「三国志」2代目の龍、呉の孫権という男の栄光と落日、その理由

2025年1月16日(木)5時50分 JBpress

 約1800年前、約100年にわたる三国の戦いを記録した歴史書「三国志」。そこに登場する曹操、劉備、孫権らリーダー、諸葛孔明ら智謀の軍師や勇将たちの行動は、現代を生きる私たちにもさまざまなヒントをもたらしてくれます。ビジネスはもちろん、人間関係やアフターコロナを生き抜く力を、最高の人間学「三国志」から学んでみませんか?


三国志演義では描き切れない、孫権の懐の深さ…

 呉の第2世代のリーダーとして、208年の赤壁の戦いで果敢な決断をして曹操の進撃を打破した孫権。小説である三国志演義では、蜀の劉備や諸葛亮らの活躍に隠れて、どちらかといえば脇役感が強い存在ですが、史実では大きく異なります。

 孫権は200年に、兄の孫策が戦死したことで呉の勢力を引き継ぎます。その時彼自身は若干19歳の若者であり、同年曹操は46歳、劉備は40歳とベテランの域に達していました。乱世の中国大陸を渡り歩いた英雄二人に対して一歩も引かない駆け引きを見せた青年君主孫権は、周囲にある人材、アイデアや機会を柔軟に活用した異才の人物だったのです。

 219年に、関羽が荊州で勢いを得ると、呉にとっても係争地だった荊州での蜀の地歩固めを嫌い、曹操側からの誘いで関羽の背後を突くことを決意。結果として関羽の敗死と、蜀が荊州の地を失うきっかけをつくりました。関羽の敗死に怒る劉備は221年に大軍で呉へ侵攻、しかし陸遜の火計によって翌222年の夏に、呉は蜀軍を撃退します(夷陵の戦い)。

 208年の赤壁の戦いでは曹操を、221年の夷陵の戦いでは劉備を大敗北させた孫権。20歳近く年の若い孫権に敗れた二人の英雄は、呉の若いリーダー孫権に底知れない力があることを思い知ったのではないでしょうか(212年にも曹操は大軍で呉に侵攻、孫権と呉は単独で撃退した)。


大きく3つに分けることができる、孫権の人生

 魏の曹丕は220年に帝位につき、蜀の劉備も221年に皇帝となります。一方、呉の孫権が帝位を称したのは229年(48歳)のとき。ライバルたちを油断させる、あるいは小者のふりをして敵対視されないことを狙ったのかもしれませんが、このような点にも孫権のしたたかさが垣間見えます。

 孫権の人生は、大きく3つに分けることができると思われます。第1期が雌伏時代(200年〜208年)、第2期が赤壁の戦いから皇帝に即位するまで(208年〜229年)の変幻自在期、第3期は皇帝即位から死去まで(229年〜252年)の爛熟期です。

 第1期の雌伏期は、兄から引き継いだ領地と将軍たちとの関係性を固め、中国の南方での勢力を堅実に拡大しています。この時期、呉の勢力範囲には大きな敵が見当たらず、曹操や他の英雄たちが中央で衝突を繰り返すのを遠目に見つつ、地盤を固めた時代です。

 第2期の変幻自在期は、208年の赤壁の戦いから、蜀の劉備たちとの同盟、さらには手のひら返しで魏と結び、蜀の足元をすくうなどの計略の見事な手腕を発揮しています。さらに言えば、夷陵の戦い(221年)で劉備陣営を大敗北させておきながら、魏の曹丕が大軍で呉に侵攻することがわかると、孫権側から蜀に和睦を申し出ているなど、風向き次第、自分の不利有利で立場を猫の目のように変化させる巧みさがあります。

 魏の曹丕が帝位についたのち、呉に臣従を求めた際には口先だけで大いにへりくだり、実際に魏が大軍を差し向けたときは完膚なきまでに返り討ちにしているあたり、孫権の面目躍如というところでしょう。

 孫権と諸葛亮の時代、呉と蜀の関係は微妙でした。2国はともに、一国では魏に対抗できないことが明白でありながら、お互いに100%の同盟国でもない。劉備と孫権の同盟時代からすでに、蜀にとって呉との同盟はご都合主義的なところがありました。

 一方で、孫権からすれば諸葛亮の北伐は、呉が魏から受ける侵攻圧力を大いに減らしてくれる好都合な活動です。蜀が北へ向かえば、呉との衝突はない上に、魏の軍事力も分断してもらえる意味で、孫権はつかず離れずというようなほどよい形で蜀を利用しています。

 第3期の爛熟期は、孫権が老いを見せ始める時期でした。一般的に「爛熟」という言葉は、熟しきって果実が落ちる寸前、あるいは腐敗の気配がある意味で使われます。爛熟期に入った孫権は、若いころとは異なり、頑なで自己本位、また群臣の意見を聞き入れない自己執着を強めていき、呉のお家騒動を導く導火線を創ります。

 爛熟期の孫権の最大の失敗は、跡継ぎを遅くまで決定しなかったことでしょうか。自身が若年で君主となったことを忘れ、いつまでも子供たちの誰を次の皇帝にするか宣言をしませんでした。さらに孫権にとって不幸だったのは、優秀だった長男の孫登が241年に33歳で病死したことです。これにより、後継者選びはさらに混迷を深めてしまいます。

 長男の死後も、後継者選びと待遇で愚かな判断を続けたため、呉の家臣団を2分する権力抗争に発展し、この争いはそのまま呉の滅亡を早める要因になってしまいます。


皇帝という肩書とプライドが、英雄の孫権を狂わせたのか

 孫権の最も充実していたのは、関羽の死後から帝位に就くまでとこの連載では判断しています。229年以降の孫権には、若いころには見られなかった頑迷さが出てくるからです。孫権が帝位に就くのは魏の2代目である曹丕が死去してから3年後であり、孫権という変幻自在の策士も、精神的な面を含めてようやく老いを見せ始めたのかもしれません。

 234年に蜀の諸葛亮が、五丈原で病死したことも、孫権の慢心を生み出す契機になったでしょう。政治行政で天才的な手腕を持つ、隣国蜀のライバルがいなくなったのですから。

 皇帝という肩書は、三国志時代では特別な意味を持ちます。何しろ、天下を統べるはずの皇帝が、同時代に3人いるのですから。皇帝が併存しているわけです。一方で、皇帝という肩書は「比べる者がない高い地位」も意味します。これは、外敵がいるにも関わらず、国内では天下を統べる者という肩書をかかげるのに似ています。

 現代社会でも、高い地位や特別な地位を得ると、とたんに気構えや仕事への態度が変わってしまう人がいます。例えば肩書に「長」とつくと、現場の仕事を急にやらなくなり、誰かに命令ばかりしてしまうなどです。あるいは社長、会長などの肩書を得ることも、優れた人の慢心を呼び起こしてしまうかもしれません。

 孫権と呉は、魏の侵攻をたびたび撃破しており、229年を待たずとも、本来の国力を考えるなら、もっと早く皇帝を自称してもよかったはずです。それをあえてせず、229年まで待ったのは、孫権という変幻自在の若き英雄の用心深さであり、帝位に就いたことは、その用心深さを捨てることだったのかもしれないのです。


人は歳を重ねるごとに、挑戦の気概と謙虚さを同時に高める必要がある

 孫権は252年に死去しますが、戦乱の時代を超えて皇帝となったことを考えると、71歳までの長寿は大往生といってもよいほどの長生きです。19歳という年齢で軍団のトップを務めなければいけなかった孫権の人生は、非常に多くの困難を乗り越え、その度ごとに謙虚に学習を繰り返すことで成功を拡大していきました。

 一方で、英雄児孫権も、多くの人と同じような点でつまずき、同じような点で悩み、同じような点で失敗しています。皇帝の位についたときのように、人は自分を特別な存在だと考えると、誰もが同じように抱える人間としての課題から「自分だけは逃れられる」「自分だけは特別だからそのルールは当てはまらない」と考えてしまいがちです。このように考えてしまうと、逆にどんな人にも待ち構えている人生のハードルを前にして、大きく転んでしまうのです。

 ある意味で、魏や蜀の英雄たちを手玉に取ったといえるほどの傑物である孫権は、その人生の多彩な面から、現代の私たちにも非常に多くの学びを与えてくれる存在なのです。

筆者:鈴木 博毅

JBpress

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