小屋で研究に没頭する『まんぷく』萬平のモデル・百福。「血が飛び散って…」スープの味をチキンに決めることになったちょっとショッキングなエピソードとは
2024年3月12日(火)7時0分 婦人公論.jp
百福は朝の五時に起きては小屋に入り、夜中の一時、二時まで麺を打つ作業に没頭しました(写真提供:Photo AC)
2018年に放送されたNHK連続テレビ小説『まんぷく』がNHK BSとBSプレミアム4Kで再放送され、再び話題となっています。『まんぷく』のヒロイン・福子のモデルとなった、安藤仁子さんは一体どのような人物だったのでしょうか。安藤百福発明記念館横浜で館長を務めた筒井之隆さんが、親族らへのインタビューや手帳や日記から明らかになった安藤さんの人物像を紹介するのが当連載。今回のテーマは「即席麺の開発 〜仁子の天ぷらがヒント」です。
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「日本一のラーメン屋になる」
百福が理事長を務めた信用組合は倒産しました。
泉大津の時と同じように、百福はまたしても財産を失いました。
身辺は急に静かになりました。
池田市呉服町の自宅には訪れる人もありません。
「責任を持てない仕事は、いくら頼まれても軽々に引き受けてはいけないのだ」
百福は毎日、迷惑をかけた預金者一人一人の顔を思い起こしては、後悔に身をこがしました。家族のためにも、これからどうしていけばよいのか。頭の中はもうそれでいっぱいでした。
「え、ラーメン屋さんをなさるんですか」
仁子は思わず耳を疑いました。
「ラーメンといっても、いつでも、すぐに食べられるラーメンだ」
百福は自信ありげに言いました。
いったん思いついたら、もうこの人には何を言ってもだめ。
仁子は、百福の性格をよく承知していました。だから、いつも黙って後をついて行くだけ。それが仁子のやり方です。
「日本一のラーメン屋になる」
百福の言葉に、仁子は安心したのです。
五つの目標
前年の経済白書は「もはや戦後ではない」とうたっていました。しかし、百福の脳裏には、戦後の貧しい時代に見たヤミ市のラーメン屋台の行列と、厚生省でのやり取りがよみがえっていたのです。「寒さに震えながら、一杯のラーメンを食べるために、人はあんなに努力するものなんだ。ラーメンはきっと人を幸せにする」
そう信じて、研究にとりかかったのです。
部下もいなければ、お金もありません。昔なじみの大工さんに頼んで、庭に十平方メートルほどの小さな小屋を建ててもらいました。大阪ミナミの道具屋筋を回って中古の製麺機、直径一メートルもある大きな中華鍋を買いました。十八キロ入りの小麦粉、食用油などを買い、自転車やリヤカーの荷台に乗せて自宅まで運びました。
裸電球の下で開発作業が始まりました。大量生産できて、家庭でもすぐに食べられるようにしたい。そのために五つの目標を立てました。
一つ、おいしいこと。
二つ、保存できること。
三つ、調理が簡単なこと。
四つ、安いこと。
五つ、衛生的なこと。
朝の五時に起きて小屋に入り、夜中の一時、二時まで麺を打つ作業に没頭しました。百福は麺についてはまったくの素人で、ああでもない、こうでもないと失敗を繰り返しながら、少しずつ前に進む以外に方法はありませんでした。麺の水分、塩分、かん水などの配合は微妙で、作っては捨て、捨てては作るという繰り返しです。
ようやく、麺の配合が決まりました。そこから先は、阪急池田駅前の栄町商店街の入り口にあった製麺所・吉野商店の初代主原(ぬしはら)宇市に頼み込んで麺を打ってもらうことにしました。
「いったい何を始めるんですか」と聞かれましたが、説明に困りました。
『チキンラーメンの女房 実録 安藤仁子』(著:安藤百福発明記念館/中央公論新社)
出来上がった生麺を自転車で運んでいると、近所の人が振り返って見ています。昨日までは、たとえ小さくても信用組合の理事長です。
「落ちぶれてかわいそうに」とでも思われていたのでしょう。
何度も逆境から立ち上がってきた百福はそんなことは一向に気にしません。口ぐせの「転んでもただでは起きるな。そこらへんの土でもつかんでこい」(安藤百福語録)を地で行く奮闘ぶりでした。
「一緒に事業をしないか」
百福は主原の仕事に信頼を寄せ、「一緒に事業をしないか」と持ちかけました。しかし、彼は「私は学もないし、とてもできひん」と断りました。
宇市の息子安浩は当時のことをよく覚えていて、「チキンラーメンができた時には、安藤さんがプリンスという自動車に乗って、三十食入り二ケースを届けてくれました。みんなで食べたら、おいしかった」となつかしそうに振り返ります。
一緒に仕事はできませんでしたが、のちにチキンラーメンの製法をめぐって特許侵害の訴訟が起きた時には、宇市が大阪地裁の法廷に立ち、チキンラーメンは間違いなく安藤百福の発明だと証言してくれたのです。
百福は、麺にあらかじめチキンスープの味をつけておいて、お湯をかければすぐに食べられる即席のラーメンを作ろうと考えていました。ところが小麦粉にスープを練り込んで麺を打とうとすると、麺がつながらず、ぼそぼそと切れてしまうのです。失敗した麺くずが、毎日毎日、山のように積み上げられ、仁子はその処理に困りましたが、栄養があるというのでブタの飼料として売ることができました。
二つの技術的課題
一番の問題は、長期保存できるように、麺をどうして乾燥させるかでした。
ある時、研究小屋から出てきた百福が台所に入っていくと、仁子が夕食の天ぷらを揚げていました。小麦粉の衣がついた野菜を油の中に入れると、ジューと音を立てて水分をはじき出しています。浮き上がってきた時には、衣の表面にはぽつぽつと無数の穴が開いていました。
「ひょっとして……」
百福の好奇心に火がつきました。
「天ぷらの原理を応用すればどうだろう」
百福は仁子をわきへ押しやって、麺を一本、二本と油の中に放り込みました。いったん沈んだ麺がパチパチとはじけては浮かび上がってくる様子を、飽きもせずに眺めていました。水と油は相いれない。そんな当たり前の物理的特徴に気が付いたのです。
まず、麺を油で揚げると、麺に含まれる水分がどんどんはじき出されます。ほぼ完全乾燥の状態になった麺は、半年たっても腐敗したり変質したりすることのない保存性を手に入れました。また水分の抜けた麺の表面には無数の穴が開いていて、熱湯を注ぐとそこからお湯が吸収され、三分以内に、もとの柔らかい麺に戻るのです。
油で揚げることによって長期保存でき、しかも食べる時は簡単に調理できるという、二つの技術的課題を同時に解決してしまったのです。偶然がすばらしい発見に結び付きました。これこそ、のちに麺の「瞬間油熱乾燥法」として特許登録され、インスタントラーメンを世界中に普及させていく基礎技術となったのです。
スープの味をチキンに決めた理由
スープの味をチキンに決めたのにはちょっとしたエピソードがあります。当時、裏庭でニワトリを飼っていて、時々、料理しては食卓に上げていました。ある時、ぐったりとしていた、締めたはずのニワトリが突然、台所で暴れ出したのです。
血が飛び散って、宏基(次男)の服にかかりました。宏基はショックを受け、それ以来、トリ肉はもちろん、大好きだったチキンライスまで口にしなくなりました。ところがある日、須磨(仁子の母)がトリガラでとったスープでラーメンを作ると、宏基はトリと知らずに、おいしそうに食べたというのです。
そういうわけで、百福は即席麺のスープをチキン味に決めました。考えてみれば、世界中で食べられているコンソメスープのブイヨンは、古くからトリガラと野菜を煮詰めて作ります。「チキンは世界中の料理の基本となる味だ」と気が付いたのです。
のちに、海外生産に仕事を広げていった際、ヒンズー教徒は牛を食べない、イスラム教徒は豚を食べないという宗教的禁忌(きんき)の壁にぶつかりました。しかしチキンを食べない国は世界中どこにもありません。百福の選択は正しかったのです。
※本稿は、『チキンラーメンの女房 実録 安藤仁子』(安藤百福発明記念館編、中央公論新社刊)の一部を再編集したものです。
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