中村鶴松「サラリーマン家庭から5歳で歌舞伎の初舞台を踏んだ。〈孫さん太〉で中村勘三郎さんに見いだされ、褒められたい一心で演じている」
2025年4月4日(金)12時0分 婦人公論.jp
写真提供:松竹株式会社
映画館で歌舞伎を楽しめる「シネマ歌舞伎」は2025年、20周年を迎えた。上映第1作『野田版 鼠小僧』に子役として出演したことがきっかけで、18代目中村勘三郎さん(享年57)の部屋子となった歌舞伎俳優の中村鶴松(30)さんは現在、歌舞伎界を支える存在として活躍の場を広げている。シネマ歌舞伎『野田版 鼠小僧』の全国上映(4月4日〜)を前に、鶴松さんが、勘三郎さんの教えや歌舞伎への思いを語った。
(構成:山田道子)
* * * * * * *
人生のターニングポイントとなった舞台
ーー鶴松さんは一般家庭に生まれた。3歳で児童劇団に入り、5歳の時、本名の清水大希で歌舞伎の初舞台を踏んだ。転機となったのは8歳の時。2003年8月、納涼歌舞伎で上演された野田秀樹さん作・演出の『野田版 鼠小僧』(以下『鼠小僧』)に子役として出演したことだ。主人公の棺桶屋三太を演じたのは勘三郎さん。鶴松さんは、三太の心を動かす「孫さん太」という重要な役どころだった。
この作品に出演していなかったら、私は今、歌舞伎役者になっていなかったかもしれません。勘三郎さんが「清水大希」という人間に目を止めてくださり、「歌舞伎役者にしたい」との思いを直接伝えてくれたのが、『鼠小僧』の時でした。部屋子になることは、人生で一番大きな決断でした。その思い出深い演目がシネマ歌舞伎となり、今でもその時の勘三郎さんの姿や僕自身のことを思い出せるのはうれしいことです。
さん太は、オーディションで選ばれました。5歳で歌舞伎の舞台に初めて立って以降、最初の2、3回はオーディションで役を得ていましたが、その後は指名でした。「さん太」役は久しぶりのオーディション。花道で野田さんの脚を蹴っ飛ばす、という演技の内容だったことだけしか覚えていないのですが、無事選んでいただくことができました。
今でも心に残っていることがあります。オーディションの前に、勘三郎さんが野田さんに「僕がいいと思う子どもは君と一緒だ。多分あの子を選ぶだろうが、答え合わせはオーディションが終わってからやろうね」と言っていました。結果、2人一致で僕を選んで下さったことが、文字通り人生のターニングポイントにつながったのです。
8歳だったので、舞台のことは断片的にしか覚えていません。ただ、はっきり覚えているのは、芝居の後などに、手をつないで浅草の仲見世などに連れて行ってくれたこと。刀を買ってくれたりしましたね。ものすごく忙しかったと思いますが…。
当時の僕は、役作りをしようとかあまり考えていなくて、1ヵ月の稽古の中で野田さんや勘三郎さんに言われたことを守りつつ演じました。僕は、芝居が好きという一心。芝居が好きという素直な感情を、勘三郎さんは評価してくれたのかもしれません。
部屋子として中村屋に
ーー2005年5月、部屋子として中村屋に迎え入れられる。部屋子になると、幹部俳優と楽屋を共にして、役者としての心得、舞台に出る準備から芸事まで指導を受け、学ぶ。鶴松さんの部屋子披露は、同年3月から歌舞伎座で3ヵ月行われた18代目中村勘三郎襲名公演のときだった。以降、勘三郎さんの薫陶を本格的に受け始める。
5歳で歌舞伎を始め、最初はお客さんがいっぱい拍手してくれて、注目されるのがうれしいというだけでした。それが次第に楽しさだけでなく難しさも感じるようになりました。歌舞伎のスケールの大きさ、非現実的なところ、道具の派手さなどに魅かれていました。でもそれ以上に、「中村勘三郎」という人が大好きで、この人にいろいろ教わりたい、この人の下でいろいろやりたいという気持ちの方が強くなったのです。何より勘三郎さんの人間性。裏表がなく喜怒哀楽がすごい人でした。ただ、怒る時でも、何か1ついいところも指摘する。「いつもいいんだから。でも今回駄目だよ」とか「いつもはあなた素敵なんだから」とか。僕もいっぱい怒られましたが、頭ごなしに怒るのではなく愛情のある怒り方でした。
2007年12月歌舞伎座で『水天宮利生深川(すいてんぐうめぐみのふかがわ)〜筆屋幸兵衛(ふでやこうべい)〜』の幸兵衛娘お雪をつとめた時でした。声変わりで苦しい時期でしたが、勘三郎さんには「声が出なくたって関係ない。心で芝居をすれば伝わるんだ。何をするにも心だから」と、厳しく教えられました。舞台の上でもダメ出しがありました。そして、千穐楽前のクリスマスに手紙をいただきました。「最初は怒ったけれど、少しずつよくなった。心で芝居をするということがわかってくれたと思う」と。
勘三郎さんの長男・勘九郎さんや次男・七之助さんは「お父さんに褒められることが一番のモチベーションだった」とよく言いますが、僕も全く同じです。勘三郎さんに褒められるために歌舞伎をやってきました。褒められたことは明確に覚えています。2010年10月の平成中村座で『紅葉狩』(もみじがり)の山神(さんじん)を演じた時、舞台から袖に引っ込んだ瞬間、勘三郎さんがいきなり僕のところに来て「すごくよかったよ」とがっちり握手してくれたことは忘れられません。
「常に心が動いていていなければならない」というのは、勘三郎さんがずっと言っていたことです。歌舞伎には「型」があり、型の通りにやるのが全てですが、型には理由がある。それが「心」なのです。心を突き詰めずに型だけやっても伝わらない。心があるから型があるということです。なぜその型があるのかと心を考えることは、古典はもちろん、『鼠小僧』のような新作も同じです。中村屋に入らなければ分からなかったかもしれません。
常にリアリティも大切にする人でした。今年の2月の歌舞伎座、猿若祭での『人情噺文七元結(にんじょうばなしぶんしちもっとい)』のことです。長兵衛を演じる勘九郎さんが「今夜は誰も通りやがらねえな」という台詞を言った瞬間、2階席で赤ちゃんが泣いたんです。その時とっさに勘九郎さんが「赤子しか泣かねえや」と言ったんです。それも「赤ちゃん」ではなく「赤子」と。役が自分に入っているからこそできるアドリブだったな、と勘九郎さん自身も感心していました。勘三郎さんの哲学がしっかり引き継がれているんだなと思います。
名作中の名作
ーーシネマ歌舞伎20周年記念となる《月イチ歌舞伎》2025の上映1作目となる『野田版 鼠小僧』のあらすじはこうだ——江戸の町では鼠小僧の芝居が大人気。見物客の勘三郎さん演じる棺桶屋三太はずる賢く「人に施しをすると死ぬ」というくらい金稼ぎに励んでいる。実の兄が死んでも棺桶屋の出番と喜び、遺産があると聞いて大はしゃぎする。ところが遺産は善人と評判の與吉(よきち)が相続することに。他人に渡してなるものかと三太は、兄の死体の替わりに棺桶の中へ忍び込む。ひょんなことから三太は宗旨変えをするも、白洲にひきたてられ……。三太と、鶴松さん演じる與吉の子どもさん太の2人が浮かび上がらせる世の醜さは現代に通じる。
『鼠小僧』は、本当に名作中の名作だと僕は思っています。お芝居にはいろいろな面白さがあります。ヒーローがひたすら格好よかったり、派手な立ち回りや照明の効果でエンターテインメント性にすぐれていたり。それらに対して、『鼠小僧』は、派手な演出はないセリフ劇です。そのような演劇の素晴らしさを実感させてくれます。最初は笑いたっぷりの喜劇ですが、中盤から変わってくる。そして、三太と純真無垢なさん太という2人の「サンタ」が雪降りしきる中で迎えるフィナーレ。演劇としての完成度がすばらしく高く、最後のシーンには深いメッセージがあります。屋根の上で死にゆく三太のセリフ、「おめえのやってることは、きっと誰かが見てるんだよ」はずっと僕の心に残っていて、悲しいことやつらいことがあった時には思い出して、頑張らなくてはと今でも思います。できるかできないかは別として、いつか三太を演じてみたいという気持ちは持っています。最後のシーンだけやりたい。あの台詞を言いたいですね。(笑)
シネマ歌舞伎20周年の舞台挨拶に臨んだ中村鶴松さん(撮影:筆者)
出演者は中村屋ファミリー。坂東三津五郎さん(享年59)、中村福助さんら勘三郎さんが小さい頃から一緒に舞台に立ってきた人たち。だからこそ出せる「濃密な空気感」にあふれています。歌舞伎役者が演じる喜劇ですが、締めるところはちゃんと歌舞伎で締めている。台本の素晴らしさ、勤める役者の素晴らしさを痛感します。
このお芝居で子どもながらに覚えていることがあります。屋根の上の立ち回りシーンや三津五郎さん演じる大岡越前の白洲裁きのシーンに、「名題下さん」と呼ばれる人たちが大勢出てきます。「名題下さん」は、一般家庭や研修所を出て歌舞伎役者になり、大部屋の楽屋にいる人たち。舞台に出てもセリフがないことも多いですし、師匠の付き人や後見(舞台上で俳優の演技のサポートをする役割)をしているんです。時には「名題下さん」は舞台の背景になることに徹しろ、などと言われることもあるんです。ただそこにいるだけでいい、動いちゃいけないと。
そのような人たちが『鼠小僧』の出演シーンでは、みんな生き生きと目を輝かせていたのが鮮明に心に残っています。群衆の1人だとしても常に心が動いて自由にやっていいという勘三郎さんの精神や野田さんの教えがあったからではないでしょうか。
「シネマ歌舞伎」の魅力
写真提供:松竹株式会社
ーーシネマ歌舞伎は、松竹創業110年の2005年に始まった。全国の人に気軽に歌舞伎を楽しんでもらおうという試みだ。20年前の『野田版 鼠小僧』以降、50作近い作品が上映されてきた。3次元の舞台に対し、2次元の映画。その魅力は何だろう。
「シネマ歌舞伎」の良さは、客席からでは見えないところ、オペラグラスを使っても見えないところを、スクリーンで”発見”できることではないでしょうか。
だから、シネマ歌舞伎では「古典」をもっと上映してほしい。古典は、黒目の動かし方など細かいことが決まっています。例えば、世話物の『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)、通称・白浪五人男(しらなみごにんおとこ)』。店の番頭に「万引きをした」と弁天小僧がとがめられ、額を算盤で打たれ、頭をかしげる場面があります。弁天小僧がその傷を見せようとする時、顔ごとあげるのではなくまず目線だけあげることが口伝で決まっています。
劇場では分からないそのような細かいところが見つかるかもしれないのがシネマ歌舞伎ならではだと思います。
中村屋、中村鶴松として駆け抜けていきたい
写真提供:松竹株式会社
ーー鶴松さんが2022年に始めた自主公演の名前は「鶴明(かくめい)会」。勘三郎さんは生前「歌舞伎界を変えたい。実力のある人がよい役について活躍できる世界にしたい」と言っていた。鶴松さんを部屋子にしたのもその一つだろう。鶴松さん自身は次に何を目指すのか。
僕のようなサラリーマンの父親を持った一般家庭の人間が、歌舞伎という伝統芸能の世界で「鶴明会」を開いたことは、一つのレボリューション(革命)的なことだと思います。「鶴明会」の「明」は、勘三郎さんの本名「波野哲明」の1字をいただきました。
勘三郎さんは、歌舞伎の面白さをみんなに伝える自信があったので、歌舞伎界で様々な挑戦をしたり、テレビや映画、現代劇に出たりしたのだと思います。誰よりも歌舞伎を愛し、歌舞伎を1人でも多くの人に見てもらいたいという一心だった。
それはおそらく、誰よりも歌舞伎に対して危機感を抱いていたからではないでしょうか。危機感は今、歌舞伎役者全員が共有しているでしょう。「いつか絶えてしまうのではないか」と。僕も同じです。だから、新しい作品に挑んでみたいという願望を常に秘めています。
昨年2月の猿若祭大歌舞伎で『新版歌祭文(しんぱんうたざいもん) 野崎村(のざきむら)』の主役・お光という古典の大役を初めてやらせていただき、大きな一歩を踏み出すことができました。今まで見えていなかった世界が見えるようになった気がしました。30歳の「おじ“さん太”」ですが、まだ30歳。新しいことに挑戦しつつ、古典もしっかり勉強したい。人生のターニングポイントとなった舞台の映画を見てもらうことは、モチベーションになります。勘三郎さんの遺志を心に、中村屋、中村鶴松として駆け抜けていきたいです。
関連記事(外部サイト)
- 父・中村勘三郎を亡くして12年。「父が死んだら変わってしまうんだ」と思ったこともあったけれど、できることを必死にやって【勘九郎×七之助】
- 市川染五郎さんが中村橋之助さん、中村鷹之資さんと3人で『徹子の部屋』に登場。 松本幸四郎さんとの親子対談で語った「歌舞伎の未来」
- 『密着!中村屋ファミリー』は勘三郎十三回忌特別企画。勘九郎×七之助、 父・中村勘三郎を亡くして12年。できることを必死にやって
- 樹木希林、20歳の五代目・中村勘九郎と語った<男と女>「女にやさしさを感じるときって、どんなとき」「何でもやさしいと思っちゃうから」
- 「息子たちに稽古をつけていると父・中村勘三郎の言葉が甦る。常に歌舞伎界全体の未来を考えていた父の背中を追って」【勘九郎×七之助】