「カップライス」事業に30億を投じるも即撤退『まんぷく』萬平のモデル・百福。翌年「焼そばU.F.O.」「どん兵衛きつね」をヒットさせた息子と大喧嘩した理由とは
2024年3月31日(日)6時30分 婦人公論.jp
(写真提供:Photo AC)
2018年から2019年にかけて放送されたNHK連続テレビ小説『まんぷく』がNHK BSとBSプレミアム4Kで再放送され、再び話題となっています。『まんぷく』のヒロイン・福子のモデルとなった、安藤仁子さんは一体どのような人物だったのでしょうか。安藤百福発明記念館横浜で館長を務めた筒井之隆さんが、親族らへのインタビューや手帳や日記から明らかになった安藤さんの人物像を紹介するのが当連載。今回のテーマは「四国巡礼の旅 〜百福最後の大失敗」です。
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カップライス
カップヌードルが大ヒットし、日清食品はインスタントラーメンのトップメーカーとしてさらに成長を遂げました。仁子は会社が落ち着けば、百福との静かな生活がきっと手に入ると願っていましたが、なかなかそうはいきません。相変わらず百福は仕事一途で、新しい開発に熱中していたのです。
「カップライス」というコメのインスタント食品でした。
その頃、日本は豊作が続き、政府の倉庫には古米、古古米と呼ばれる余剰米が山と積まれていました。保管料が高いため、琵琶湖の底に沈めて保管してはどうかという企画がまじめに議論されていました。
食糧庁長官から「コメの加工食品を考えてほしい。お湯をかけただけで食べられるようなものは開発できないか」と相談されました。チキンラーメンとカップヌードルの技術で、コメの問題を解決できるのなら、これに越したことはありません。
またしても「お国のためになるなら」と、ふるい立ったのです。
コメは日本農政のかなめです。百福の仕事に、まるで国家的プロジェクトのような期待が集まりました。1970年代の半ばには、コメの加工品と言えばレトルト米飯しかなく、その味も家庭で炊くお米とは大きな開きがありました。
カップライスはお湯をかけただけで「エビピラフ」「ドライカレー」「チキンライス」など七つの味が楽しめるカップ入りの加工食品でした。新聞には「奇跡の食品」「米作農業の救世主」という見出しが躍りました。
百福は長い実業家の人生で、これほどほめそやされたことはありません。成功を確信しました。「ラーメンの仕事はほかの人にまかせて、これからは国のためにコメの仕事に専念してもいい」と考えるほど、完全に舞い上がってしまいました。すぐに、滋賀工場に製造設備を導入し、当時の日清食品の年間利益に相当する三十億円を投じたのです。
作り上手の守り下手
問屋や流通筋のうけもよく、商品は全国のお店に並びました。発売直後は爆発的に売れました。一か月たったある日、追加注文がピタッと止まったのです。百福はスーパーの売り場を見て回りました。
陳列棚には一個二百円のカップライスがあふれるほど積まれていました。しかし、手に取る人はありません。一度はかごの中に入れた主婦が、しばらくすると戻ってきて、商品を棚に返したのです。
「どうして返されたのですか」と聞いてみました。
「高過ぎますわ。だってカップライス一個でラーメンが十食買えますから」
となりの棚で、ある会社が袋入りラーメンを五食百円で安売りしていたのです。
「よく考えると、ごはんは家でも炊けますからね」と、その主婦がつけ加えました。
百福は青くなりました。国のためという大義名分やマスコミの賞賛が、実は根も葉もないものと分かりました。消費者の支持のない商品が売れるはずはないのです。社内の反対を押し切って撤退を決意しました。
「経営は進むより退く方が難しい。撤退の時を逃がしたら、あとは泥沼でもがくしかない」
そう述懐しています。
もし多くの意見を聞いて決断を先に延ばしていたら、本業の即席麺まで危うくしたかもしれないのです。三十億円を投じた新鋭の設備は廃棄されました。自らまいた種とはいえ、創業者にしかできない苦渋の決断でした。
百福、またしても、「作り上手の守り下手」を発揮してしまったのです。
「やはりラーメンを粗末にしてはいけない。もう一度原点に戻ろう」
そんな社内方針が出されました。
うれしくもあり、悔しくもあり
宏基(次男)はすでに日清食品に入社して働いていましたが、この時、「創業者のトップダウンが強過ぎるのはよくない」と考え、消費者の欲求にこたえることを最優先するためにマーケティング部の新設を提案し、初代の部長職を自ら買って出たのです。
百福は自分の手で事業を築き上げてきた人です。マーケティング理論などという学問が嫌いでした。「商売は理屈じゃない」という主義だったのですが、この時はさすがにカップライス失敗のあとだけに、「おまえがそこまで言うならやってみろ」と了解してくれました。
宏基はカップライス撤退の翌年、「焼そばU.F.O.」「どん兵衛きつね」を立て続けに発売してヒットさせるという早業を見せました。ヒットさせただけでなく、その後、四十年以上も売れ続けるロングセラー商品に育て上げたのです。
百福は「うれしくもあり、悔しくもあり」という複雑な心境でした。
1985(昭和60)年、百福は七十五歳になりました。宏基に社長の座を譲り、自身は会長になりました。宏基は三十七歳。若くて元気いっぱいです。社長に就任するなり「打倒カップヌードル」という社内スローガンを掲げました。
世界八十か国・地域で売られているカップヌードルはすでにメガ・ブランドになっていました。そこで、「カップヌードルを超えるような商品を開発しよう」という高い目標を掲げました。社長就任のスピーチで勢いあまって「カップヌードルをぶっつぶせ!」と言ってしまったのです。
とばっちりを受ける仁子
百福は怒りました。
「そんなことをさせるためにおまえを社長にしたんではない」
宏基の真意はなかなか理解してもらえず、二人の間にわだかまりが残りました。家に帰っても、議論、口論が絶えず、あげくの果てに、「おまえが社長をやめるか、おれが会長をやめるかどっちかだ」というところにまで話が行ってしまうのです。横でやり取りを聞いていた仁子は「もういい加減になさいな」と言ってあきれたように寝てしまうのでした。
宏基は自分の性格を「根は正直だが、あまり素直ではない」と言います。
自分教の百福と素直でない宏基との関係で、いつもとばっちりを受けるのはくそ教の仁子でした。仁子の手帳とは別に、仁子が晩年に書きつづっていた日記帳(以下日記)があります。その中で、しきりに百福と宏基の口論を嘆いています。
「夜、主人が宏基の不出来なこと、わたしへの不満、二時間に及ぶ。一番の息子なのに、なぜあのようにクソカスに言うのか。わたしが甘えて育てたからだという。そんなに気に入らなければ、好きな人を社長にすれば。八月のわたしの誕生日はもうお祝いは結構。あの言葉のきついのは本当に悪い」(原文ママ)
家族だからといって、あまりにも言葉遣いが汚いことを怒っているのです。この話を聞いた明美(長女)が電話で百福をたしなめました。
すると、「明美の電話の後、主人あやまる」と日記に書きました。
家族を一回りして、ようやく話は落ち着くところに落ち着いたのです。
よくぞここまで来たものだ
百福が宏基の考えを理解するまで、長い時間がかかりました。
仁子は「いったい静かな老後はいつ来るのだろう」と嘆いていました。
宏基は母の心を思いやって、もう意固地になるのはやめようと決め、百福の話をゆっくり聞くことにしました。「聞くことが私の仕事だ」と悟ったのです。すると、百福もやっと穏やかになりました。
ある時、宏基は百福から、「人間は突き詰めれば敬と愛しかない。おまえにはその敬愛の心がない」と言われました。この言葉が宏基の心に沁みついて離れなくなりました。
「おまえのことを愛しているから、厳しいことを言うんだよ」とも言われました。
なぜその時素直に、「ありがとうございます」と感謝の気持ちを伝えられなかったのか。百福が亡くなった後、たった一つ、悔いが残ったのです。
晩年、百福は目が悪くなりました。仁子は耳が遠くなりました。家族が二人の間に入って通訳することが増えてきました。せっかちの百福は機嫌が悪くなります。
「主人の機嫌が悪いのは、歳のせいと目の悪いせい。わたしは観音様の心で行こう。とらわれない。かたよらない。こだわらない」(日記)と、仁子は自分の心を静めるのでした。
3月21日は結婚記念日でした。仁子は毎年、この日のことをしっかりと覚えていましたが、日記には「相手はさっぱり思い出しもせず、ゴルフへ」とあきらめの体です。
「珍しく主人から外食をと言ってもらったが、中止。一人でおこわを買ってきて食べる。食べ過ぎて、夕食はダメ。いつになったらフランス料理、おめかしして行けるのか」という日もありました。
ところがある時、「夕方、ゴルフから帰って、鯛とケーキ、しゃぶしゃぶの肉、ブタの三層肉、私へのお祝いとのこと。驚きました。実に出会ってから四十九年目、初めてでした」と大喜びの様子です。仁子は若い時から肉が大好きだったのです。
仁子は若い時から肉が大好きだったのです(写真提供:Photo AC)
そして、「思い返しても多事多難、よくぞここまで来たものだ」と百福との生活を振り返るのでした。
サムライの妻
仁子は小学生の時に天覧書道展に入選して以来、ずっと書道に打ち込みました。水嶋山耀(みずしまさんよう)(毎日書道展名誉会員、大阪教育大学名誉教授)を池田の自宅に招いて熱心に指導を受けました。百福は水嶋先生が来る日は相手にしてもらえず、機嫌が悪くなりました。
「これだけたびたび見えているのに、ちっとも挨拶に出てくれない」と仁子がグチを言うと、百福は「書道といったって模写しているだけじゃないか」と皮肉るのでした。
仁子は書道以外にも趣味が広く、編み物、お茶をたしなみ、木目込み人形を作りました。伝統工芸の鎌倉彫は相当な腕前に達し、桂の木を小刀で削り、朱色の漆を塗りこんだ銘々盆や合わせ鏡を完成させました。あんまり作品が多いので、明美は池田の自宅で「安藤仁子作品展」を開き、知り合いに公開したほどです。
晩年、仁子が大切にしていた仕事が二つありました。一つは、仁子の祈りの人生の集大成となる四国八十八ケ所めぐりを達成すること。もう一つは、日清食品の全工場に自身が祀った観音様にお参りすることでした。これをほとんど毎月、毎週欠かさず、日帰りの旅で続けました。
「十月二十六日、八時、四国巡礼へ出発。明石大橋を渡り、九番法輪寺、十番切幡寺、十四番常楽寺、十五番国分寺、十六番観音寺、十七番井戸寺と六か寺参詣。五時に帰宅」(日記)
百福の目の病気を気にして、目に効くお寺には必ず立ち寄ってお参りし、一生懸命に拝んでいたそうです。日清食品の全国にある工場の観音様にお参りする時も、いつも大阪からのとんぼ帰りで、「私は決して外泊はしません」と断言していました。
生涯、何があっても外でたたかう夫の帰りを玄関先で迎える「サムライの妻」だったのです。
※本稿は、『チキンラーメンの女房 実録 安藤仁子』(安藤百福発明記念館編、中央公論新社刊)の一部を再編集したものです。
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