澤地久枝94歳「14歳で終戦を迎え、天皇の人間宣言も、女性の選挙権も知らず満洲で1年の難民生活。敗戦から80年、私は戦争反対を唱え続ける」

2025年3月12日(水)12時30分 婦人公論.jp


「ひとつの国の市民として、確実に未来を奪われる政治を許していいのでしょうか。中国とも台湾とも事をかまえず、平和に生きていく知恵を、日本人は求められていると思います」(撮影:宮崎貢司)

年齢を重ね、体に不自由は感じても、やらなければならないことがある。澤地久枝さんは「戦争に反対する」という一貫した信念のもと、執筆を続け、毎月3日に国会正門前に立ち、静かな意思表明を続けてきた。新年に思うこと、書こうとしている作品、そして戦争を知らない世代になにを伝えていきたいか。いまの思いを聞いた(撮影:宮崎貢司)

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混迷の世界で暗夜の光の役割を


新しい年を迎えて、私にはやはり緊張があります。2025年は、敗戦の年から80年になるのです。あの8月15日、世界は一切の戦争行為をやめ、第二次世界大戦は終わりました。日本は最後まで戦っていた国でした。

その後、この国からは徴兵制度がなくなり、女たちは選挙権を手にします。天皇は人間宣言をして、神の座から人間の座へと移られました。

しかしその最中、私は満洲(現・中国東北部)で暮らしていたので、14歳から15歳までのほぼ1年間、日本国内の大きな変化に触れていません。選挙によって女性の国会議員が多数誕生したことも知らないまま、異民族のもと、難民生活をしていました。

いまは94歳になって、しかも転んで、杖なしでは歩けない腰曲がりの「老人」です。

老人になっても、私の心は熱いと思います。日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)のノーベル平和賞受賞に喝采を送り、私も核兵器禁止のため、なにか役割を果たしたいと思う。

なにより、日本が軍事同盟下で台湾海峡の有事を想定し、石垣、宮古、与那国の島々に自衛隊基地を作ったこと。いったん事が起きたら、住民には家業も家も捨てて、九州へ集団移動させると言います。そこで営々と働き、生きてきた人たちは、80年前と同じ、家なき難民になる——。

ひとつの国の市民として、確実に未来を奪われる政治を許していいのでしょうか。中国とも台湾とも事をかまえず、平和に生きていく知恵を、日本人は求められていると思います。

島の生活を圧倒するような自衛隊の宿舎。沖縄は基地の島から独立すべきであり、本土に住む人間は、結局のところ、日米安保条約や行政協定をなくす方向へ努力すべきと思います。

憲法によって軍隊を持つこと、戦争の手段を捨てることを決めた私たちは、混迷の世界にあって、暗夜の光の役割を果たさなければならないと思います。

私は4年前に自宅で転び、背骨を折りました。その結果、背骨が曲がりました。老人の腰が曲がる姿を痛ましいと思って見ていましたが、まさにあの姿です。

講演などの仕事が入ったときくらいは車椅子を使いますが、普段は杖です。車椅子での遠出には介護タクシーを利用することになりますけれど、気軽に使える価格ではありませんから、どなたにでもお勧めできるものでもないですね。

そういう状況ですから、いまは自分でも本当にのんきな生活を送っていると思います。要介護度は4から1まで下がり、ヘルパーさんと訪問介護の人が週に2日、1時間ずつ見えますが、ヘルパーさんにお願いしているのはシーツの交換やお風呂、トイレのお掃除。

部屋の掃除は自分でやらなきゃほかの誰もしませんので、自分でやります。朝と夜には食事を作り、片づけが億劫だと思えば次の日に回すこともある。非常に気楽なものです。

こうして書斎を見渡すと散らかっていて、ひどいものだとは思うけれど、書くものに関わる資料などは片づけるわけにいきませんからね。

いま書こうと思っているのは、敗戦後、自決した私の叔父一家の話です。戦争がどれほどむごく、戦場に出た兵士だけでなく、その家族すべての幸福を、命を奪ってしまうものなのかを書こうとしていますが、なかなか進みません。

たとえば、そこらに積んであるのは叔父のいた陸軍工兵学校の資料だったりするのね。でも残っていない記録も多くて、まだせいぜい3合目といったところ。山頂まではずいぶんかかりそうです。

私に残っている叔父の記憶


叔父というのは、私の母のただ一人の弟です。朝鮮の会寧(かいねい)で十余年、最後まで工兵准尉でした。そして敗戦後の8月19日、一家4人で自決しています。満洲とソ連、朝鮮のちょうど国境が接するあたりで。娘たちは小学校2年生と、まだ1歳にもならない赤ん坊でした。

私は4歳のとき、一家で満洲へ渡りました。わが家は父が大工で不景気だったものだから、満洲へ渡る前はたびたび母の実家に居候することがありました。すると叔父が、「久枝ちゃんは、おじさんが女学校に上げてあげるね」と言ったというのです。

現代で言えば「大学に行かせてあげる」といった意味合いですから、母は夫婦の貧しさを指摘されているようで、ずいぶん屈辱的だったらしいです。

叔父は、祖母が年をとって産んだただ一人の男の子だったこともあり、小学校を卒業すると家具職人のもとに弟子入りしていましたが、徴兵検査で「甲種合格」と背中を叩かれて、目の前が真っ暗になったと言います。そして入隊し、会寧へ渡りました。

私は小学校を卒業した年、会寧の叔父の家を一人で訪ねているんです。その家に、職人として叔父がこれまでに丹精したものを集め、額にしたものが飾られていたことをよく覚えています。妻である叔母は幼いときの事故で左手の指がなく、いつも隠しているような人でした。叔父はその人と恋に落ちたあと、軍隊にとられたのです。

私はね、戦争中は軍国少女だったんです。日本が勝つものと信じ切って日本兵の非常食を作る動員や、開拓団に住み込みの動員にも行きました。14歳で終戦を迎えたとき、「神風は吹かなかった」と本気で思いました。

自分も戦争で死ななければならない、と真剣に思っていたんですから、死ぬことの意味をよくわかっていなかったのでしょう。恥ずかしいけれど、そういう自分を否定したり、忘れたりすることはできないと思って書いたのが、『14歳〈フォーティーン〉』です。

<後編につづく>

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