石倉三郎「20歳の時に東京へ出て俳優になりたいと決心。仕事を干されて3年で東映を辞めることになった時、高倉健さんから言われたのは…」

2025年5月12日(月)12時30分 婦人公論.jp


「『社長シリーズ』の三木のり平が最高だな、と思いましたね。何かあの質感が好きでした。この人の弟子になりたい! と思うくらい憧れましたね」(撮影:岡本隆史)

演劇の世界で時代を切り拓き、第一線を走り続ける名優たち。その人生に訪れた「3つの転機」とは——。半世紀にわたり彼らの仕事を見つめ、綴ってきた、エッセイストの関容子が聞く。第39回は俳優の石倉三郎さん。幼少期、家族が映画館で働いていたことで、何千本もの映画を観ていたという石倉さん。二十歳の時に、俳優になりたいと上京し高倉健さんと出会ったそうで——。(撮影:岡本隆史)

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この人の弟子になりたい!


コント・レオナルドで脚光を浴びた時代をよくは知らないが、NHK連続テレビ小説『ひらり』(1992年)の深川銀次役、寝転んでキャベツを一枚ずつ剥がして食べながら相撲部屋のおかみ(池内淳子)を思う姿が強く心に残っている。

その後、映画『四十七人の刺客』(94年)では、赤穂浪士でただ一人生き残る瀬尾孫左衛門、歌舞伎で言えば足軽の寺岡平右衛門に当たる大役で、高倉健の大石内蔵助とからむ場面があり、あの銀次が、と嬉しかった。

そして2011年、新国立劇場で名優・橋爪功と堂々と渡り合う『ゴドーを待ちながら』のエストラゴンで出てきた時は、いよいよ本物の俳優になった、と喜んだ。石倉三郎さんの少年時代って、どんなだったのだろう。

——親父は大阪船場の結構大きな仕出し屋のでしたけど、戦争中に空襲で焼け出されましてね。親父の大叔母が小豆島にいたんで一家で頼っていって、僕はそこで生まれました。終戦の翌年ですね。

親父は島では道路工事とかしか仕事がなくて、すぐに一人で大阪へ。そこで板前になるわけだけど、ちっとも仕送りをしてこないから、お袋が4人の子供抱えて苦労するわけですよ。

そのうち上の兄貴が映画館の映写技師をやりだすと、お袋がそこで切符のもぎりをやる。それからお茶子と言って、当時の映画館は畳敷きですから座布団やら煙草盆やらを運んだり。おかげで僕は毎日映画をただで観られるわけなんです。

1日3本立てが日替わりですから、もうあの頃に何千本観たかわからない。観たなかで「社長シリーズ」の三木のり平が最高だな、と思いましたね。何かあの質感が好きでした。この人の弟子になりたい! と思うくらい憧れましたね。

中学2年の時、大阪で一家5人が一緒に暮らすようになるが、相変らず楽とは言えない生活。

——新聞配達とかいろんなことをやって一家で働くけど、相変わらず貧乏でしたね。それで二十歳の時に東京へ出て俳優になりたいと決心するわけですよ。

兄貴たちは反対しましたけど、親父はその昔、料亭のお坊ちゃん時代に当時の二枚目スター・鈴木傳明に憧れて、弟子入りしたくて家出したくらいの人ですから、「おぅ、やれやれっ」と賛成してくれて。兄貴たちも、お袋に毎月仕送りすることを条件に許してくれました。

当時は大阪から4時間半。遠かったですね、東京は。怖かったし。不安だらけでしたけど、この二十歳の時の上京が第1の転機でしょうね。三木のり平への内弟子志願は、お袋への仕送りと両立できないのでまずは断念しました。


筆者の関容子さん(右)と

健さんの一字をもらって


上京した石倉さんに次々と素晴らしい出会いが訪れる。その状況を語る石倉さんのコントもどきが楽しい。

——まず就職したのが新大久保の最中屋で、毎日餡こを練ってました。そしたらパートのおばちゃんが、「兄ちゃん何、俳優さんになりたいの?」「まぁ一応」「だったらこんなとこで餡こ練ってないで、青山ってとこへ行けばもうスターさんがわんわんいるから、行ってごらん」って。

行ってどうすんのかよ、と思ったけど、休みの日に東京見物かたがた行ってみたら、「従業員募集」の札。ユアーズという深夜営業のハシリみたいなスーパーですね。

入ってみたら、店の奥に石原裕次郎さんがいたんですよ。そこの社長と裕次郎さんは慶應時代の友達だったわけですね。ずっとのちに裕次郎さんに「僕の本名は石原でして」と言ったら、「おっ、親戚かもしれない」って言ってくださいました。

それでユアーズに就職して、毎晩遅くに行ってた喫茶店で高倉健さんとの大きな出会いがあるんですけど……これが第2の転機ですね。

ある晩、いつも遠くの席で眺めてた健さんが僕を手招きして、「サブちゃん、おいでよ」って言うんです。そこのママさんから僕の名前を聞いてたんでしょうね。行くといきなり、「サブちゃん、喧嘩が好きなの?」って。

「嫌いですよ喧嘩なんてのは」「そうだよなぁ、じゃあなんで毎日そんなに赤タン青タン吹いてんの?」って、おでこや頬っぺたの赤あざ青あざを指して言うんです。酔っ払いの客に駐車場でからまれたりとか……って言ってたら、ママさんが「実はこの子、役者志望なんですよ」って言ってくれて。

「じゃあ、東映に来るか」「だって俺、素人ですよ」「いや、俺だって最初は素人だよ」「じゃあお願いします」ってね。

そこで、ユアーズに勤めながら東映の大部屋に入りました。当時は事務所に電話がかかると「石原さーん」って呼び出される。それで行ってみると「お前じゃないよ」って、もう一人の石原さんが。で、こっちが名前を変えることになって、健さんの名字から一字をもらって石倉三郎としたわけなんですよ。

大部屋ではいじめに遭ったり、酔った社員に殴られて殴り返したことで仕事を干され、結局3年で東映を去る。

——辞める時、健さんに挨拶に行ったら、「いったん男が口にしたんだから役者は続けなきゃダメだよ、首まで泥に浸かってやれよ」って言われましてね。それで今度は舞台関係の通行人とか、その他大勢になるわけです。

その頃お袋が亡くなって、仕送りしなくてよくなりました。お袋は酒さえ飲まなきゃ菩薩のような人で、大好きでしたね……。

舞台の仕事は、ひばりさんとか島倉千代子さんとか坂本九さんのステージ。でも3年経っても役はつかないし、と諦めて今度は日劇ミュージックホールに潜り込んでるところへ、突然九さんから電話で「俺のステージの司会やってくんない?」「いや、司会なんてやったことないけど……頑張ります」って。

これ、前に九さんがフランキー堺さんたちと『雲の上団五郎一座』って芝居をやった時に、僕が楽屋で白木みのるさんにちょっと親切にしたりしてたのを九さんが見てたらしいんですよ。

それで司会に起用してくれて、契約の2年が終わったら、今度は俺のマネージャーやってくんないかと言われたけど、「いやぁ、もうちょっと舞台をやってみたいです」「そうか、頑張れよ」って別れましてね。

九さんは僕の五つ年上で、兄貴のように思ってましたから、今の女房と世帯を持とうかって時に、仲人を頼んでたんですよ、九さんご夫妻に。そうしたら、あの飛行機事故(85年)。あの日、僕が酔っ払って帰ったら、彼女が「九ちゃんが大変!」。「何っ!!」って酔いがいっぺんにスッと醒めちゃった。大恩人でしたからね。1年喪に服して、次の年に所帯を持ちました。

<後編につづく>

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