『べらぼう』水木しげるのルーツとされる鳥山石燕ってどんな人?狩野派の町絵師で妖怪画が得意?実は歌麿の父親とも
2025年5月12日(月)6時0分 JBpress
(鷹橋忍:ライター)
今回は、大河ドラマ『べらぼう』において、片岡鶴太郎が演じる鳥山石燕を取り上げたい。染谷将太が演じる喜多川歌麿の師としても知られる鳥山石燕は、どのような人物だったのだろうか。
浮世絵は描いていない?
鳥山石燕は、正徳2年(1712)に生まれたとされる(正徳元年説あり)。
寛延3年(1750)生まれの蔦屋重三郎よりも38歳年上、宝暦3年(1753)の生まれだと推定される弟子の喜多川歌麿よりも、41歳年上となる。
本姓は佐野で、名を豊房といい、江戸の根岸に住んでいたとされる。
石燕は、幕府の御用絵師である狩野派の町絵師と伝わり、人物画に秀で、妖怪画を得意とした。
浮世絵と見なされる絵は確認できていないが、宝暦時代(1751〜1764)に、女形・中村喜代三郎の似顔絵の額を浅草観音堂に奉納し、役者似顔絵の創始となったなど、浮世絵師的な色合いも強く持ち合わせていたという(松木寛『新版 蔦屋重三郎 江戸芸術の演出者』)。
また俳諧師・東流斎燕志に師事し、俳諧を嗜んだ。絵画だけでなく、文学にも通じていた。
橋本淳が演じる北尾重政とは、俳諧仲間として大変に親しかった。
石燕にとって芸術は、もともと本業ではなく趣味だったという(マイケル・ディラン・フォスター著 廣田龍平翻訳『日本妖怪考──百鬼夜行から水木しげるまで』)。
石燕の妖怪画はそれほど怖くない?
石燕は、安永5年(1776)に『画図百鬼夜行』、安永8年(1779)に『今昔画図続百鬼』、安永10年(1781)に『今昔百鬼拾遺』、天明4年(1784)に『百器徒然袋』と続く四部作の妖怪画集(妖怪絵本)を世に送り出している。
この四部作が、日本における、妖怪だけを目録の対象として扱った百科事典形式の嚆矢だという(マイケル・ディラン・フォスター著 廣田龍平翻訳『日本妖怪考──百鬼夜行から水木しげるまで』)。
新関公子『歌麿の生涯——写楽を秘めて——』によれば、石燕の妖怪画は、不気味なものとは限らず、繊細な風景や家屋などの状況設定に溶け込む、愛らしい妖精的な存在に描かれたものが多い。たとえば、『今昔画図続百鬼』の「逢魔時」は、雲の峰が怪獣となっている。「妖怪は人々の意識が作り出す幻影」と石燕が主張しているかのようだと、新関公子氏は述べている。
鳥山石燕の妖怪画は、『ゲゲゲの鬼太郎』の作者として知られる水木しげるにも、影響を与えたとされる。
実は歌麿の父親だった?
岡山天音が演じる恋川春町や、歌川派の祖となる浮世絵師の歌川豊春、戯作者の志水燕十など、絵画、文学ともに、石燕から薫陶を受けた門弟は多い。世界的に有名な浮世絵師の喜多川歌麿も、門弟の一人である。
詳しい経緯は不明だが、歌麿は幼くして石燕の弟子となり、師弟関係は石燕が没するまで続いた。
歌麿が師と仰いだのは、生涯にわたって、石燕ただ一人だという(新関公子『歌麿の生涯——写楽を秘めて——』)。
歌麿は、安永4年(1775)頃から、「北川豊章」の画名で活動をはじめるが、これは石燕の名である「豊房」から一字を与えられたものだという(菊地貞夫『歌麿』)。
喜多川歌麿の出自は、解明されておらず、親兄弟の名前も不明だが、歌麿の父を石燕だと推定する説もある。
その根拠とされるのは、天明8年(1788)正月に、蔦屋重三郎のもとで出版された狂歌絵本『画本虫撰』(えほんむしえらみ)に添えられた、石燕の序文だという。
『画本虫撰』では、歌麿が虫にちなむ恋の狂歌に合わせて描いた虫と草花の絵が大評判となり、歌麿の出世作となった。
その『画本虫撰』の序文において、石燕は歌麿を、「虫たちを描いて、その生命をうつす才能は、心画というべき見事なものだ」と称え、「歌麿は、幼い頃から物事を事細かに観察していた。トンボを糸で繋いだり、コオロギを手のひらに乗せたりするなど、絵のための観察に余念がなかった。私はそれを見るたびに、むやみに殺生してはいけないと叱った」などと綴っている。
石燕は、歌麿を幼少の頃から知っているようであり、夢中で虫の観察をする幼い歌麿をやさしく見守り、時には叱る石燕は、師よりも父親に近いのではないかと、推定されるのだという(以上、新関公子『歌麿の生涯——写楽を秘めて——』)。
周知の通り、歌麿は寛政4〜5年(1792〜1793)頃、「大首絵」を世に送り出し、浮世絵界のスターの座に上り詰める。
だが、石燕は歌麿の栄光を知らない。『画本虫撰』が刊行された天明8年の8月3日に、享年77歳(推定)で、この世を去ったからだ。
もし、歌麿の栄光を知ったなら、父であったにせよ、師であったにせよ、さぞかし誇らしく感じただろう。
筆者:鷹橋 忍