島崎今日子「富岡多惠子の革命」【10】詩から小説への「溝跨ぎ」
2025年3月22日(土)6時0分 婦人公論.jp
舞台「結婚記念日」パンフレット(資料提供:中川浩子)
戦後の日本文学史に決定的な影響を与えた詩人であり、作家であり、評論家であった富岡多惠子。54年を連れ添った夫・菅木志雄をはじめ、さまざまな証言者への取材をもとに、87年の生涯を辿る。
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富岡多惠子は天才です
1971年5月、35歳の富岡多惠子ははじめての小説「丘に向ってひとは並ぶ」を「中央公論」に発表し、「婦人公論」の特集「年下の男時代」にはエッセイを寄稿した。
〈年上の女と年下の男という組合せがすばらしいとしたらその第一番の原因は、年上の男と年下の女という組合せをつくってきた論理が内包する、支配被支配の関係をもっていないことではないだろうか〉(「婦人公論」1971年6月号)
54年生まれの中川浩子は、新居浜西高校3年の昼休み、図書室で手にとった分厚い「婦人公論」でこのエッセイを発見し、一読惚れした。以来、19歳年上の富岡作品を夢中で読み、その姿を追いかけてきたファンである。いや、マニアだろう。
現在、中川は71歳、故郷、愛媛の新居浜で赤ちゃんを連れて住みついた母娘猫と暮らしている。
「あのエッセイは内容もさることながら、今まで読んだことがない文章でした。当時人気のあった伊丹十三の『女たちよ!』なんかは誰が書いても成り立つと思ったけれど、富岡さんの文章には生まれてはじめてグッときたんです。私には、大阪弁へのアレルギーがなかったからかもしれません。新聞広告で富岡さんの小説が掲載されていると知って、すぐに市内の書店で『中央公論』を買いました。けったいな小説だと思いましたが、全部読もうと思って読みました。それから富岡さんの名前を見つけると短い文章や記事なら雑誌を立ち読みしたりするようになりました。一瞬でファンになったんです。幼児期から市川雷蔵のファンであった私の2人目のアイドルでした」
夏、予備校の夏期講習を受講するために上京すると、早稲田や神保町の本屋をまわり、地元の本屋では手に入らなかった富岡の単行本を探した。詩集も翻訳本も、次々出版されていた『厭芸術浮世草紙』、『ニホン・ニホン人』、『青春絶望音頭』、『行為と芸術』などのエッセイ集も片っ端から購入した。中川はこれまでに富岡のすべての単行本、文庫本を買って読み、作家が登場する雑誌や新聞には目を通し、富岡脚本の映画も舞台も見て、その作品に出演した俳優の動向にまで気を配ってきたのである。
「全集だけは高かったので、図書館で借りて読みましたけれど。現代美術家の高松次郎や、作曲家の一柳慧(とし)、オノ・ヨーコの元夫ですね、そうした表現者を書いた『行為と芸術』なんて、とりあげているひとが何十年も早いでしょ。富岡多惠子は天才です」
72年春、早稲田大学に入学し、東武東上線沿線のアパートに暮らしはじめると、中川の富岡熱はますます高じていった。翌年3月に「海」で詩人のはじめての長編小説「植物祭」の連載がスタートしたときは、毎月、待ちかねて発売日前日の6日夕方に入荷する池袋駅地下の小さな書店までわざわざ買いに出かけたほどである。
憧れの作家のサイン会
富岡初の戯曲「結婚記念日」が千田是也演出で上演されると、初日に六本木の俳優座まで足を運んだ。河内(こうち)桃子扮する母親が35年連れ添った夫に先立たれ、無邪気に実の2人の娘たちの夫を次々誘惑して、結婚を繰り返す物語である。装置が高松次郎で、音楽は一柳慧。当時の入場料はA1300円、B1000円、学割800円で、現在の5分の1くらいだろうか。
「岩崎加根子が富岡さんらしき娘をやっていましたね。その夫役が磯部勉。芝居が終わると、富岡さんと菅さんと白石(かずこ)さんがロビーにいて、3人が並んで夜の街に消えていくのを見ました。ファッショナブルで、カッコよかったですよ。白いスーツを着た菅木志雄さんも、超カッコよかった。ちょうど『青春絶望音頭』の表紙カバーの折り返しに写っている荻窪の家に住んでおられたころで、荻窪に住む友人に会いに行ったときにお家を探したんですよ。そうしたら、富岡さんが自宅のほうから早足で歩いてきて。スラッとして、歩くのが速かったです。まるでストーカーですが、あのころは、個人情報保護法もなかったので、新聞に作家の転居先とかも細かく載っていたんです」
全詩を集めた函入りの厚い『富岡多恵子詩集』刊行記念のサイン会が行われたときには、池袋にあった詩の専門店「ぱるこ・ぱろうる」でドキドキしながら、憧れのひとと対面できた。前年の72年にエッセイ集『わたしのオンナ革命』が出て、富岡人気が沸騰していたころである。
「私が、『青春絶望音頭』が絶版になってることを言うと、富岡さんはうつむいたままポツンと、あんなええ本ないのになぁと呟きながら、サインしてくださいました。私が富岡さんの好きな美少年だったら顔を見てもらえたかもしれませんね。富岡さんは写真映りがあんまりよくない方で、スラリとした立ち姿といい、森茉莉が書いてたように首が長くて美しくて、実物のほうがずっと素敵でした。あとになって角川文庫から『青春絶望音頭』が出たときは何冊も買ったのにみんなひとに配って、今は手元に初版のレモン新書しかありません」
不機嫌こそがエナジーの根源
富岡の写真映りがよくなかったのは、ポーズをとったり、表情を作ったりをしなかったからだろう。規範に縛られて愛嬌や媚びを身体化することなく育った作家は、自分の感情を繕う術を知らず、平気で無愛想でいることができたのである。
富岡が晩年まで交流し、年譜作りを託すほどに無条件の信頼を寄せていた編集者で、詩人の八木忠栄が追悼文に書いていた。
〈「不機嫌」こそ、富岡多惠子が芸術や詩と闘い、小説と闘うエナジーの根源になったものではないか。しかも「素手」の闘いだった〉(「現代詩手帖」2023年7月号)
作家より6歳年下の八木は脊髄小脳変性症を患い、2015年から杖に頼る生活を送っている。ひとに会うのは厳しいが、表情が見えたほうが言葉を尽くせるからとZoomでの取材を提案してくれた。
「富岡さんは、嘘笑いや、愛想笑いをするひとではなかった。自分で言ってましたね。高いトーンで『はい、富岡です』と言えば明るくなるけれど、自分はいつも低い声で『はい、富岡です』と電話をとる、と。その不機嫌さは会ったときから生涯変わりませんでした。それが素晴らしいと思った。
僕は、富岡さんに田村隆一や吉本隆明、小沢昭一といった方々との連続対談(『虚構への道行き』1976年)も、お願いしました。言葉と芸への関心からですが、富岡さんにこのひとをぶつけたらどうなるか? という興味もありました。富岡さんは対談しても全然嬉しそうじゃなくて、あっち向いたり身体を動かしたり、嫌々出されたって感じで出てきましたね。態度が悪かったんですよ、態度が。でも、しゃべる内容は素晴らしい。反応が速くて、しかも幅が広かった。幅が広くて、飛躍じゃなくて、足を土にずっとつけてるんだもん。ひとをよく知ってるんですね。本当に頭のキレるひとで、サービス精神もあったから、対談しても丁々発止で本当に面白い。だから、ひとりで書いていく小説はすごく苦労したんでしょうね」
八木が富岡に会ったのは、大学卒業後、思潮社に入社して「現代詩手帖」の編集長になったころである。同誌の66年10月号冒頭の長編詩「はじめてのうた」が富岡からはじめてもらった詩で、翌67年1月号から11月まで、富岡初の連載エッセイ「ニホン・ニホン人」を企画し、担当した。ちょうど富岡がヨーロッパ経由でニューヨークから戻った時期である。
「富岡さんが会社に来たのが、会った最初だと思います。そこから僕が原稿をもらうために頻繁に家に行ったわけです。松原のアトリエにも行ったし、若林のマンションにも行きました。池田満寿夫とのことは知っていましたが、不機嫌になるからあまり言いませんでした。そのへんの事情は富岡さんが詩に書いてますよね。『ニューヨークではなにもすることがない』や、『だからどうなんだというからいくのだといった』(「現代詩手帖」1968年7月号)、そのへんが葛藤ですよね。
あるとき、富岡さんと会うと、知らない男が脇にいるの。最初は紹介してくれないから、誰だろうなぁ、富岡さんは若い男が大好きだからなぁと思っていて。その後、仕事で行くとその男がいて、きっと誰かが紹介してくれたんでしょうね、菅さんだったんですね。でも、彼は仕事の話がはじまると姿を消すの。結婚してからも、同席したことはないです。つまり、妻の仕事場に夫はいない。それは菅さん、徹底していましたね」
小説にも詩が流れている
「現代詩手帖」読者にも富岡人気は高く、熱心なファンも多かった。
「特に女性がね。代弁してもらっているって感じがあったんじゃないですか。僕はね、当時、思潮社の社長に言われたの。『富岡さんと白石さんと吉原幸子、この3人はすごいんですよ。みんな違うけど、みんなすごい。君はいきなりすごい女性詩人3人と仕事をしてるんだよ』って。みんな、頭がよくて、キレました。でも、それを表に出さないんだよ。表に出したら嫌になるでしょ。やっぱり、富岡さんが頭のよさを表に出さないで、後ろにおいてやってきたから、僕はつきあえたの。僕はうまいこと言うのはダメだからね。本音でつきあえるひとでした」
70年7月、富岡が思潮社から刊行した詩集には『厭芸術反古草紙』というタイトルがついている。〈わたしはいま、ことばの国の役立たずのやからの謀反に味方したのを裏切ってあの土地へいくか、或はあの土地をもとめるふりをして連中といっしょに謀反を行うか、どっちかをはっきりさせねばならぬハメになっている〉とあり、これが最後の詩集であった。2カ月前には詩集と対のような『厭芸術浮世草紙』と名付けたエッセイ集を中央公論社から出していて、その帯には〈ナグサミものとしての芸術を拒み、現実そのものに迫ろうとする〉とある。ここまでは詩人という肩書がついていた。それから1年たたずして、はじめての小説を書き上げ、詩から小説へ「溝跨ぎ」したのである。
〈小説への「溝」を前にして、わたしにあったのは、語るよりも認識の欲望だった。生存している状態の深さを認識したいということだった〉(『表現の風景』1985年)
八木は、詩を依頼しても断られるようになっていた。
「いくら言葉を重ねても応じてもらえることはなく、たまらずに面と向かって『小説ばかりを書いていると、色気がなくなりますよ』と言ったけれど、富岡さんは答えなかった。ただ詩が書けなくなったわけじゃなくて、『こんな詩はいくらでも書けるんだ』ってことですね。書かなくなったんですね。もう小説のほうにいったんでしょうね。小説は、好きな小説も好きでない小説もありますけども、やっぱり、すごい才能だと思いました。『丘に向ってひとは並ぶ』って、あれは本当に富岡さんの本質的なところですからね。でも、詩をやめても、彼女の小説には詩が流れていますよ」
富岡は多田道太郎との対談で、なぜ詩作をやめて小説へいったのかとさまざまなところで質問され、全部いいかげんに答えてきたが、ひとつ言えることとして説明する。
〈詩人やからいうことでやっぱり自由失いたくないから。(中略)ただ、その芸の洗練だけをめざしていくという風なところで自分を縛っていくのいややしね。もっとのらりくらりしてなんにもせんと生きていきたいと思っているのに、やっぱり詩人としてのかっこよさとか名声とか、お褒めにあずかるとかそんなくだらないことより自由のほうが大事ですよ〉(『ひとが生きている間』1974年)
「結婚記念日」パンフレットに掲載された高松次郎との対談
全方位に広がる活躍
73年、八木は富岡マニアの中川がサイン会に駆けつけた『富岡多恵子詩集』を企画し、編集する。すでに思潮社からは2冊の『富岡多恵子詩集』があったが、『返禮』、『カリスマのカシの木』、『物語の明くる日』、『女友達』『厭芸術反古草紙』、未刊詩と、これまでの詩作を全収録した作品集だった。装丁は、単行本『丘に向ってひとは並ぶ』に続き、富岡がシンパと公言し、夫の菅が「細くて、インテリっぽくて、アーティストで。多惠子さんのドンピシャのタイプ」と見抜いた高松次郎。付録としてそれぞれの詩集のあとがきやノートが再録されており、この時点で富岡多惠子の仕事を眺望する一冊となっている。
あとがきには、こうある。
〈いいかえれば、わたしは詩という男に出会い、その男に惚れ、別れたくても未練があって別れられず、ずい分長い間いっしょにいたのであるが、やっとこさ、愛想をつかして別れたのである。/このことは、いわば芸術への執着よりも、わたしが生きていく上での本能的な必要に従ったことである〉(『富岡多恵子詩集』1973年)
文章は、八木がいなければこういう本はあらわれなかったし、今後もこんな機会はないと思われる、と結ばれていた。
初の小説を発表してから、富岡の短編は「イバラの燃える音」、「仕かけのある静物」、「窓の向うに動物が走る」が3期続けて芥川賞候補となっていた。74年4月には『植物祭』で第14回田村俊子賞を、同じ年の秋には『冥途の家族』により第13回女流文学賞を、続けて受賞する。
小説家としての評価を固めつつあるときも、この新人作家は対談や新聞や雑誌のインタビュー、エッセイの仕事にひっぱりだこであった。同じ35年生まれのアラン・ドロンの日本一のファンを自称して、大きなポスターを飾った仕事部屋での写真を雑誌に提供、人気者だった野口五郎と対談するなどミーハーぶりとサービス精神を存分に発揮。「結婚記念日」のパンフレットで対談した高松次郎が「なにを見ても富岡さんが出てる‥‥」と話すほど多忙で、日本テレビの「遠くへ行きたい」や、NHK文芸劇場などテレビにも出演した。
中川浩子はどれもこれも読み、テレビだけは見逃しているもののラジオで富岡がアラン・ドロンを賛美するのを聴いている。それだけではなく、彼女は富岡の夫、菅木志雄の個展が開かれると知るやそこにも出かけて行くのであった。
「そのころ、菅さんは日本橋にあった田村画廊というところでよく個展をされていたんですね。菅さんがスーツ姿で椅子に座っていらっしゃると、カッコいいなぁと横目で見ながら作品を見て帰りました。いらっしゃらないとき、画廊のオーナーに『富岡さんのファンなので、来たんですよ』と言ったことがありました。画廊主は、『富岡さんに、あんたらええなぁ、こんなものを作ってたらいいんやからと、言われました』っておっしゃってました。作品を勧められたんですが、20万円だったので買えないし、普通の家には置けない。でも、家に置いてじっと眺めていると菅さんの考えてることがわかるよ、と言われましたね」
詩からエッセイ、小説、対談、映画のシナリオ、舞台の脚本と活躍の場を全方位に広げていた富岡多惠子は、41歳で歌手になるのである。
※次回は4月1日に公開予定です。
(バナー画提供:神奈川近代文学館)