F1で勝つ選手輩出へ。ホンダで戦い続ける佐藤琢磨が伝えたい、“最前線”の争いに求められる突破力

2024年2月20日(火)12時1分 AUTOSPORT web

 2024年のインディアナポリス500マイルレース(インディ500)への参戦を表明したばかりの佐藤琢磨が2月19日、ホンダ・レーシング(HRC)のオンライン会見に出席し、『エクゼクティブアドバイザー』に就任したことを発表した。これからはHRCの一員として国内外のレース活動に関わりながら、後進を育てていくことになる。


 HRCの渡辺康治社長と登場した琢磨は、渡辺社長から紹介を受けエグゼクティブアドバイザーの就任の経緯を説明を受けると、今度は自らのホンダ、そしてHRCへの繋がりから説明を始めた。


「僕の父は子供の頃からホンダ車を乗り継いで、僕が初めて覚えた英語もHでした」と微笑んだ。そして運命的とも言える1987年F1日本GP初観戦の話題に触れた。


「10歳の時初めて鈴鹿サーキットでF1を見て、頭の先から足の先までF1一色に染まりました。それほど衝撃的な出来事でした」

ホンダ・レーシング(HRC)のエグゼクティブアドバイザーに就任した佐藤琢磨(右)と、HRCの渡辺康治社長(左)


 高校、大学時代の琢磨は自転車競技に打ち込んではいたものの、SRS(鈴鹿レーシングスクール)生徒募集の記事を目に止めて、琢磨は最後のチャンスに賭けて入校。首席で卒業してからはレース人生一本槍。ホンダ、HRCとの関係は27年になった。


 イギリスでF3の日本人初タイトルを獲得後、2002年にジョーダン・ホンダでF1デビュー。2004年BARホンダでアメリカGP3位入賞。その後スーパーアグリで2008年までF1で戦う。


 2010年にインディカーに舞台を移してからは、2013年にロングビーチで初優勝(AJフォイト)、2017年にアジア人として初めてインディ500を制覇(アンドレッティ・オートスポート)、2020年に2度目のインディ500制覇(レイホール・レターマン・ラニガン・レーシング)と数々の成績を残してきた。そして今もなお現役レーシングドライバーとしてインディ500への挑戦を続けている。


 琢磨のレーシングドライバーとしての27年間はホンダと共に歩んできた道のりだった。

2020年のインディ500を制した佐藤琢磨
佐藤琢磨のドライブするRLLの75号車はアマダ・アメリカがメインスポンサーとしてサポートする


■自らの力で突破し切り開いてきた琢磨


 2019年からはホンダ・レーシング・スクール(HRS)のプリンシパルに就任。将来レーシングドライバーを目指す生徒たちを指導し始めている。琢磨がプリンシパルとして初めて送り出した岩佐歩夢もF1直下のFIA F2で活躍し、今年は全日本スーパーフォーミュラ選手権で戦うことを決めた。


 F1で7年、インディカーで15年と計22年もの間、世界のトップカテゴリーで戦ってきた琢磨。その道のりは山あり谷ありだったが、琢磨の残してきた成績と足跡は日本人ドライバーが未到だったものばかりで、大きくて意味のあるものだ。


 渡辺社長は「琢磨選手は長い間ホンダとの繋がりはありますが、決してホンダが敷いたレールの上を走ってきたわけではなく、自らの力で突破して切り開いてきました。世界の第一線で挑戦し続ける姿を、後進のドライバーにも見て欲しいし、その経験をHRCで発揮していただきたい」と期待を語る。

角田裕毅と岩佐歩夢とともにHRS特別講習会を行った佐藤琢磨


 1960年代からF1で戦うホンダだが、いまだに日本人優勝ドライバーが出現していないのは口惜しい現実。“世界で戦う”と一言では言うものの、その難しさと険しさを知るのは最前線で戦った人間のみだ。


 その意味でHRCが琢磨に白羽の矢を立てたのは、至極当然の成り行きかもしれない。


 もちろんF1がすべてではないが、高い目標を掲げることで邁進してきた琢磨にとって、この職務を全うするには、若いドライバーたちを常に高い意識で鼓舞していくことだろう。


 琢磨も「日本のレースのレベルは決して低くない」と断言する。日本から世界に飛び立って、やがて琢磨の残してきた足跡を踏み越えて行くようなドライバーが現れれば、琢磨もそれが本望だろう。

ホンダとともにF1を7年間戦った佐藤琢磨
これまでトークショーでも若手への想いを語ってきた佐藤琢磨


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