アメリカでラーメンを割り入れた紙コップにお湯を注ぐ様子を見た『まんぷく』萬平のモデル・百福の頭に閃いたのは…<カップヌードル誕生の瞬間>

2024年3月30日(土)6時30分 婦人公論.jp


百福は海外にインスタントラーメンをどう売り込むかで頭がいっぱいでーー(写真提供:Photo AC)

2018年から2019年にかけて放送されたNHK連続テレビ小説『まんぷく』がNHK BSとBSプレミアム4Kで再放送され、再び話題となっています。『まんぷく』のヒロイン・福子のモデルとなった、安藤仁子さんは一体どのような人物だったのでしょうか。安藤百福発明記念館横浜で館長を務めた筒井之隆さんが、親族らへのインタビューや手帳や日記から明らかになった安藤さんの人物像を紹介するのが当連載。今回のテーマは「米国視察 〜カップ麺のヒントつかむ」です。

* * * * * * *

米国視察


「アメリカに視察に行ってくる」

1966年(昭和41)年になって、百福は突然、アメリカ行きを思い立ちました。

十三田川の工場で始めたインスタントラーメンの製造は需要に追いつかず、わずか二年後、高槻市に移転、日産十万食の工場を完成させました。さらにその四年後には、東京・大阪の証券取引所第二部に上場。百福の仕事は破竹の勢いで伸びていきました。

百福はもう、次のことを考えていました。

「日本国内はいずれ競争が激しくなって、必ず頭打ちの時が来る。そろそろ海外進出を考えないといけない」と思ったのです。

「インスタントラーメンを本格的に世界に広めるためのヒントを手に入れたい」と。

百福はチキンラーメン発売前にも、アメリカ市場に輸出していましたが、当時の売り先は、ロサンゼルスのアジア系移民を対象にした店舗に限られていたのです。

百福のやることにはいっさい口をはさんだことのない仁子ですが、この時は、「すこし様子を見られたらどうですか」と反対しました。

その年は不思議に航空機事故が多く、2月、羽田空港沖墜落事故で百三十三人が死亡、3月、同じ羽田空港への着陸失敗で六十四人が死亡、その翌日、富士山上空で英国航空機が空中分解し百二十四人が死亡する事故が起きていました。

しかし、百福は聞き入れません。

「死ぬ時は座敷に座っていても死ぬものだ。それに、これ以上事故が続く確率は天文学的に低いはずだ」

そんな捨てぜりふを残して、アメリカに旅立ったのです。

カップヌードル


百福は海外にインスタントラーメンをどう売り込むかで頭がいっぱいでした。

ロサンゼルスのスーパー、ホリデーマジック社のバイヤー達は、百福が差し出したチキンラーメンを見て、首をかしげて困っていました。麺を入れるどんぶりも、麺をつかむ箸も、アメリカにはなかったのです。

そこで持ち出したのがコーラなどを飲むための紙コップでした。チキンラーメンを二つに割って紙コップに入れ、お湯を注いでフォークで食べ始めたのです。食べ終わった紙コップはポイとゴミ箱に投げ捨てました。目からうろこが落ちました。

「欧米人は箸とどんぶりでは食事をしないのか」

そんな当たり前のことに気が付いたのです。

市場調査を終えて、百福はカリフォルニアのディズニーランドに行きました。


『チキンラーメンの女房 実録 安藤仁子』(著:安藤百福発明記念館/中央公論新社)

そこで、アメリカの若者たちが歩きながら紙コップでコーラを飲み、ハンバーガーをほうばっている姿をじっと見ていました。

「日本でも、食べ物をこんな風に自由に楽しむ時代がきっと来る」

頭の中に、フォークで食べるカップ麺、すなわち「カップヌードル」のアイデアが生まれた瞬間でした。

ヒントは目の前にある


海外視察に行く時は、よく娘の明美が同行しました。

百福は明美をたいへん可愛がっていて、高校生になってからも、手をつないで歩いていたので、一緒にいた友達から「まるでお友達みたいね」と笑われるほどでした。

明美が十八歳、甲南女子大学の一年生の時に、アメリカに行った帰りの飛行機で、百福が思いがけない発見をしました。

百福はちょうど、カップヌードルのフタをどうするかで悩んでいました。通気性がなくて、ぴたっと密着する素材を探していました。客室乗務員がくれたおつまみのマカデミアナッツの容器を見て、はっと驚きました。直径四.五センチ、厚さ二センチほどのアルミ容器には、紙とアルミ箔を張り合わせたフタがぴったりと張りついていたのです。

「これは使える」

もう一つもらってポケットに入れ、研究のために持ち帰りました。

このフタには接着剤が使われておらず、百五十度を超える高熱をかけて押さえつけるだけで接着できる「熱蒸着」という技術が使われていました。当時、まだ日本にはこのような方法はありませんでしたが、さっそくカップヌードルに採用され、密閉度を高めて長期保存に役立ちました。

百福はいつも「ヒントは目の前にある」と言っていました。百福の子どものような好奇心がここでも役立ったのです。

この時持ち帰ったマカデミアナッツの容器は、仁子が大切に保管していましたが、現在はカップヌードルミュージアム大阪池田に記念物として展示されています。

逆転の発想


最初の視察後、世界初のカップ麺の完成まで五年もかかりました。カップの大きさ、形状、素材を考えると、百福は夜も眠れません。枕元にサンプルを並べて、寝起きするたびに手に取って、縦、横、斜めから眺めていました。仁子だけでなく、宏基(次男)や明美らにも持たせてみて、一番持ちやすい形状を確かめるのでした。

百福は「私は三人に聞けば分かる」が口ぐせでした。

市場調査にお金をかけるのが嫌いで、何事も自分の目で確かめなければ納得できない性格だったのです。

カップの形状が決まってからも、その中にどうやって麺をおさめるかに苦労していました。麺が大きいとカップに入りません。小さいと底に落ちて輸送中にこわれます。なんとかぴったりと安定させる方法はないか。

ある晩、布団に横たわって考えていると、天井がぐるっと回りました。天地がひっくり返ったような感覚でした。その時にひらめきました。

「そうか、カップに麺を入れようとするからだめなんだ。麺を伏せておき、上からカップをかぶせればいい」

逆転の発想でした。やってみると、麺はカップの中間にしっかりと固定され、びくとも動かなくなりました。これが「麺の中間保持」の技術として実用新案登録されたのです。

百福は六十一歳を迎えていました。普通の人なら定年生活に入ってもおかしくない年齢です。しかし。

「人生に遅過ぎるということはない。六十歳、七十歳からでも、新しい挑戦はできる」という言葉の通り、六十歳を過ぎても新しい開発に熱中し、チキンラーメンに続く第二の発明を成し遂げたのです。

食は時代とともに変わる


1971(昭和46)年9月18日、東京新宿の伊勢丹百貨店でカップヌードルの発売を開始しました。一食百円です。

しかし、百福の意気込みに反して、評判は散々でした。

「屋外のレジャーには便利かもしれないが、しょせんキワモノ商品だ」「袋麺が二十五円で安売りされている時代に百円は高過ぎる」「立ったまま食べるとは日本人の良風美俗に反する」などと言われました。問屋からの注文はありません。

その年の11月、銀座三越前の歩行者天国で、試食販売をしました。長髪、ジーンズ、ミニスカート姿の若者たちは、最初は戸惑っていましたが、一人、二人と食べ始めると、たちまち、人だかりになりました。みんな、アメリカの若者と同じように立ったままで食べていました。その日だけで二万食が売れました。

「食は時代とともに変わる」

百福はそう確信したのです。

年が明けて、1972(昭和47)年2月、連合赤軍による浅間山荘事件が起きました。百福はテレビの中継を見ながら、あっと息をのみました。連合赤軍が立てこもる山荘を包囲していた警視庁の機動隊員が、雪の中でカップヌードルを食べているのです。機動隊員には近所の農家からおにぎりの炊き出しがありましたが、氷点下の気温のため、カチカチに凍って食べられません。

そこで、温かいカップヌードルが用意されたのです。その頃、カップヌードルはまだ一般の店頭には並ばず、屋外で活動することの多い陸上自衛隊や警視庁など限られたところに納入されているだけでした。

需要が爆発したのは、チキンラーメンの時と同じ、一本の電話からでした。

警視庁以外の県警や報道陣から、「すぐに送ってほしい」と連絡が入り、「あの食べ物はなんだ?」という一般からの問い合わせも殺到しました。社内は大騒ぎです。その日から、カップヌードルは火がついたように売れだしました。

浅間山荘事件の半年後、日清食品は東京、大阪、名古屋の各証券取引所第一部上場を果たしました。またカップヌードルはアメリカでも発売され、いよいよインスタントラーメンが「日本生まれの世界食」として広がる端緒となったのです。

※本稿は、『チキンラーメンの女房 実録 安藤仁子』(安藤百福発明記念館編、中央公論新社刊)の一部を再編集したものです。

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