【内田雅也の追球】「愉しい新聞」を求めて
2025年5月10日(土)8時0分 スポーツニッポン
あす11日はスポーツニッポン新聞(スポニチ)にとって、ちょっとした記念日である。1949(昭和24)年5月11日、同年2月1日、大阪で創刊した新聞が紙齢100号を迎えたのだった。12日付新聞を刷り上げた後、祝賀会を開いたと社史『スポーツニッポン新聞50年史』にある。
<その日20人足らずの全役員、社員は大阪駅前阪神裏の闇市にあったドブロク屋へ集い祝杯をあげた>。創刊時の社員は男女13人。後に数人が加わっていた。広告部員、高田禎二(後の取締役広告担当)の談話として「健闘を称(たた)えての祝杯というより、よくここまでもったなというのが本音でした」とある。終戦から4年。先人の苦難、社員の団結を思う。
創刊50周年のころ、本紙評論家だった西本幸雄に、この闇市のドブロク屋や全社員十数人の話をすると「そうか」と感じ入っていた。自身は別府・星野組で給料の遅配が相次ぐなか、懸命に明日を見ていたころだ。「苦労したことだろう。しかし、力を合わせて一つのものを作ろうとする気概を感じる。希望を抱いていたのだろう」。寄せた色紙には「以和為尊」(わをもってたっとしとなす)としたためていた。
100号の新聞はタブロイド判4ページ、1部定価1円50銭。1面は当時「日本野球」と呼んだプロ野球で、トップ記事は別当薫、藤村富美男が連続本塁打を放ち、中日に快勝した阪神の記事が載っていた。
そんな新聞がきょう10日で紙齢27272号を迎える。この日、甲子園球場でのナイターは雨で中止となった。雨音を聞きながら、創刊当時の気概や希望を思う。
<ここに「愉(たの)しい新聞」スポーツニッポンがうぶ声をあげます>と『創刊のことば』を読み返した。<明るく愉しい生活の焔(ほのお)はそちこちに燃え上がっています。大空に白線を引く大ホームランを見つめる観衆の瞳の中にも>
襟を正したい。野球記者となって40年。野球を追い、野球に求める原点を見直したい。
アメリカ野球殿堂入りの名記者レッド・スミスは「一生、生粋の新聞人でいたい」と言った。最後の原稿が載ったのは他界する4日前だった。名言が残る。「野球をスローで退屈だと思う人、それは退屈な心の持ち主に過ぎない」
愉しさの焔を燃やすと肝に銘じた。 =敬称略=
(編集委員)