どこでもサイエンス 第283回 ガリレオはどうやって食っていたのか?

2024年5月14日(火)6時55分 マイナビニュース

科学の父といわれるガリレオ。イタリアが生んだ天才ですな。彼の業績は振り子の等時性や、天体望遠鏡による月のクレーターや木星の衛星の発見など多数ですが、彼はどうやって食べてたんですかね。え? 大学の先生だろうって? ええまあそうなんでございますが。姓名が同じという変わったイタリア人科学者についてちょっと紹介いたします。
天才の代名詞ガリレオ
1564年に生まれ、1642年に亡くなったイタリア人科学者ガリレオ。なんというか、天才科学者の代名詞みたいな人ですな。科学に疎い人でも、ガリレオ、ニュートン、アインシュタインならまあ聞いたことがあるのではないか、と思いますなー。
さて、そのガリレオですが、何をした人かというと「地球はそれでも動いている」でしょうか。地動説を熱烈に支持してローマ法王らの不興を買い、晩年を禁門されて過ごしたなんて話がございますな。また、その事件の原因となったのが、科学対話という本です。そこで、地動説と天動説について3人の人物がディスカッションする形式にして読みやすくし、しかも学者しか読めないラテン語ではなく、読める人が多いイタリア語で書いて、ベストセラーにしたという、科学者にしてサイエンスライターだったのでございますな。
もちろん、若い頃に振り子の等時性の発見で名をはせ、落体の法則、ガリレオの相対性理論、天体望遠鏡の発明と月のクレーターや木星の衛星、金星の満ち欠け、天の川が無数の星からなることの発見など、いまならノーベル賞を何個も取れるような実績を残した人だったのでございます。
なにより、実験により証明するという現代科学の基本を作った人であり、なるほど科学の父と呼ばれるのにふさわしい巨人なのでございますな。
ガリレオが手に職をつけるまで
さて、そんなガリレオですが、どうやって食べていたのでしょうか? 彼の父親ヴィンツェンチオ・ガリレイは音楽家でありギターの原型といえるリュートの名手であると同時に、音楽理論家でもあったそうです。息子ガリレオ・ガリレイもそこそこ音楽の才能はあったらしいのですが、医者の方が食っていけるのではと考え、ヴィンツェンチオは、ガリレオをピサの医学校に通わせるのです。
ということで、ガリレオは医者になりかけたわけですが、医者になる基礎として学ぶことになったアリストテレスの哲学について、教師から天下りに教わるのに満足できず、自分なりに学ぶようになったそうなのですな。
その課程で、アルキメデスやユークリッドの著作も読み、特に運動について興味を持つようになります。そして運動についてアリストテレスなどの古い教科書は何も教えてくれないのにがっかりし、自分なりに考えることになるわけです。
それでも医者の勉強をやっていたのですが、あるとき、建物の天井からぶら下がっているシャンデリアの動きに注目します。そして、自分の脈ではかりながら(彼が医学校で学んでいることを思い出してください)、そのリズムが一定であること(彼が音楽家の息子で、音楽の才能を発揮していたことを思い出してください)。から、振り子の振動の周期は、長さが同じなら振れ幅に依存しないという、振り子の等時性を発見することになるのですな。1583年のことです。ガリレオ20歳でした。
さて、そんな調子でそのうち医学の勉強はぱっとしなくなり、1585年には医学の学位を受けないまま、ピサからフィレンツェに戻ることになります。親の商売がうまくいかずピサでは暮らせなかったということもあったようです。しかし親は泣いたでしょうな。せっかく医学校にいかせたのにと(やはり当時でも学費は高かったらしい)。
その後、ガリレオは振り子のほか、様々な自然哲学の研究を続けますが26歳まで無職でした。家庭教師などで糊口はしのいでいたらしいですが。各地の大学に就職しようと運動したのですが、うまくいきませんでした。が、研究を通じて、トスカナ公爵のお抱え数学者リッチ、さらにはトスカナのグィドバルト・デル・モンテ侯爵などの科学者と接触を持ち、ピサ大学の数学教授に任命してもらうことに成功します。1589年のことでございます。
閑話休題。デル・モンテといえばトマトケチャップですが、これは日本ではキッコーマンが米国のデルモンテ社との契約で持っている商標です。
一方、バナナなどで有名なデル・モンテも同じ米国デルモンテ社なのですが、こちらは別の会社フレッシュ・デルモンテ・ジャパン株式会社が行っている事業ですな。米国デルモンテは1886年にカリフォルニアで創業された会社です。イタリア系の人が作ったのでしょうが、ガリレオの恩人とのつながりはわかりませんでした。
もとい、ということでピサ大学の先生として食べていくことになるガリレオは、落体、斜面を下る物体、砲弾などの投射体の運動に興味を持ち、それらを実験と理論から体系づけていき、その成果は大砲の製造をする工廠などで重宝されるようになっていきます。
さて、順風満帆という感じなのですが、問題が起こります。
ガリレオが食っていく道
ガリレオがついた職は、任期付きでした。給料も正職員の大学教授が2000スクドだったところ60スクドと薄給だったらしいです。
そして、任期の延長はピサ大学を配下に置くトスカナ公爵の胸先三寸で決まるというところがあったのですな。ガリレオはそれまでにない実験と論証で科学を進める人で、昔の文献にはまともなことが書いていないと公言するタイプでした。さらには、トスカナ公爵の親戚の発明をバカにしたのが不興を買うことになり、失職してしまうことになってしまうのです。
父親も亡くなってしまい、ガリレイ家は収入をたたれます。遺産もなく、そうとうに困ったらしいですな。そこで、彼はヴェネチア共和国のパドヴァ大学に採用されるよう運動をはじめ、なんとか採用してもらえることになったのです。任期は6年でした。いやー、綱渡りが続きますな。
しかしながら、彼は長男として親類縁者全部を養わなければならず、大学の教授の給料ではとてもたりませんでした。そこで副業として計算尺を作り、また大家業もし、教科書を書いてなんとかお金を稼ぐようになります。家庭教師もやっていたようです。これが後の彼を助けます。
家庭教師をしていた先にコジモ2世がいました。彼は科学好きな青年だったのですが、父親が亡くなったためフィレンツェにてトスカナ大公になります。そう、ピサ大学でガリレオが首になったトスカナ大公がガリレオの家庭教師の相手に変わったのですな。
1610年、ガリレオはパドヴァ大学をやめ、フィレンツェにてトスカナ大公コジモ2世のお抱え科学者になります。これによって収入はあがりました。ガリレオはこのポジションを逃さないように、発見した木星の衛星にコジモとつけ(後にコスモスと紛らわしいので、コジモ2世の実家であるメディチ家のメディチの星とした)るなど気をつかったようです。
が、好事魔多し。コジモ2世が亡くなると、ガリレオへの贔屓は消滅し、逆にガリレオの立場はなくなってしまいます。
他にも、ガリレオは娘を奴隷のように厳しかったとされる修道女にしたり、いろいろと厳しい生活が反映されるような行動をとっています。科学の天才も、生活面ではあまりうまくいかなかったことが様々な伝記などからうかがわれます。
しかし、それはどうあれ、ガリレオの圧倒的な実績は現在の科学の基礎となり、語り継がれます。そしてそれがあるから様々な伝記や研究書が発売され、こうやって原稿書けるのですけどね。では。
東明六郎 しののめろくろう 科学系キュレーター。 あっちの話題と、こっちの情報をくっつけて、おもしろくする業界の人。天文、宇宙系を主なフィールドとする。天文ニュースがあると、突然忙しくなり、生き生きする。年齢不詳で、アイドルのコンサートにも行くミーハーだが、まさかのあんな科学者とも知り合い。安く買える新書を愛し、一度本や資料を読むと、どこに何が書いてあったか覚えるのが特技。だが、細かい内容はその場で忘れる。 この著者の記事一覧はこちら

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