映画『片思い世界』で節々に描かれた『両思い』の萌芽《一抹の寂しさと、それを抱く温かさ》

2025年5月4日(日)7時0分 文春オンライン

「片思い」について、まずはインターネット上で意味を検索してみた。あるページによれば、「自分のことを思ってもいない人を、一方的に恋い慕うこと」とある(※)。ここでの「恋い慕う」が示すように、「片思い」は一般的には恋愛の状態を指す言葉とはみなされてはいる。とはいえ、少し視点を変えれば、「片思い」はよりありふれた、一般的なコミュニケーションや意思疎通に敷衍させて考えることもできる言葉だろう。



©2025『片思い世界』製作委員会


映画『片思い世界』で描かれた“やり場のない怒り”


 映画『 片思い世界 』の中で、そうした「片思い」の例を考えてみる。本作では、かつて娘を無差別殺人によって失った女性・木幡彩芽(西田尚美)が、その犯人であり、すでに社会復帰を果たした(犯行当時は未成年であり、そこまでの極刑には至らなかったことが推察される)男性・増崎要平(伊島空)に会いに行く、作中でもひとつのヤマ場となるシーンがある。増崎への怒り、また娘を奪われたことへのやり場のない思いを、しかし感情をぎりぎりのところでおさえながら増崎に吐露する彩芽。


 しかし増崎は、「あ、はい」「わかります」などと真摯さがうかがえない生返事を繰り返すばかり。その果て、「なんで殺したの?」という彩芽の問いには正面から答えることなく、「(職場に)戻らないと」と、彩芽が彼を連れてきた車に乗りこみ、彩芽に運転をうながそうとするのだ。彩芽はそんな増崎の態度に平静を保つことができず、ナイフを増崎に向け、やがて車内は生きるか死ぬかの修羅場へと移行する。


 このシーンを見た筆者は、増崎に怒りを覚えながらも、同時に彼の「空気の読めなさ」に、いささかの困惑を覚えた。こうした場合、たとえ反省の思いがかけらほどもないのだとしても、神妙な表情をして、それらしき謝罪や後悔の言葉を、涙や嗚咽でつっかえながら口にするのが求められる態度ではないだろうか、と感じたのだ。もちろん、それを受けたところで彩芽が簡単に納得できるとは思わないが、少なくとも自身の命が脅かされるような事態は、低くない確率で避けられたように思ったのである。


 何かしらの厳密な定義にもとづいた判断ではなく、あくまでも直感的な感触となるが、このシーンが「片思い」か「両思い」かでいえば、「片思い」ではあるだろう。彩芽が増崎のもとを訪れた背景には、意識下であれ無意識下であれ、増崎に対して「誠実さ」を求めていたことが観客には推察できるが、増崎はそれが垣間見えるような態度をとることはない。また、その後の彩芽の激昂からも、両者の気持ちが何らかの通じ合いを見せたとは、とても言うことはできない。


 では、ここで増崎が筆者の述べたようなある種の処世術を選択し、そのおかげで上記のような修羅場が回避できたとすれば、それは「両思い」と言えるのだろうか。増崎が彩芽の意思を汲み、それに沿った行動をとったという意味では「両思い」の側面はあるのかもしれない。とはいえ、それが心からの行動ではなく、単なるトラブル回避のための選択であろうことを考慮すると、やはりこれも「片思い」に留まると言わざるを得ないのではないか。


 表面的には意思の疎通が滞りなく進む、すなわち「両思い」であるように見えても、内心ではまたそれぞれが異なった思惑を抱えている、ということはむしろ生活のなかではありふれたものだろう。


「職場がキモいおっさんとふたりでさ」


 より日常に立脚した形で、『片思い世界』の劇中でそうした例をあげると、水族館の職員たちの掛け合いのシーンだろう。仕事に向いていないのではないかと語り、退職を示唆する若い職員・加村大翔(諏訪珠理)。それに対し、年配の職員・村上直行(尾上寛之)は、「ペンギンに好かれたかったらまず心を開かないと」と優しげに励ます。和やかな会話に見えるが、そののち、大翔は誰かへの通話で「職場がキモいおっさんとふたりでさ、ペンギンに心を開くってなんだよ、マジ死んでくれって感じ」などと村上のことをあざ笑っている。いささかショックを受けるシーンだが、とはいえ、大翔がことさらに悪い人間というわけでもないだろう。


 目の前の誰かに対するモヤモヤや割り切れない思いを抱えながらも、それを表面的には出さず、穏やかにやり過ごすことが社会人として求められる態度のひとつではあるだろうし、彼のような二面性(あるいは三面性、四面性、五面性……)は明確に意識せずとも、多くの人に身に覚えがあるもののはずだ。


 しかし、『片思い世界』が示唆するのは、なにもそのような人間社会の理に付随して生まれる「片思い」の存在のみではない。むしろ本作の核となるのは、より物理的な次元における「片思い」である。


『片思い世界』で主人公になる3人の若い女性の共通点


『片思い世界』の主人公となるのは、22歳の相楽美咲(広瀬すず/太田結乃)、21歳の片石優花(杉咲花/吉田帆乃華)、20歳の阿澄さくら(清原果耶/石塚七菜子)という、3人の若い女性だ。3人は古い、しかし品格を感じさせる洋館に暮らし、それぞれ大学に通ったり、仕事やアルバイトをしていたりする。


 一緒に朝ご飯を食べ、身長を柱に刻む。バスで通勤し、帰宅後は何気ない恋バナに興じる。それぞれの誕生日にはサプライズ(劇中では鮮やかに失敗するが)パーティーを開き、バースデーケーキを食べる。ベッドの上では盛大にふざけ合い、盛大に笑い声をあげる。


 一見は満ち足りた生活に見えるが、しかし、違和感はその節々に生じる。彼女たちの道のりを見ると、バスはドアを開かず、同僚は挨拶を返さず、人のスマホを覗き込んでも、怒りを示されることもない。コンサートの舞台上で叫ぼうと、観客は誰ひとり反応することはない。


 やがてその理由がわかる。彼女たちはいわば「死後の世界」の人間であるのだ。およそ12年前にともに命を落としてからは、生者の世界に密接した、しかし生者に触れることはできない、3人だけの世界で生活しているのだ。


 それゆえに、彼女たちは生者たちに自身の気持ちを伝えようとしても、その道は閉ざされている。目の前の人の落とし物に気づけども、拾って渡すこともできないし、車の中に放置された赤子を見つけようとも、第三者に助けを求めることもできない。


 筆者が前述した「片思い」の例は、同じ言葉を基盤として共有し、それをかわし合おうともなお心の深部が交錯し得ない「片思い」であったが、3人はそもそも外部の人間に対しては、物理的に言葉を交わす機会が奪われている。


 10年以上にわたって、ともに暮らしを紡いできたこともあり、美咲、優花、さくらの絆は強固なもの——多少の意思のすれ違いはあれ、それぞれが深く思いやる「両思い」の状態——ではある。たとえば、劇中で幾度か繰り返される彼女たちのハイタッチや、「なんでもないの」「ただのかわいそうな」「お話」といった、言葉の息の合った掛け合いからそれが了解できるだろう。その反面で彼女たちは、日常のなかで自分たちのすぐそばにいながらも、決して触れることができないさまざまな他者に囲まれることで、「片思い」という疎外感を強く覚えている。


節々にのぞかせる「両思い」の萌芽


 しかし、そんな日々のなか、3人はいつも(外れてばかりの)天気予報を聞くラジオから、不思議な音声が流れてくるのを耳にする。そのなかでは、彼女たちが現実世界に戻るための重要なヒントが示唆されていたのだ。ラジオのガイダンスに従い、3人は旅に出ることを決める。いっぽう、現実世界においても、生前の彼女たちとかかわりのあった人たちに、それぞれ重大な転機が訪れており……。


 こうした物語の推移を体感すれば、少なからぬ観客が、生者たちが住む現実世界と、美咲、優花、さくらの世界がどこかで交わりを見せることを期待するだろう。しかし、結論から言えば、ふたつの世界は最後まで明確な交わりを見せることはない。


 そのいっぽうで強調したいのは、『片思い世界』は、けっして悲観的なテイストに終始しないということである。明確な交わりはなくとも、たしかに3人と生者たちのあいだには、「両思い」が生起したようにも思えるのだ。本作には、その節々に「両思い」の萌芽が顔をのぞかせている。


 それはたとえば、彩芽が娘・海音と作った三日月型のクッキーである。彩芽のもとを訪れた優花は、ちょうど焼きあがったさまざまなかたちをしたクッキーを見て、「私はこれが好き」と三日月型のクッキーを指さす。じつは彩芽の娘であり、調理の場では、母と自身の死後に生まれた妹と意思の疎通ができないことに悲しみを覚えていた優花であったが、のちに彩芽が、ポケットの中に三日月型のクッキーを忍ばせていたことに気づき、不思議なあたたかみを覚える。


 また、美咲が現世で命を落とす直前に作った、『王妃アグリッピナの片思い』という音楽劇のシナリオについても然りである。『アグリッピナ』に合唱団の仲間である高杉典真(横浜流星/林新竜)から音楽をつけてもらうことを望んでいた美咲であったが、その直後に自身が命を落としてしまったため、それはかなうことはなかった。しかし、12年の時を経て、『アグリッピナ』が書かれた美咲のノートを典真が見つけたことで、交わりの萌芽は訪れる。典真は終わりのほうのページを目にし、登場人物・コルネリアの台詞を口に出して読む。


 台詞のなかでは、コルネリアは思い人であった王妃アグリッピナに心情を打ち明けるのだが、それを読む典真のそばにいた美咲は、自身もコルネリアの台詞と台詞の間にある、アグリッピナの台詞を口にしはじめるのだ。やがて音楽劇のなかでは、コルネリアとアグリッピナは結ばれたことがわかり、それぞれの台詞を読み、劇の終幕にたどり着いた美咲と典真も微笑みを浮かべる。美咲は、典真により近づき、彼を抱きしめる。


合唱曲の歌詞から読み取れること


 そして、「両思い」を感じさせる真打となるのは、終盤で登場する合唱曲『声は風』の存在である(作曲:大藪良多・山王堂ゆり亜、なお作詞は「明井千暁」の筆名で脚本を担当した坂元裕二が手掛けている)。中盤、3人はかつて生前に所属していた合唱団が新たにコンクールを行うことを知り、自分たちの声が生者たちに届くことはないと知りながらも、練習のうえ参加することを決意する。そして、コンクールの課題曲こそが『声は風』なのだ。その歌詞を一部引用してみよう。



〈 はなればなれでも 目に見えなくても 君に呼びかける


(中略)


 声は風 風は夢 飛んでけ


 高く飛んでゆけ


 永遠 最果て 約束


 君が好き 背筋のばして


 元気でね 元気でいてね


 じゃあね またね


 (中略)


 花が忘れても 種はおぼえてる


 生きるよろこびを〉



 こうした歌詞から読み取れるのは、自身とは遠く離れた他者——それが死者とは限らないが、少なくとも、容易に触れることはできない他者——への呼びかけである。そして、合唱のシーンでは、美咲、優花、さくらの12年の軌跡が回想として現れ、3人の絆の強さがふたたび強調されると同時に、3人の表情とともに、典真や児童たちの表情にも焦点が当たる。3人と典真や児童たちは、異なった世界に生きている。しかし、それぞれが他者への思いを歌に仮託して昇華させることで、そこには何らかの交錯が生まれたように感じられてくるのだ。


ラストシーンにはほんのりと明るさが感じられるとはいえ……


 もっとも、こうした「両思い」の感触を、たんなる感傷に過ぎない、と切り捨てることもできる。前述の通り、3人は現実の世界に戻ることをどこかで希求しながらも、それは叶えられず、「片思い」に満ちた世界での暮らしを引き続き余儀なくされることとなる。ラストシーンにはほんのりと明るさが感じられるとはいえ、彼女たちの行く先を安易に肯定することはできないだろう。


 『片思い世界』の物語は、全体としてはややいびつさも感じる。そうした心象に寄与するのは、大きくは、3人が暮らす世界の設定に疑問が少なからず残る点である。彼女たちはなぜ、肉体的な死を迎えてからも年を取り続けているのか? 生者たちに触れることができないのに、なぜ現実世界のドアに遮断されるのか? 彼女たちが口にする食べ物や着る服は、現実世界のものを調達しているように見えるのはどういうことか? 劇中では3人の世界の成り立ちは、「素粒子」や「スーパーカミオカンデ」といった言葉によって説明されるものの、その細部は十分な整合性が担保されているとは言い難く、物理学の素人から見ても、どうにも違和感を払拭することはできない。


観客が胸を打たれることは——


 しかし、こうも思う。そもそも「片思い」は理屈によって割り切れるものではなく、かならずしも因果関係が介在しない情動によってもたらされるものだ。そして、理屈ではなく情動に——目の前の誰かに、たまらなく心を揺り動かされる過程に——焦点を当て続けることに、この『片思い世界』という映画の賭金はあるのではないか。


 私たちが抱く「片思い」は、成就せずに終わることも多い。そして、そのような着地をした「片思い」に実利的なメリットがあるのかと問われれば、恐らくはないだろう。ただ、それでも——。私たちが誰かに思いを伝えようとすることに、意味がないなどということはできない。『片思い世界』は、筆者が抱くそうした思いの、確かな礎となる。本作では、彼女たちが誰かに思いを伝えようとする、その真摯さにこそ打たれるのである。


 美咲が、彼女を救えなかったことに葛藤を覚えている典真のもとに近づき、「典真のせいじゃない」と伝えようとするときの表情。優花が、母である彩芽の家を訪れ、「良かった、幸せそうで」と口にするときの表情。さくらが、かつて自身の命を奪った増崎に対して、「返せよ、返してくれよ」と叫ぶときの表情……。言葉の裏にある心情はそれぞれ異なってはいるものの、いずれの言葉にも、目の前の相手に対する強い思いが宿っている。そして、「両思い」の萌芽とともに、彼女たちの純度に満ちた「片思い」の強さに触れることで、観客もまた心の振動を覚えるのだ。


 やがて3人は、新たな旅立ちを迎える。これまで暮らしていた家を出て、東京の街角の中に紛れ込む。新しい家の場所や内装のプラン、またそこでとる理想の食事について意見を交わす彼女たちの姿は、道行く人たちの目に触れることはない。しかし、彼女たちの軌跡を追ってきた観客は、路上にはたしかな温かみが宿っているように感じるだろう。


 それはいわば、誰しもが自身のうちに抱える、心の灯のあらわれである。誰かに届く以前の「片思い」であろうとも、その温かみ自体はけっして否定することができない。『片思い世界』は、「両思い」の萌芽と「片思い」の両義性を——一抹の寂しさと、それを抱く温かさを——通して、人間と不可分な感情の尊さを高らかに謳いあげる作品である。


(※)「コトバンク」の以下のページを参照。https://kotobank.jp/word/%E7%89%87%E6%80%9D%E3%81%84-463317(最終閲覧:2025年4月27日)


(若林 良/週刊文春CINEMA オンライン オリジナル)

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