子や孫たちの幸せを確信して、安らかな眠りについたのです。

仁子の愛


いたずらっ子だった宏基は、成長するにつれて仁子の愛を強く感じるようになりました。こんなことがありました。

宏基は高校時代、ギターを弾き、ベンチャーズのコピーバンドを作っていました。ベンチャーズ・コンクールに出て第二位になるほどのめり込んでいました。慶應義塾大学の合格祝いに、三菱自動車のコルトを買ってもらいました。それで事故を起こしたのです。

新車がうれしくて、気持ちが大きくなっていたのでしょう、前を走るトラックにヘッドランプを点滅させてパッシングしたのです。左に寄せてくれたので対向車線にハンドルを切ったとたん、正面衝突しました。相手の車は道路から横の田んぼに転落しました。三人ほど乗っているのが見えました。

宏基の車は何回転かして、路上で止まりました。ドアから外に飛び出したギターを拾い上げた後、気を失いました。ハンドルが折れて胸に刺さっていましたが、命はとりとめました。

仁子がタクシーに乗って病院に駆けつけました。途中、タクシーが事故現場の横を通り過ぎた時、運転手が、「ひどい事故だったから、二、三人は死んでるね」と話しかけたのです。仁子は全身から血の気が引きました。

「息子の命が、無事でありますように」

仁子は病院に着くまで、祈り続けました。


『チキンラーメンの女房 実録 安藤仁子』(著:安藤百福発明記念館/中央公論新社)

祈りは通じました。

宏基は目の周りを傷つけましたが、奇跡的に無事でした。また、対向車に乗っていた人たちも全員無事と聞いて、ほっと胸をなでおろしたのでした。

後で分かったことですが、フロントガラスとダッシュボードの隙間に、仁子が安全祈願した木製のお守り札が、手でとれないほど深く食い込んでいたのです。ガラスが割れなかったのはお守りのお陰でした。もし、フロントガラスが割れていたら、命はなかっただろうと言われました。

大きな慈悲


またこんなことがありました。

慶應義塾大学に入学したばかりの十八歳の時、友達が渋谷の盲目の女性占い師マリー・オリギンをナンパして一緒にお茶を飲みました。本人は「目が悪くてぼやっとしか見えない」らしいのですが、宏基に対してこう言うのです。

「あなたはお母さんに一生守られています。つぶれた家を建て直すことになるでしょう。あなたのお母様は大きな慈悲を持っておられて、あなたは守られているのです」

「目が悪いのになぜそんなことが分かるのですか」と聞き返しました。

「あなたが豊かな声をしているので分かるのです」と答えたのです。

友達二人も見てもらうと、一人は「家業を継ぐでしょう」、もう一人は「ご養子になるでしょう」と言い、その通りになりました。ここまで当てる占い師は見たことがなく、宏基はそれ以来、仁子をお守りと信じ、あの事故で死ななかったのも仁子が守ってくれたお陰と信じるようになったのです。

大学を卒業するとすぐ、宏基はアメリカに留学しました。出発する時に、仁子はこう言って送り出しました。

「何があっても、命だけは持って帰ってきなさい」

鬼から慈母へ


仁子は日清食品の新しい工場ができた時や、家族の家が建つたびに安全祈願の観音様を祀りました。そして自ら入魂の儀に立ち会い、定期的なお祈りを欠かしませんでした。

宏基によると、「父は宗教を信じない自分教の人で、息子の私も無神論者だった。せっかくの母の思いはなかなか通じなかったが、いまに至って思えば、経営が順調で、工場事故も少なく、家族が健康なのは母・仁子の見えざる祈りの力があったと感じている」というのです。

「私は慈母に守られている」と。

とうとう鬼が慈母になったのです。

仁子は生前、百福と宏基が親子そろって信仰心がないので、「安藤家はもう終わり」と嘆いていました。ところが、孫の徳隆(宏基の長男)が二十歳になった時、「成人のお祝いに何がほしい?」と聞くと、「毘沙門天(びしゃもんてん)の仏像がほしい」と言うので、たいそう喜びました。

毘沙門天は仏教の四天王の一つで、勇ましい武神としてあがめられています。さっそく彫り師に仕上げてもらい、入魂をすませた仏像をプレゼントしたのです。以来、徳隆はこれを自分の守り本尊として大切にしているのです。

クジラの仁子


仁子はじっとしているのが嫌いでした。何かあるとすぐに動き、自ら立ち上がりました。

ある時、仁子のところへ神戸女学院の学長から「文化祭に来ませんか」という誘いがありました。「息子さんのご結婚相手にふさわしい学生がいるので、紹介したい」というのです。仁子はすぐに腰を上げました。あまり乗り気でない宏基を説得して、二人で会いに行くことにしました。

すると、好奇心旺盛な百福がだまっているわけはありません。息子の嫁探しとなればなおさらです。「私も一緒に行く」と言い出して、結局三人で出かけることになりました。しかし、何かの手違いで、相手は現れません。

恐縮した学長は「今日はたくさん学生が来ています。せっかくだから、いい人を見つけてください」というのです。

「もう帰ろう」

百福は機嫌が悪くなりました。

三人が校門に向かって歩いていると、向こうから二人連れの女子学生がやって来ました。そのうちの一人、宇治金時をほおばりながら歩いてくる可愛い女性が、宏基の目にとまりました。仁子がさっと近寄り、声をかけて本人の名前を聞き出しました。怪しい者と間違われないように、百福の名刺を差し出しました。

すると一緒に歩いていた友達が、「あら安藤さんですか」と声を上げたのです。偶然でした。二人は神戸女学院の文化祭に遊びに来ていた甲南女子大学の学生で、友達の方の姉がたまたま明美(長女)と同級生だったのです。おたがいに安心して話が進みました。

女性の名前は荒牧淑子(よしこ)です。英語が堪能で、テニスが上手なスポーツ・ウーマンでした。これが縁で1976(昭和51)年4月、宏基と結ばれました。

長男の徳隆と次男の清隆が生まれました。

仁子は、父親譲りのわがままな宏基には、しっかりした嫁が来てほしいと願っていました。さいわい、淑子はよい家庭で育てられた女性で、子どものしつけや教育にも厳しく、そんな嫁の姿を見て、これで二人の孫は礼儀正しい人間に育つだろうと安心したのです。

笑い話ですが……。

八十代も半ばになると、仁子は百福のいない昼間に、母親同士が集まって食事会を開くことが楽しみの一つでした。ある時、料理の上手な淑子に、「何か変わった料理を作って」と頼むと、淑子は腕を振るってラザーニアを作りました。

すると、仁子がこっそり、「淑子さん、この料理、糸を引いているけどだいじょうぶ?」と聞くのです。「これ、チーズですから」と答えると、みな安心して、「おいしい。おいしい」と食べつくしたそうです。仁子はそれ以来、すっかりチーズ料理にはまってしまいました。

淑子が厳しい分、仁子は安心して孫を甘やかすことができました。小学校の運動会には孫の応援に東京まで足を運びました。「徳も清も、一等賞。立派な体に育ってくれて、ほんとうにうれしい」と、日記に書くほど大喜びです。

清隆が大きくなって、結婚の報告に来た時、仁子はこんな言葉を送りました。

「私の結婚式は戦争中で、食べるものが少なかったから、カエルを食べたわ。それでも幸せでした。何事も、どう感じるかが大切よ」

どんな悲しいことも、つらいことも、我慢して飲み込んでしまえば、人は幸せになれる、というのです。「クジラの仁子」の面目躍如です。

忘れられない思い出


ときどき、仁子は明美に言いました。

「あなただけは、決して再婚の人と結婚しないでね」

自分も母の須磨も結婚相手は再婚で、いろいろ苦労しただけに、娘にだけはよけいな苦労をさせたくないという思いがあったのです。

明美は言われた通り、知り合いの紹介で初婚の男性とお見合いすることになりました。兄と一緒に電子部品メーカーを共同経営していた堀之内徹です。百福がアメリカへ出張する予定があったため、見合いの席は羽田空港でした。あわただしい見合いを終えて、百福はその夜の便でロサンゼルスに向かいました。翌日、アメリカへ着くなり電話がかかってきました。

「いいじゃないか」の一言でした。

堀之内は長身で、礼儀正しい好青年。百福も仁子もぞっこんで、明美もすぐに気に入り、交際が始まりました。ところがしばらくして、堀之内から自身の会社の経営状況の都合で「結婚は待ってほしい」という連絡が来たのです。

そのまま五年が過ぎましたが、やはりご縁があったのでしょう、間に入っていた方から連絡があり、「やっと落ち着いたので、結婚を」という堀之内の意向が伝えられました。

明美の思いは五年の時を経てようやく通じたのです。

1976(昭和51)年6月、二人は晴れて結婚しました。兄宏基の結婚式のわずか二か月後でした。仁子は母親としてのつとめを相次いで果たしたことで、ほっと胸をなでおろしたのです。

「母は鷹揚な性格でしたが、少しそそっかしいところがありました」

明美はそう言って、忘れられない思い出を語りました。

明美は池田の学芸大附属中学校から、編入試験を受けて甲南女子高校に入りましたが、そのいきさつが、仁子のとんだ勘違いから始まったのです。

実は明美は、大阪府立北野高校を受験することになっていました。試験当日、どこを探しても受験票が見当たりません。明美はべそをかいています。仁子がまちがって、願書を違う学校に送ったらしいのです。

送り先は、編入試験を受ける予定のあった神戸市東灘区の甲南女子高校でした。担任の先生が慌てて学校を走り回り、すったもんだした末に、北野高校には行けませんでしたが、甲南女子高校に無事入学できたのです。

明美はその後、甲南女子大学に進学します。

図らずも、それが宏基と淑子の出会いを後押しすることになりました。これも、そそっかしい仁子が取り結んだ、何かの縁だったのでしょうか。

※本稿は、『チキンラーメンの女房 実録 安藤仁子』(安藤百福発明記念館編、中央公論新社刊)の一部を再編集したものです。

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