夏目漱石を苦しめた金銭問題、ロンドン留学の極貧生活と正岡子規からの問い

2024年2月15日(木)8時0分 JBpress

慎ましい大学生活を終えた漱石は、のちの『坊っちゃん』の舞台となった松山の中学校の教師を経て、熊本県第五高等学校の教師になります。中根鏡子と結婚もしてようやく生活が安定した漱石に、さらなる苦難が襲いかかります。

文=山口 謠司 取材協力=春燈社(小西眞由美)


慎ましい大学生活と、ようやく安定した教師時代

 或時私は二階へ上(あが)って、たった一人で、昼寝をした事がある。その頃の私は昼寝をすると、よく変なものに襲われがちであった。(中略)

 私はいつどこで犯した罪か知らないが、何しろ自分の所有でない金銭を多額に消費してしまった。それを何の目的で何に遣(つか)ったのか、その辺も明瞭(めいりょう)でないけれども、小供の私にはとても償(つぐな)う訳に行かないので、気の狭い私は寝ながら大変苦しみ出した。そうしてしまいに大きな声を揚(あ)げて下にいる母を呼んだのである。(中略)

 私はそこに立って私を眺めている母に、私の苦しみを話して、どうかして下さいと頼んだ。母はその時微笑しながら、「心配しないでも好いよ。御母(おっか)さんがいくらでも御金を出して上げるから」と云ってくれた。私は大変嬉(うれ)しかった。それで安心してまたすやすや寝てしまった。

 私はこの出来事が、全部夢なのか、または半分だけ本当なのか、今でも疑っている。

夏目漱石全集10』より『硝子戸の中 三十八』(ちくま文庫)

『硝子戸の中』は漱石が死の前年に書いた最後の随筆です。大正4年(1915)1月13日から2月23日の39回にわたって『朝日新聞』に掲載されました。自己については寡黙であった漱石が、「自分以外にあまり関係のない詰らぬ事」とことわって書いたエッセイの中のひとつです。

 庚申の日に生まれた子供は大出世か大泥棒になるという謂れがまだ心にかかっていたのか、それともこれまでにお金の苦労が、根強く残っていたのか。晩年になってもその想いは残っていたようです。

 さて、大学に入ってからも、漱石のお金の苦労は続きます。

 学問をしなければ良い就職はできないと考えていた漱石は、明治23年(1890)、帝国大学文化大学英文学科に入学します。文部省貸費生となって年額85円の奨学金が支給されることになりましたが、授業料や本代、その他生活に必要なお金がかかり、かなりギリギリの生活でした。そのうえ奨学金は卒業後、毎月7円50銭ずつ、返済しなければなりません。

 少しでもお金を稼ごうと、漱石は東京専門学校(現・早稲田大学の前身)の講師をしたりしていました。大学院に進んでからも条件の良い就職先はなかなか見つからず、高等師範学校教授の先輩に教師の就職口を頼みますが採用は成らず、月2回の出講の仕事を得ただけでした。

 そして学習院嘱託教授の知人を頼り、高給だった学習院への就職がいよいよ叶うと思っていた漱石は、授業の時に着用が必要だったモーニングを誂えます。にもかかわらず、採用されなかったため、結局モーニングは無駄になってしまいます。

 そんな時、帝国大学時代の友人・菅虎雄(ドイツ語学者)から愛媛県尋常中学校(現・松山東高校)の英語教員に誘われるのです。「外国人教師並みの待遇なら行ってもよい」と漱石は答えたといいます。当時のお雇い外国人の月給はイギリス人の場合、理系で296円、文系で150円くらいという高給でした。

 すると幸運にも校長の給料は60円、同僚の英語教師は40円というなか、月給80円という当時にしては良い条件で雇われることになります。これまで損ばかりしてきた漱石でしたが、ようやく生活が安定します。

 東京を離れ、松山での生活はそれなりに充実していました。親友・正岡子規との共同生活で俳句や文学への思いを深め、貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と見合いもして結婚も決めます。この時漱石は28歳でした。

 しかし松山にいたのは1年で、また菅虎雄から、今度は自分がいる熊本の第五高等学校に誘われます。月給はさらに上がって100円。漱石は妻となった鏡子とともに、熊本に赴任します。

 お金の苦労からは解放された漱石でしたが、妻・鏡子が慣れない土地でノイローゼになり、家の近くの川で等身自殺を図るという出来事がありました。流産が原因とも言われますが、職人に助けられて事なきを得ました。以来漱石は、鏡子と自分の体を紐で結んで寝るようになったそうです。

 明治32年(1899)、長女・筆子が生まれたことを機に、鏡子のノイローゼはすっかり治りました。熊本での夫婦生活が最も幸福なものだったのではないか、と、後年、漱石の次男・伸六は記しています。


極貧のイギリス留学時代

 もともと英文学の研究をしたいと思っていた漱石は、イギリス留学を望んでしました。しかし、私費留学する余裕はとてもありません。

 帝国大学文化大学国語研究室主任であり、文部省専門学務局長を勤めていた上田万年という人物と、同じ帝大の国文学者・芳賀矢一の間で、漱石をイギリスに留学させようという話が出ます。3人は同年の生まれで、学術・文芸雑誌『帝国文学』でお互いを知っている仲でした。

 上田万年は文部省が初めて派遣する給費留学生に漱石を推薦し、漱石はこれを受けます。帝国大学卒業後、大学院も出てイギリス留学、といえば学者としてのエリート街道まっしぐら、と思うかもしれませんが、現実は厳しいものでした。

 留学期間の待遇は現職のまま年額1800円の留学費、留守宅に休職給年額300円支給というものでした。年額1800円は、十分といえる留学費用ではありませんでした。ひと月150円で生活しなければなりません。今のお金に換算すると15〜20万円程度。同じ頃、帝国海軍からロシアに留学していた広瀬武夫海軍大尉の留学費は4000円だったそうですから、どれだけ少ないかがよくわかります。

 ロンドンで漱石ははじめ、大英博物館に近いブルームベリーに下宿しました。食事付きで1日6円。下宿代だけで留学費では賄えない額でした。「日本の1円がロンドンでは10円くらい」と漱石が手紙に記したように、当時のロンドンは世界一物価が高いと言われていました。

 漱石はこの地で凄まじい貧しさと戦い、ついには精神を病んでしまうのです。同じ文部省留学生としてドイツにいた芳賀矢一は帰国の途中、ロンドンにいる漱石を訪ね、「夏目、狂セリ」と文部省に電報を打ったと言う説も残っています。


正岡子規からの問いと漱石の答え

 精神を病んで36歳で再び東京の戻った漱石は、東京で第一高等学校の英語嘱託として年俸700円、ラフカディオ・ハーンの後任として東京帝国大学英文学科講師として年俸800円、明治大学非常勤講師として年俸360円、合計1860円を得ました。

 この教師時代、漱石はいつもイライラしていたといいます。学生にも厳しく、しまいには漱石の授業を取る帝大生は一人もいなくなってしまいます。

 自分が本当にしたいことはなんなのか、そうするにはどうしたらいいのか。自分の力で人生を変えなければならない状況に追い込まれ、漱石は苦悩していました。

 ありし日、漱石は親友・正岡子規から「お前の将来の目的はなんなんだ」と聞かれたことがあります。

 熊本に赴任していた明治30年(1897)4月23日付の子規宛の手紙に漱石は、「教師をやめて単に文学的の生活を送りたきなり」と、その問いに応えています。

「文学的の生活」には英文学の研究や、子規に鍛えられた俳句、14歳の頃に通った二松學舍(漢学塾。現・二松學舍大学の前身)で学んだ漢詩も含まれています。この頃漱石は、自分が小説を書けるとは思っていなかったと思います。実際私は、漱石には俳句や漢詩の才能のほうに抜群の才能があると評価しています。

 正岡子規は漱石の留学中の明治35年(1902)、人生の全てを最後まで文学に捧げ、34歳の人生に幕を下ろします。子規の死も漱石には大きく響いたことでしょう。

 イギリスから帰国して以来、気分が落ち込みがちだった漱石に、子規門下の高浜虚子は気晴らしにと、俳句雑誌『ホトトギス』への寄稿を依頼します。

 明治38年(1905)、俳句雑誌『ホトトギス』に漱石が書いたのは、『吾輩は猫である』でした。発表するや信じられないほど売れ、そしてこのことが、漱石の人生を大きく変えることになるのです。

筆者:山口 謠司

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