ロウ・イエ監督「未完成の映画」は比類なきコロナの時代の記録…物語と現実と記憶、スリリングに溶けあう
2025年5月2日(金)11時30分 読売新聞
「未完成の映画」から。監督役のマオ・シャオルイ(左)と主演俳優ジャン・チョン役のチン・ハオ(C)Essential Films & YingFilms Pte. Ltd.
新型コロナウイルス感染拡大の頃を描いた「未完成の映画」(5月2日公開)は、中国人監督ロウ・イエ(婁燁)による新たなマスターピース。パンデミック初期、映画制作のために滞在していたホテルに閉じ込められた撮影隊をめぐる物語だ。フィクションだけどドキュメンタリー。虚と実を溶け合わせ、スマートフォンの映像をも巧みに取り込んで、あの頃、何が起きたのかを、しかと刻みつけた比類なき映画だ。(編集委員 恩田泰子)
映画は、ふっと始まる。まず映し出されるのは、しまいこまれていたコンピューターを動かそうとしている人々。カメラの動きは、目の前の出来事をとりあえず記録しているといった感じ。フィクションか、ドキュメンタリーか、すぐには判然としないのだが、それが逆に凝視を誘う。
これは、2019年夏の場面で、コンピューターの起動を試みているのは、ある映画監督とそのスタッフ。10年間しまいこんでいたマシンはほどなく動き出す。ハードディスクの中には未完成作品の映像素材が残っていた。監督が「妥協」をしなかったがゆえに出資を得られず
そして時間は、2020年1月22日に飛ぶ。続きの撮影は、もう少しで終了というところまで来ている。だが、パンデミックの脅威により、撮影隊が滞在するホテル内の状況は刻々と変わり、その夜のうちに出入りを封じられる。主演俳優は、監督、スタッフともども、ホテルに閉じ込められ、自室から出ることも許されなくなる。
ここから映画は、主演俳優らがスマートフォンを手に、先の見えない日々を過ごす様子を見せていく。
序盤で未完成作品の素材として映し出されるのは、ロウ・イエ監督の過去作品「スプリング・フィーバー」「二重生活」「シャドウプレイ」などのために撮影された映像。主演俳優・ジャン・チョン(江誠)役のチン・ハオ(秦昊)はそれらの作品で主要な役を演じてきた俳優だ。監督役のマオ・シャオルイ(毛小睿)は映画監督・脚本家で、かつてロウ組の助監督を務めたこともある。撮影監督(ヅォン・ジェン/曾剣)はじめ本作の実際のスタッフが、劇中のスタッフを演じてもいる。
つまり、登場人物の物語は、演じられたものだ。だが、つくりごとという気がしない。それどころか、見れば見るほど、観客である自分のコロナ禍をめぐる記憶と溶けあって、生々しさを増していく。
封鎖前後、ホテルの状況がめまぐるしく変わる中、武漢、マスク、封鎖、消毒、いち早く警鐘を鳴らした李文亮医師の名前など、あの頃のキーワードが去来し始める。ジャン・チョンのスマートフォンの縦長画面に映るものが、折に触れて、スクリーンの天地をフルに使って映し出されるようになる。
自宅にいる妻(チー・シー/斉渓)や生まれて間もない我が子とのコミュニケーション、仲間との連絡、情報の収集、そして自身の状況の記録……。ジャン・チョンとスマートフォンの親密度はどんどん深まる。暗い部屋に一人でいても、その光が彼を照らす。仮想空間でのつながりがよすがとなっていく。映画の画面を縦分割して、どんと映し出される縦長画面の面積と存在感は、ジャン・チョンの知覚と正しく比例しているようにも思える。大写しにならずとも、スマートフォンに映る妻の顔が透明な光を放っているように見える。
さらに映画は物語の世界を突き抜けて、実際にコロナ禍の中で一般の人々が撮影した動画も見せていく。その中には絶望の中の希望を見せるものもあれば、忘れてはならない悲劇を刻みつけているものもある。コロナ禍以前の古い記憶と響き合うイメージもある。たとえば、武漢の街を消毒する大型車の隊列は、いつか見た戦車の隊列にも似てはいないだろうか。
ともあれ、この映画は、今を生きる人間とスマートフォンのつながりを、視覚言語をアップデートして、くっきり見せる。その濃密なつながりは、ほかの多くの映画がこれまで描き切れていなかったものだ。
人は誰一人として、社会環境、あるいはその変化から逃れることはできない。その生々流転を、ロウ・イエは、映画を通して果敢に映し出してきた。そして本作ではさらに、映画もまた変化から逃れることはできないと示してみせた。映画の可能性を閉じずに自在に変化させ続ける。映画を陳腐化させない。「終わった」メディアにしない。この映画のタイトルには、そんな意志もこめられているのではないか。
19年夏のシーンで、「決着」をつけるために映画を完成させたいという監督に、ジャン・チョンが「公開できないのに誰のために」と問うシーンがある。これはおそらく、ロウ・イエ自身がたびたび向き合ってきた問いでもあるだろう。中国当局の許可を得ずに自作を国際映画祭に出品したことにより、上映禁止、映画制作禁止などのペナルティーを課されたこともある。思い描いた通りの映画を世に出すために激しい葛藤を抱えてきたことは想像に難くない。
コロナ禍では、多くの人が、スマートフォンのカメラを起動させた。非常事態に直面し、撮りたい、撮らなくてはならないという思いを抱いた人々と、ロウ・イエという映画作家の間にも、何か響き合うものがあるような気がしてならない。
型にはまらぬ時代の記録。ロウ・イエ監督は、物語の力と現実の重みをスリリングに溶けあわせて、もう一度思い出すべきこと、忘れてはならないことを作品、そして見る者の心に刻みつけた。自分がいかに多くのことを記憶のかなたに押しやっていたか、この映画を見ながら、実感する人も少なくないだろう。
ちらと映し出される、八大山人の作とおぼしき書画のイメージ、2023年の封鎖解除後の集まりで隣り合って座る監督とジャン・チョンの姿、あかりをともされたいくつものろうそく……。さまざまなイメージ、光景の残響が物語と絡み合って、深い余韻を残す映画でもある。
◇「未完成の映画」(英題:An Unfinished Film)=2024年/シンガポール、ドイツ/中国語/107分/日本語字幕:樋口裕子/配給:アップリンク=5月2日から東京・アップリンク吉祥寺、角川シネマ有楽町ほか全国順次公開