「ひろゆき型ネット論壇」蔓延前まで、インテリが敬意を払いあいながら有意義で含蓄ある議論をしていた…ってホント?経営コンサル「象徴的な事件<高齢者は集団自決するしかない発言>を今一度振り返ると…」
2025年2月5日(水)17時26分 婦人公論.jp
(写真提供:Photo AC)
SNSやメディア上で、日々多くの言い合いや論争が繰り広げられる現代。「自分と異なる意見を持つ相手を『敵』と認定し、罵りあうだけでは何も解決しない。大事なのは『立場を超えて協力しあう視点をいかに共有するか?』という<メタ正義感覚>だ」と語るのは、経営コンサルタント・思想家の倉本圭造さんです。今回は、倉本さんの著書『論破という病-「分断の時代」の日本人の使命』より一部引用、再編集してお届けします。
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病にかかっているのは「ひろゆき型ネット論壇」だけだろうか?
新刊の「論破という病」というタイトルは、中央公論新社の編集部にいる方の発案です。
そのイメージの中では、「ネットに溢れる安手の論破合戦」=「論破という病」であり、そういう“くだらない言説”を乗り越えて、旧来メディアが主導してきたような、知的で含蓄があり教養と知恵に溢れた“ほんとうの知性”が通用する世界に日本を引き戻すべきなのだ、という発想が、無意識にでもあったかもしれません。
もちろん、著者である私自身も、ネットに吹き荒れる論破合戦のような風潮には大変問題意識を持っていますし、それを克服していかねば日本国に未来はないし、そのための方法についての本を書きたいと思っていることは全くその通りです。
しかし、では今の日本において「論破という病」にかかっているのは、果たしてそういう「ひろゆき型ネット論壇」だけでしょうか?
「ひろゆき型ネット論壇」が蔓延し、“ほんとうの知性”が貧困化した今よりももっと以前、古き良き日本においては、知性と教養に溢れたインテリたちがお互いに敬意を払いあいながら、それはそれは有意義で含蓄のある議論をしていた……でしょうか?
私にはとてもそうは思えません。
「ひろゆき型ネット論壇」を象徴的に“平成時代の議論”と呼んでみましょう。一方でそれ以前の、新聞や雑誌といった旧来メディアが強固な地盤を持ち、知的な権威とされる論客たちが華麗な衒学(げんがく)を披露していた時代を“昭和時代の議論”と呼ぶことができます。
冷静に考えてみれば、「ひろゆき型」の“平成時代の議論”と同じくらい、“昭和時代の議論”の方も、人の話を全然聞いていなくて、それこそ「朝まで生テレビ!」的にただただ高齢男性が自分が思ったことを放言しまくって、誰も何も検証しないような世界が広がっていたのではないでしょうか?
“平成時代の議論”vs.“昭和時代の議論”としての「高齢者集団自決」発言
“平成時代の議論”と“昭和時代の議論”がぶつかりあった象徴的な事件として、成田悠輔氏の「日本の高齢者は集団自決するしかない」発言があります。
成田悠輔氏が活躍しはじめたのは時期としては令和ですが、性質として彼は「遅れてきた“平成時代の議論”の権化」みたいな存在であると見なして話を進めます。
まず確認しておきたいことは、私は成田悠輔氏のこういう発言に反対ですし、余計に問題がコジれるじゃないか、という反発心もあります。
しかし考えてみてほしいのですが、ただただ成田氏を悪魔化し、「こんな悪魔的な議論をする存在を排除しさえすれば良い」とする発想も、「論破という病」なんですよ。
「論破という病」にかからないためには、まず成田発言の趣旨をきちんと把握することが必要です。
断片的な切り抜きで悪魔化されがちですが、私は彼の発言が今ほど問題視される以前からその発言の全体像に触れる機会がありました。
「みんなの介護」というウェブサイトの中に「賢人論。」というインタビュー集があり、私は成田悠輔氏とほぼ同時期にそこにお呼ばれしたのですが、そのオファーのメールに参考として添付されていたのが彼の回の記事でした。
発言が問題視されてから彼の回は既に削除されてしまったようですが、「みんなの介護」というサイト内の記事だけに、この件について彼がどういうことを考えているのかがよくわかる記事でした。
賢人論サイト内の成田氏発言要旨
成田発言問題について書いた当時の私のブログ(note)で、彼のインタビュー概略をまとめています。
「倉本圭造のnote 2023年2月28日/なぜ日本人の「議論」はこれほど不毛なのか?ひろゆき&成田悠輔的言論に対抗するにはレッテル貼りじゃダメ。」
https://note.com/keizokuramoto/n/n7dafcef2416f
(写真提供:Photo AC)
「賢人論サイト内の成田氏発言要旨」
・自分もクモ膜下出血で倒れた母親の介護が大変だった時期があり、日本の福祉制度に非常に助けられた。米国だったらもっと大変で、見捨てられてしまっていただろう
・しかし、世界一の高齢化で現役世代とのバランスが崩れ、今後この制度が現行のままでは維持できないことは明らかで、どこかで破滅的な崩壊が来るよりは、意図的に刈り込んで維持可能な制度に転換する必要があるのではないか?
・その部分で「効率性」の基準で工夫をすることは「人間性」と対立しない。むしろ相互補完的であるはずなのに、日本ではむしろそこで少しでも「効率」の発想を持ち出すこと自体を排除してしまっている
これを読むと、むしろ「気鋭の経済学者なりの真摯な問題意識から来る提言」という感じがしてきますよね?
私もこのレベルの内容には100%同意しますし、「集団自決」発言だけを切り取って彼をナチスの同類と思っていたような人でも、納得する人が多いのではないでしょうか。
発言の真相
そして、その「総論としては多くの人が賛成するであろう」発言の中の「各論」的な具体策として、成田氏が「集団自決」問題で具体的にどの程度のことを念頭に置いていたかというと、ある程度踏み込んだ例としては、多くの国で行われている実例として、以下のようなものがあると試案を述べています。
(筆者による要約)
多くの国では、自力で食べ物を飲み込むことができなくなるなど、移動・排泄・食事・入浴などの日常生活動作のレベルが一定以下になった場合、大枠でいえば徐々に公的医療保険の適用を弱め公的介護保険に移行することで公的負担を抑えている。自費で延命することはできるとしても、子どもや未来への投資を削ってでも一定以上の延命を公的に促すことには慎重になろうという趣旨で、日本でもそういう発想は必要なのではないか?
この部分については、意見が割れるとは思います。特に、自費と公費で“命の格差”が生まれることへの抵抗感が日本では根強いことは理解できます。私も拙速な導入には反対したい気持ちがある。
ただし、前記の要約部分で成田氏も言っているように、「この程度のことは欧米含めどの国でもやっている」んですよね。米国は言うまでもなく北欧などでもかなりドライな運用がなされていることは有名ですよね。
ここで、
〈いや、大変なコストなのはわかっているし、欧米でもやらないことなのはわかっているが、それでも日本は社会の意志としてこれをやるという決断をするのだ。「命に差をつけてはいけない」という強い意志を見せるのだ〉
……という意思決定をするならわかります。それはそれで一つの選択だなと思う。
しかし、そもそも成田氏の発言を見れば「せめて欧米なみの制度にダウングレードできないか」程度の話しかしていないことがわかるはずですが、
〈長年の自民党支配が続いてきたことでここまで日本社会は破壊されてしまったのかと暗澹(あんたん)とした。非人間性の極みのような人間に唖然とする。彼ら支配層はただただ、私たち市民を搾取する自分たちの権力の維持だけにしか興味がないってことがこの一件からですら一目瞭然なのである〉
〈人権の大切さを理解しない未開国家ではこんな成田みたいな“ナチスと同罪”レベルの人間がでかい顔をしてのさばってるんだ。あーあ、日本ってほんと、人間の尊厳を理解する高潔な人間には生きづらい社会で実に実に嫌になりますよねえ〉
……みたいな話がSNSには溢れかえっており、そもそも現状認識からして全くズレていることがわかります。
※本稿は、『論破という病-「分断の時代」の日本人の使命』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
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