EPO「母からの虐待を、心理学を学ぶことで克服。過去は変えられなくても、見方は変えられる。今は沖縄と農業に癒されて」

2025年5月22日(木)10時0分 婦人公論.jp


(撮影:本社 奥西義和)

今年で芸能活動45周年を迎えるシンガーソングライターのEPOさん。壮絶だった幼少期のトラウマを克服するため、心理療法を学びました。自己肯定感を取り戻す過程で生み出された歌の数々が多くの人に癒しをもたらしています。これまでの歩み、そして夫と猫3匹とのとびきり幸せな沖縄生活について伺いました。
(構成:岡宗真由子 撮影:本社 奥西義和)

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口から音を出すこともできない


2024年末に、声帯がウイルス感染して、3ヵ月声を使わない時期を過ごしたら、おかげさまで、声の性能がアップグレードされました。

芸能生活40周年を迎えた頃はちょうどコロナ禍で、周年イベントも中止。音楽活動があまりできませんでした。そして2024年、いよいよ来年45周年を迎えるぞ、というの年の年末に、声帯のウイルス感染で喉に炎症を起こしてしまい、全く声が出なくなってしまいました。歌どころか、口から音を出すこともできないほどの重症でした。

もしこれから歌うことができなくなったら?という不安が頭をよぎり、一時は絶望的な気持ちになりました。でも運よく、耳鼻咽喉科の先生に声専門のクリニックをご紹介いただくことができて。その先生に「ゆっくり休養したら、声は必ず出るようになりますよ」と言っていただいてからは、落ち着いて3ヵ月の静養に専念することができました。

専門医の指導で行ったのは、ストローを咥えて、声帯に負担をかけないよう、腹式呼吸で出た空気を声帯に当てながら「おおー」という低い声を出す“ストロー治療”という発声練習でした。それが功を奏したのか…なんと炎症が起きる前より声の音域が増えていました。私は自分のスタジオで、毎日声の状態を計測してきたので、一目瞭然。機能としての声は、以前より断然良くなっていました。前よりも歌える音域が広がったことで、歌うことにストレスや不安がなくなりました。

実は、これまで、声に関してそれほどトラブルもなかったので、私には“かかりつけの先生”がいませんでした。お恥ずかしい話、これまでボイストレーニングや専門家の指導を受けるという経験もありませんでした。本能を頼りに歌ってきたというか、感覚だけでここまできてしまっていたんです。いまも、オリジナルのキーのまま歌えていることは幸せなことです。

母からの虐待…生きづらさを抱えて


思えば、躓くたびに人生をアップデートしてきたように思います。私は19歳でシンガーソングライターとしてデビューしました。若い頃は、仕事に追われて、自分に余裕がなく、歌うことを楽しめていなかったように思います。「元気じゃないのに、元気な歌を歌うのは苦しい」と感じていた時期もあります。


収穫を終えて一休み

以前『婦人公論』のインタビューでお話ししたのですが、私には境界性パーソナリティ障害の母がいます。彼女の機嫌次第で謂れのない辛辣な言葉を浴びせられ、しつけと称して暴力を振るわれることもありました。インタビューでお話しした壮絶な体験は全て事実ですし、そこに書いていないこともたくさんありました。

そんな母から自立しようと早くに家を出たのですが、それでも心理的に母の存在に、長い間、囚われていた私がいます。一歩踏み出そうとすると、母の私に対する、否定的な言葉が頭の中をぐるぐると駆け巡り、自分の行動に制限を与えてしまうのです。

小さな頃からの思い込みから、自分らしく生きることは、私にとって、とても危険なことだと思っていました。母のそばに暮らしていなくても、私は母からの精神的な呪縛から解き放たれてはいませんでした。

自分を癒すため 自分の取り置いてきた問題を解決する


30代の終わり頃、機会があって、催眠療法を受けたことがありました。セッションを通じて、幼い頃辛かった気持ちや我慢していた感情が、ワッと溢れ出しました。「ああ私はこんなに悲しかったんだ。たくさん我慢してきたんだ」ということを改めて知りました。

それ以降、心理学に興味を持ち、日本でまず資格を取ることに。心理療法で、苦しみから抜け出す術を学んだ私は、この方法を多くの人にシェアしたいと心から思い、セラピストとして開業しました。その後、さらに学びを深めていったことで、バーバラ・ブレナンというアメリカ人の女性科学者にたどりついたのです。彼女が所属する専門大学が、カリフォルニア、マイアミにあって、ヒーリングを科学的に学べるところでした。そこで、意を決して4年間現地の大学に通うことに。

エネルギー・ヒーリングと心理学の専門的な学びは、本当に素晴らしくて、その体験が今の私を形作ったと言っても過言ではありません。その4年間は、毎日が、自分の中にあるものの考え方や、防衛的な心の反応など、まず自分の中に取り置いた問題を解決するための、変容の時間となりました。もしも自分の中に未解決問題があったり、防衛的な態度をとる習慣があったりすると、問題を抱えてやってきた、クライアントに寄り添うどころか傷つけることになってしまうからです。

だからまずは、自分の中の未解決問題と正面から取り組むことが、この大学での課題となりました。幼少期の心の傷と日々、向き合うという作業は本当に辛かった。毎日泣き腫らした顔で教室に通っていました。

ある授業でのことです。確か、授業で、理不尽な差別みたいなことを取り扱った日があったんですね。私の記憶の中にある、ある問題と重なり、感情が怒りで溢れかえっていると、それをみていた先生が、「永子(EPOさんの本名)、全てその気持ちを吐き出しなさい。そして、その感情を、私にぶつけてきなさい。」と言ってくれたんです。先生は胸の前にマットを持って立っていて、私はそこに唸り声をあげて全身でオオ〜と声を上げながら、飛び込んでいきました。すると先生が私の力を受け止めきれず倒れそうになったので、他の生徒5、6人が先生の背中を支えようとしました。私の中から、ものすごい力が溢れ出すのを感じました。

それでも泣きながら、向かっていく私の力を先生が止めることはできなくて、先生の背中を支えていた同級生ごと、私は、彼らを後ろに押し倒してしまったんです。すごい力ですよね。先生は「永子、わかった?どんなにあなたのお母さんが、あなたのパワーをコントロールしたり、奪ったりしても、あなたは、これだけの強い力を持ってるの。忘れないでね。」と言われたのを覚えています。とにかく、ダイナミックで、繊細で、愛に溢れた素晴らしい学校でした。

“シティポップ”それは自己肯定感が上がるサウンド


カリフォルニアの大学を卒業して日本に帰る頃には、歌と自分が乖離することがなくなりました。それからは歌を歌うこと、曲を作ることが本当に楽しくなった。CMタイアップ曲などの依頼を受けると、あっという間にぽっとアイデアが出てきます。心の内側を歌う曲を作るのも、すごく好きですし、ご要望があれば、オーダーにお答えして、曲を作るという作業も、心から楽しめるようになりました。


今はシティポップ(1970年代〜80年代に流行した山下達郎大貫妙子といったアーティストによる都会的なサウンド)がブームですね。かつては“ニューミュージック”と言われていた音楽が今は“シティポップ”と呼ばれてアメリカから逆輸入され、若い人にも浸透しているようです。私が1980年にリリースしたシングル「DOWN TOWN」も今や“シティポップ”にジャンル分けされていますが、私自身もシティポップの大ファン。私にとってシティポップはいまだにブームですし、キラキラしていたあの頃の懐かしい音楽を聞くと、すごく自己肯定感が高まる気がします。実際に、若い頃聴いていた曲を聴くと、オキシトシンと言われる幸福物質が脳内で分泌されるからなんだとか。

現在のシティポップブームがアメリカの若者から始まったのは、当時のニューミュージックが洋楽の影響を色濃く受けていたからなのでしょう。だから、彼ら(海外の人)にとってもどこか馴染みのある音楽なのだと思います。

そして“シティポップ”が今でも色褪せない理由としては、1970年〜80年当時のアレンジャーさん(編曲者)たちの力によるところが大きいように思います。時代背景もあって、音楽はとても贅沢に丁寧に作られていました。当時のアレンジャーさんたちは、間奏、コード、ギターのカッティングに至るまで、精密に設計図を書いていた。それを一流のミュージシャンがスタジオで正確に再現する。今から音楽をやろうという人にとっても教科書的というか、コピーすることでその通りの音が出ると、とても満足感の高いサウンドになっているのだと思います。

沖縄での生活


2003年43歳の時に夫とミュージカルで出会い、2012年、52歳の時に夫と結婚しました。夫は、まっすぐな人で、すごく助けられています。子どもの頃からの刷り込みで、私は人に対し「NO」ということができず、相手に対して、ああでもない、こうでもないと、相手に説明するためのNOの理由を考えていると、夫は「ねえ?NOには、理由なんかなくたっていいんだよ。君がNOなら、NOなんだから。」と教えてくれた人でした。

すでに亡くなりましたが、夫の両親は私を息子の妻であると同時に、わが娘のように受け入れてくれました。彼らは、私が実の親のもとで味わうことができなかった“家庭というもののあたたかさ”を体験させてくれたのです。

私と夫は東日本大震災の後に、関東地方から沖縄に拠点を移そうと、物件を探し始めていました。義理の両親を、沖縄の家に連れてこようと思っていたので、家庭菜園が好きな義理の父が、退屈をしないように、畑がついているお家を選びました。結局住み慣れた地から2人が離れることはなかったのですが、私たちの友人たちからも慕われていて、私たちが帰れなくても、友人たちが泊まりがけで、義理の両親を見守ってくれていました。

結局、沖縄の家の畑は夫が仕立てて、今年で14年目。夫の手入れの甲斐あって本当にたくさんの野菜や果物が採れる素晴らしい土地になったのです。


庭で咲いたプルメリアの花

私のこれからの季節のルーティーンは、まず朝起きたら海で泳ぐことから始まります。歌のための体力づくりという目的もありますが、ただ海が好きだからというのも大きな理由。水中眼鏡をかけて魚を観察しながらガシガシ泳いで、その後太陽が高くなってきたら愛猫のいる我が家に帰って仕事をします。日が落ちてきたら、また海へ行き、その後は近所の公営温泉に寄って潮を落として、帰宅。畑で採れた野菜を使って2人で、おいしい料理を作っていただきます。

家のご飯が夫婦共々好きなのと、家で作るものが美味しいので、外食することはほとんどありません。いっぺんに採れた野菜は発酵させたり、干したりして大切に保存します。畑は吉田俊道さんという方の“菌ちゃん農法”に倣って、例えば、数ヵ月かけて、「生ゴミのお漬物」のようなものを作って、糸状菌を増やし、それを土の中に混ぜて、強い土壌を作ります。地中の菌が窒素や酸素を取りいれてくれるので化学肥料も使いませんし、耕す必要もありません。農薬を使わないのに虫も来ない。毎日手入れをしなくてもよくて、ほとんど放っておくような農法なのですが、野菜たちは元気です。

こんなふうにお話ししていても、すぐ音楽から脱線して、生活のことを語ってしまう私です。というのも私の歌は、この暮らしから生まれた、作物のようなものだからかもしれません。

音楽家はヒーラー


音楽は周波数でできています。人間は70%が水でできているので、体内の中にある水は、その周波数から、大きな影響を受けます。私はたまたま心理療法を学んだ音楽家ではありますが、どなたも、皆、生まれながらのヒーラーなのだと思う。特に、音楽を通じて、その周波数を扱う音楽家は。

アメリカの大学の授業では、ヒーリングにも多様な音楽が使われていて、ゆったりとしたサウンドや、ヘビーメタルな音楽も使われたりします。求める人によって、あらゆる音楽が癒しの源泉になるのです。

コンサートやライブでは、多くの人が集う空間で、音楽を通じて人々に癒しをもたらすことができるとわかってきました。なので、本番の前は、カウンセリングの前と同様に、私自身がいい気分で過ごすようにしています。そのいい気分をたくさん、皆さんに伝えたいので。なので、ライブの前には特に、自分の心と体を整えて、心穏やかにチューニングされるよう気を配るようになりました。

私の中には、今でも、幼い頃の心の傷がたくさんあって、それが、突然、フラッシュバックしてくる瞬間があります。その時は、小さい頃の私が訴えてくる言葉に耳を傾けて、何が悲しかったのかゆっくり聞いてあげます。わかってもらえたとわかると笑顔になってその痛みは消えていきます。そして私は少しだけ、また自己を肯定することができて、元気になる。これは日常的にしている方法ですが、この先ずっと続くのだと思っています。


過去は変えることはできなくても、過去に対する見方を変えることはできる。そうすると過去が変わる。ヒーリングを学んで以来、私は音楽を自分のために作るようになりました。まずは自分を癒すことから。

もしも、皆さん、お時間が許せば、ライブ会場にいらして、私と音楽を通して、その楽しい空間をシェアしていただけたら嬉しいです。当時私の歌を聴いてくださっていた方にも、「進化した」EPOの歌をお届けできると思います。

婦人公論.jp

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