「僕、膝の靭帯を切ったお陰で…」城島健司でも井口資仁でも、和田毅でもない…練習の虫だった“ホークス戦士”が明かした“故障についての意外な本音”

2025年5月29日(木)7時20分 文春オンライン

〈 《うかつなこと聞くなよ。しょうもないこと、書くなよ》1軍投手コーチ→4軍監督に…周囲から“左遷”といわれた「斉藤和巳」が明かす“意外な本音” 〉から続く


 福岡ダイエーホークスにドラフト2位で入団するや、2年後にはレギュラーの座を確保。本塁打王を獲得するなど、華々しい活躍を見せ、ホークスの中心選手として長らく活躍した小久保裕紀。怪我にも悩まされた現役生活だったが、彼は当時をどのように振り返るのか。


 ここでは、スポーツライターの喜瀬雅則氏が福岡ソフトバンクホークスの4軍運営の実態について迫った『 ソフトバンクホークス 4軍制プロジェクトの正体 新世代の育成法と組織づくり 』(光文社新書)の一部を抜粋。小久保裕紀の声を届ける。(全4回の2回目/続きを読む)



小久保裕紀


◆◆◆


誰よりも練習した小久保裕紀


 サンケイスポーツのプロ野球記者として1994年の近鉄を担当して以来、私はここまで30年近くにわたってプロ野球の現場で取材をし続けている。


 後輩記者や球団のスタッフたちと練習を見ていると、つい過去の思い出話になることがある。すると、よくこの手の質問が飛んでくる。


「今まで見てきた中で、一番練習していた選手って誰ですか?」


 答えは一択、小久保裕紀。


 私は間髪入れず、迷いなく、自信を持ってこう答える。


 何しろこの人の練習ぶりは、大袈裟でも何でもなく、キャンプともなればそれこそ「朝から晩まで」だった。しかも、単にだらだらと長いのではなく、いつ、どのタイミングで練習のシーンを見ても、それこそ鬼の形相、手抜きなしの真剣そのものだった。


 ソフトバンクの前身となるダイエー時代、2月の高知キャンプでの、とある「夜」の光景を、私は今でも忘れない。


 当時は、選手宿舎に球団がプレスルームを設置してくれていた。そこで各社の番記者が原稿を執筆する。ホテルのフロント前のソファにでも座っていたら、選手が出かけたり、帰ってきたりするのも分かるし、コメントが必要なら、そのお目当ての選手を待っていればよかったので、実に便利だった。


 原稿を書き終えて、そろそろ自分の投宿しているホテルへ帰ろうか。そんなことを思いながら、何の気なしに、誰かいないかなと、選手宿舎のロビーに下りてみた時だった。


 もう、午後7時を過ぎていた。南国高知とはいえ、2月の日暮れは早い。ホテルの外はもう、すっかり夜のとばりが下りている。


「あ、もう、原稿書き終わったんですか?」


 背後から、ふと声を掛けられた。振り返って、目を見張った。そこに立っていたのは、胸のあたりが土で真っ黒になった、ユニホーム姿の小久保だった。


「えっ、今まで?」


「はあ、やっと終わりましたわ」


 あえて書いておくが、直前の行の会話の主は、上が私で、下が小久保だ。


 番記者の原稿は、いわば日々のキャンプレポート、報告書のようなものだ。それを書き終えているのに、小久保はまだ練習をしていたのだ。つまり、主砲の練習を最後まで見届けていない記者が、ここにいる……。


 己を正当化? するわけではないが、すでにプレスルームから出て、夜の街へ飛び出していた他社の記者だってもちろんいた。


 朝の小久保も、その動き出しが誰よりも早かった。


 全体のアップが始まる2時間前、午前7時半頃からメーン球場横の部屋にこもり、ウエートトレーニングやストレッチをこなす。練習前のひと汗どころではない。それこそ、みっちりとひとメニューを終えてから、何事もなかったかのように全体練習のアップにも、そのまま参加している。


 全体練習の終了は午後3時頃。そこからメーン球場には、バッティング練習用の打撃ケージが2つ、セットされる。これを独占するのが背番号「9」と「3」。平成唯一の3冠王・松中信彦(現中日1軍打撃統括コーチ)と2人で、まるで競うかのように打ち始める。


“王からの教え”


 その特打を、ケージの後ろから、監督の王貞治が見つめている。


 左右の主砲2人が、日が暮れるまで練習をし続けている。そんな状況で、若手の選手たちがおずおずと、宿舎へ戻れるはずもない。だから、誰もが練習するようになる。


 まさしく、背中で引っ張る。


 小久保裕紀という人は、その“王からの教え”を誰よりも実践してきた人だった。


 19年間の現役生活で、通算2041安打、413本塁打。本塁打王、打点王を各1度ずつ、ベストナインは二塁手で2度、一塁手で1度、ゴールデングラブ賞も二塁手で1度、一塁手で2度獲得。2003年のオープン戦中に、本塁へ滑り込んだ際に相手捕手と交錯、右膝の前十字靭帯断裂、内側靭帯損傷、外側半月板損傷、脛骨と大腿骨挫傷という重傷を負い、そのシーズンは試合出場なし。オフには当時の一部フロント首脳との確執が表面化し、巨人へ移籍。


 その移籍直後の2004年に自己最多の41本塁打を放ち、カムバック賞を受賞。選手生命すら危ぶまれた大怪我も乗り越え、41歳まで現役を続けた。


 そうした一連の歴史を見てきた“一証人”としては、小久保の現役時代の回想に話が及ぶと、つい熱が入って、懐かしさも相まって、そこから突っ込んで話を広げてしまう。


「これ、4軍の本でしょ?」


 話がそれていないかと、何度も心配?してくれたようだったが、こうした小久保の回顧録から抽出されたエキスが、走り出したばかりの「4軍制」には不可欠なものであることを証明するのが、いわば、この章のテーマだといっても過言ではない。


2003年の大怪我に「感謝している」


 小久保は、プロ2年目の1995年、同4年目の1997年、そして2009年の計3シーズン、全試合出場を果たしている。


 09年は38歳になるベテランが、144試合すべてに出るというのは、心身ともにコンディションが充実していた証明でもある。


「いつ球場に行っても、長嶋、王が見られるというのが、ジャイアンツ時代の古き良きものだと思います。今日、休養日だから残念やった、ってあるのはメジャーなんだと思います。


 どちらかといえば、大谷翔平(現ロサンゼルス・ドジャース)はずっと出るタイプ。監督が休ませようと思っても出たいというタイプ。それは、その日しか見られない子供がいるからじゃないですか。


 山川穂高なんて(2024年にシーズン143試合、CS3試合、日本シリーズ6試合)全部出たしね。あれはホント、4番として全試合に出るというのが、一番の『王イズム』だと思います。僕も城島(健司・CBO)もオープン戦からずっと出ていました。そりゃそうです。でも『今日、休養日にしていいぞ』って言われて、それはイズムに反すると思って出たら、膝の靭帯を切ったんです」


 2003年3月6日。福岡ドーム(当時)でのオープン戦、その試合前のことだった。


「王監督が、何か珍しいことを言ったんですよ。『おー、今日、休んでいいぞ』みたいな。


 こっちはいやいやいやー、と。会長、絶対忘れていますけど、今から考えたら、何かいやな予感したんとちゃうかな。


 でも僕、膝の靭帯を切ったお陰でジャイアンツにも行ったし、日本代表監督にもなったし、今の人生があるから、あの膝の怪我には感謝しているんですよ。あれがなかったら“裸の王様”で終わって、2000本安打も打ってないと思います。41歳まで現役ができたのも、あれがあったお陰です。あれから、トレーニング法とか食事とか、全部変わりましたからね」


 意外な告白だった。怪我以前でも、小久保の猛練習とそのストイックな空気感は、周囲を畏怖させるほどのものだった。


「その前も、たいがい、練習やってましたよね?」


 そんな問いを、つい重ねてしまった。あの後から一体、何が変わったというのだろうか。


成績がドンと落ちるシーズンがなかったのは“怪我のお陰”


「だから、やり過ぎて壊れたんです。オーバーワークやったんです。あの怪我で、効率的なトレーニング方法だとか、一番自分にとって体のケアは何が必要かということを学んだんです。どの選手も、みんな右肩上がりから、だんだんこう、成績が落ちてくるじゃないですか? ゆっくり下がっていけば、だいたい2000本安打に到達するんですけど、右肩上がりだったのが、ドンと落ちる時があるんですよ。僕、そのドンと落ちるシーズンがなかったんです、35歳を過ぎてからも。それはあの31歳、32歳の時の怪我のお陰なんで、僕の中ではあれはすごく良かったんです。


 そもそも、野球選手の取り組みとして練習さえしとけばいい、という考えやったんで、夜はそのまま出かける、みたいなね。やりっ放しやったんです。それでは絶対に41歳まで現役はできていないです。ガタンと落ちるシーズンがあって、浮上できずに終わるんですよ」


 小久保は、目の前に伸ばした右手を、すーっと右下の方へ下ろしていった。


「こういう感じで終わっていくんです。だから、ギリギリ2000本安打に到達できるんです、30代後半に最後、みんなあがくんです。2000本打った人たちはみんなそうです。そこで頑張るというか、自分の体とうまく向き合うんです。僕の場合はたまたま、30ちょっとでそれに気づけたのが良かったなと、今から思ったら」


「あの怪我のお陰で、発想が変わりました」


 アメリカでリハビリに専念。全休となった2003年は、小久保にとって31歳から32歳になる年。確かに、選手を評する枕詞が、中堅からベテランへと変わっていく時期でもある。


 その03年を含めても、現役19年間で本塁打が1桁、あるいは0本だったのは計4シーズンだけ、100試合以上出場したのも14シーズンを数える。


 それは、20代の頃にあれだけの猛練習をやっていたからこそ、あれだけ長く力を保てたんだと思って見ていたと、一記者としての意見をあえて返してみた。


「逆ですね。あの怪我のお陰で、発想が変わりました」


 そう言って、また不思議そうにこちらを見た。


「全然、4軍の話と関係ないけど?」


 いやいや、この貴重な述懐こそ、育成の観点からすれば“関係大の内容”だろう。


 自分で自分を知り、その“自分の枠”をさらに広げていくために、また自分で考え、自分で動く。その「主体性」を持てなければ、この「4軍制」という新たな育成システムでは、己の力を伸ばすことができない。そういう仕組みになっていることは、ここまで読んでこられた読者の方々には、ご理解いただけていると思う。


 小久保裕紀というプロ野球選手は、その「主体性」を持ち、年齢という“限界値の指標”も、自分の力で後ろに追いやり、最後まで力強く現役生活を全うした一人である。


 若き選手たちが見習うべき、最高の「モデル」が、ここにある。


(喜瀬 雅則/Webオリジナル(外部転載))

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