「きったねぇ頭」初対面の哀川翔にケンカを売り、頭突きで鼻を…俳優・中野英雄(59)が振り返る、ローラー族との路上対決――2024年読まれた記事

2025年4月30日(水)7時10分 文春オンライン


2024年、文春オンラインで反響の大きかった記事を発表します。インタビュー部門の第5位は、こちら!(初公開日 2024/03/09)。



*  *  *


『日本統一』シリーズや『アウトレイジ』シリーズなどで知られる俳優・中野英雄(59)。


「最近は(仲野)太賀のお父さんというキャラになってるみたいですね」と語る彼に、母子家庭だった少年時代、ケンカに明け暮れていた暴走族時代、哀川翔との初対面となった路上対決などについて、話を聞いた。(全3回の1回目/ 続きを読む )



中野英雄


◆◆◆


父の大学進学に合わせてに家族全員で京都へ


——中野さんの生まれは、京都の左京区なんですね。


中野英雄(以下、中野) 京都で生まれて、3つか4つまでいたんですけど、当時の記憶はまったくないんです。親父が札幌南高校を出て、京都大学に進んで、家族みんなで京都に移って。そして、学生結婚をして、僕を生んだと。


——お父さんの進学を機に家族全員で京都へ。


中野 中野家は、もともと北海道の美唄市で呉服屋をやってたんですよ。だけど、店が火事になったりして引き払うことになって、親父の大学進学に合わせて一緒に京都に出てきたんです。


——北海道屈指の進学校である札幌南高校から京都大学。お父さんは、相当な方ですね。


中野 まぁ、経歴だけ聞けば(笑)。京大を出て、東京で大きな不動産会社に就職して。その後会社を辞めて友達と不動産屋をやるけど失敗して、そこからは1人で不動産屋を続けて。市ヶ谷あたりに事務所を構えてたのは覚えてますね。もう81歳か82歳になりますけど、いまも現役で不動産業をやってます。


——お父さんの就職に合わせて、今度は京都から東京へ移ったんですね。


中野 そうです。小学校のときに両親が別居して。僕はおふくろと中野の大和町に暮らすことになるんです。最終的に両親は離婚して、僕は親父、おじいちゃん、おばちゃんが住んでいた阿佐ヶ谷の家に移りました。


 親父は再婚したので、新しいお母さんがやってきて。新しいお母さんとは気が合って仲が良かったんですけど、酒飲みでね。肝硬変になって、僕が『愛という名のもとに』(フジテレビ・1992年)に出た頃に亡くなりました。


中1でグレたきっかけは釣りだった


——いつまで中野区大和町に。


中野 小4までです。子供を連れて別居していたから、いわば母子家庭でしょう。食べるものがないなんて日もあったりして、本当にきつかったですね。小4で親が離婚して、小5から親父に引き取られて阿佐ヶ谷ですね。


——グレ始めたのは、中学からですか。


中野 中1から。小学校までは、全然普通の子供でした。


 グレたきっかけは、釣りだったんですよ。いまはやらないんですけど、小学生の頃に釣りが好きで。おじいちゃんから古い竿を借りて、500円をもらっては、友達と寿々木園って釣り堀に行ってたんです。週イチでそこに行っていたら、I君というテキ屋さんの息子がいて。彼は中学生で、釣りがうまくて、僕らの釣りの師匠としていろいろ教えてくれてたんですよ。


 そのI君のお兄ちゃんが、マッドスペシャルって暴走族の総長をやってて。中学に入ってから、浮きなんかをもらいにI君の家に行くと、暴走族のフラッグとかステッカーがバーっと貼ってあって「なんじゃこりゃ?」みたいな。矢沢(永吉)さんのLPもあって「これ、なんですか?」「矢沢。聴いてごらん」って、聴かせてもらったり。そうやって、だんだんとそっちに寄っていって。


ファッションとして暴走族やツッパリが流行っていた


——時代的にも、暴走族やツッパリが流行っていたという。


中野 ファッションとして流行っていたんですよね。昭和53年とか昭和54年ですよ。1本目の『3年B組金八先生』(TBS・1979年)が始まった頃で、あのなかにも出てくるじゃないですか。


——「学ラン長ラン大混ラン」ってエピソードがありましたね。マッチ(近藤真彦)が、長ランで学校に来て騒動が起きるという。


中野 まさに、あんなノリでしたよ。『金八先生』のマッチもそうだったけど、僕らもどこかバチッと決まっていない。情報はちょこちょこ聞いているけど、「もうちょっとで不良なのに……」という中途半端な感じでね。いろいろやっていくうちに、だんだんと仕上がっていくんですけど。


——私服なんかも、そっち系になるわけですか。白のハイネックにトロイのカーディガンを羽織ったりとか。


中野 中学に上がると、ジーパン穿いたりとか、そっちのほうに行くじゃないですか。でも、僕はジョーゼット生地のトップスにスラックスとかね。ちょっと、ヤクザルックというかね。網のサンダルとか餃子靴を履いて。


メチャメチャ強い体育の先生には子供じゃ勝てなかった


——学ランの入手は、どうやって。


中野 方南町にマルカツって店があって、そこでボンタンや長ランを作ってくれてたんですよ。阿佐ヶ谷の中学生たちはそこへ行っていて、僕らの間では中ランが流行ってました。長ランにするとどおくまんの『嗚呼!!花の応援団』になっちゃうし、『花の応援団』にするなら大学生になんないと、ってのもあったし。


 カラーの高さも「中ランだったら、4.5センチが一番ピタッとくるな」とかね。で、頭はパンチパーマで、靴は革靴。そんな中学生でした。


——中学校は、校内暴力などで荒れていましたか。


中野 校内暴力で世間が悩んでいる頃だったんでね。だから「俺たちも校内暴力しなきゃ。やんないと世間についていけない」「俺たちの学校も、こんなに暴れてドロドロなんだぜ」みたいなね。ただ、僕の中学にはメチャメチャ強い体育の先生がいて、その先生にみんながシメられている状態で。そんなことできやしませんでしたよ。やっぱり、子供じゃ勝てない。


 だけど、その先生はなぜか不良の格好をすることは許してくれて。しかも「アイパーをかけるなら、もうちょっとこうしないと」「不良のスタイルっていうのはなぁ……」とか、アドバイスまでしてくれましたね。


僕らの世代もマッドスペシャルをやらなきゃ


——マッドスペシャルに入った経緯というのは。


中野 さっき話したI君のお兄さんが、マッドスペシャルの5代目ぐらいの総長だったんですよ。3代、4代、5代って順繰りに回ってくるものだから、おのずと僕らの世代もマッドスペシャルをやらなきゃいけないっていう。中学卒業と同時にバイクの免許を取ってそっちに行かなきゃ、みたいな。


——高校で部活などはやっていたんですか。


中野 中学で柔道をやっていたので、それで高校も入ったんですけど、すぐに怪我してダメになっちゃって。で、都立に移って。でもその後ちょっといろいろあって中退しちゃうんですよ。


——マッドスペシャルでは、主にどういった活動を。


中野 金曜の夜か土曜の夜、もしくは連チャンで走るのが主な活動で。阿佐ヶ谷のシャドーって喫茶店で、そのコースを決めるミーティングを開いてました。


——やはり、ほかの暴走族と揉めたり?


中野 スペクター、鏖(みなごろし)、極悪とはケンカしましたね。特に極悪とやることが多かったかな。出会ったら、その場でケンカになっちゃうんです。


 哀川翔が落合に住んでたんですよ。16歳のときに知り合うんですけど、その後に仲良くなって、翔さんのとこへ単車で行くじゃないですか。スペクターって拠点が中井なんですよ。新宿スペクターとかもあったんですけど。


 で、乗っていた単車がそういう単車でしょ。阿佐ヶ谷から落合に行くとなると、中井を通らなきゃいけない。そうすると、どうしてもスペクターに見つかっちゃうんですよ。それがイヤで、ラッタッタ(原付バイク)で翔さんの家に行ってました。でも、そんなにケンカはしてませんでしたよ。どっちかというと、中学のときのほうが派手にやってました。


西荻大乱闘のエピソード


——どんなケンカを。


中野 潰しに行くんです。よその中学校を潰しに行って、潰したら自分たちの舎弟にするっていう。まぁ、そういう時代だったんですよね。


——遠征もしましたか。


中野 遠征もしましたね。吉祥寺のほうに行ったときに、大乱闘になってしまって。西荻大乱闘という、僕らの時代では語り草になっている騒ぎもありました。


「きったねぇ頭」ケンカがきっかけだった翔さんとの出会い


——話は戻りますが、哀川さんとの出会いは、ケンカがきっかけだと。


中野 16歳の冬ですね。家のそばのガード下で、仲間でたむろしてたんですよ。ドカジャン着て、ウンコ座りして。そうしたら、僕らの前を翔さんが通って。当時の彼はローラー族で、阿佐ヶ谷に住んでる友達のとこに行こうとしてたんですよ。


 ローラー族はリーゼントだから、ポマードを塗りたくってるでしょ。僕らはパンチパーマだから、髪が乾き切ってる。そんなカラカラのチリチリの僕らからすると、リーゼントってベッタベタで汚く見えちゃったんですよ。それで「きったねぇ頭」って、僕が思わず言っちゃったんです。


 そうしたら、翔さんが鹿児島弁で「なんだ、おまえ」って。でも、鹿児島弁なんて知らなかったから、なに言ってるのかまったくわからなくて。最初、外国の人だと思ったんですよ。「まいったな。外国の人に因縁つけちゃったよ」みたいな。で、翔さんの顔を見たら鬼の形相ですよ。


瞬く間に頭突きで鼻をやられて…


——そこで怯むわけにもいかない。


中野 翔さんに「一番強いのはどいつ? 出てこいよ」って言われて、仲間が俺をジーッと見てるんですよ。「え、俺?」って。さんざんケンカの話をしてますけど、僕、弱いんですよ。


 だけど、こっちも引くに引けないじゃないですか。後輩なんかもいる手前。また翔さんがデカく見えたんですよ。彼も柔道やってたし、その名残でまだ体格がガチっとしていた頃だったものだから「うわ……。こいつ、デカいな」って。


「おう、俺だよ」って出ていったら、瞬く間に頭突きで鼻をやられて。そのままズドーンって倒れて、「痛ぇ、痛ぇ」ってピクピクしてました。仲間は蜘蛛の子を散らすようにピューッてどっかに行っちゃって、翔さんもスタスタと友達のところへ。しばらくひとりでピクピクしてから、家に帰りました。


翔さんがバウムクーヘンを持って見舞いに来た


——後日、哀川さんがお見舞いにいらしたそうですね。


中野 家で昼飯を食べてたんですよ。卵かけごはん。そうしたら、ガラガラって玄関の引き戸が開いて、翔さんが「よお!」って入ってきたんですよ。その頃の我が家って、玄関を開けたら、すぐに茶の間だったんですよ。僕を倒した奴がいきなり訪ねてきて、しかも昼時のうえに僕とえらく距離が近いでしょ。そもそも、なんだって僕の家を知ってるんだって、えらく驚いちゃって。


「なんで、ここが俺んちってわかったんすか?」「いや、あれよ。悪そうなバイクがいっぱい停まってるから、ここじゃねえかなって。はい、これ」って、紙の手提げに入ったお見舞い品を手渡されましたよ。


——お見舞い品は、なんでしたか?


中野 バウムクーヘン。


——哀川さんは、バウムクーヘンを渡すと去っていったのですか?


中野 帰ろうとしないんですよ。ケンカ相手が見舞いに来るなんて思いもしなかったし、帰ろうともしないから「あのう、なんの用ですか?」と聞いたら「ちょっと出ようか」と言われて、家から出たら「申し訳なかったね。鼻、大丈夫?」と。


——心配していたと。


中野 そうですね。で、「君、いくつ?」って聞かれて「16です」と答えて。翔さんは、3つ上なんですよ。「俺を見てさ、年上だって分かるよね」「はい」「年上にケンカ売るのやめたほうがいいよ」「でも、売らないと。不良なんで」みたいな。そうしたら「バカなやつだなあ」とか言って帰っちゃいましたね。


 それからも阿佐ヶ谷あたりで何度か会うようになって。こっちは負けてますから「こんちは。どうも」で、あっちは勝ってるから「おう」って感じで。で、3回目ぐらいに会ったときに「暇か?」「暇です」「腹、減ってるか?」「減ってます」「いまから鍋やるから来いよ」となって、翔さんの友達の家に呼んでくれて。


 それから何日か経って仲良くなって、一緒に遊んだりして、もっと気が知れてから「あの時さ」なんて頭突き事件のことを話しましたけどね。


写真=山元茂樹/文藝春秋


(平田 裕介)

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