中野信子が警鐘「イケニエへの攻撃がやめられないのは脳の仕組みに由来。あなたも制裁の快楽をむさぼる<コンプライアンス中毒>に陥っていませんか?」

2025年4月7日(月)12時30分 婦人公論.jp


(イメージ写真:stock.adobe.com)

インターネット上の誹謗中傷について、プラットフォーム事業者に迅速な対応を義務付ける「情報流通プラットフォーム対処法」が4月1日に施行されました。脳科学者の中野信子先生は言語とはその性質上、人間の行動パターンを大きく変えてしまうことがあることを指摘し、「人間の歴史はまじないの歴史」と語ります。「言葉の隠された力」を脳科学で解き明かします。そこで今回は、中野さんの著書『咒の脳科学』から、一部引用、再編集してお届けします。

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脳は苦痛より快楽に弱い


私たち人間の脳は苦痛よりも、快楽に弱くできている。

たとえば、私たちの代謝のメカニズムは、もちろん個体差はあるものの、多くの場合、飢餓状態に耐えられるようにカロリーをできるだけ使わず、溜め込む方向に寄せて仕組まれている。これは俗に「節約遺伝子」と呼ばれる複数の遺伝子があることがその証拠のひとつとして挙げられる。

この遺伝子は、少ないカロリーでも活動できるように体を調整する機能を担っている。これを持っていればいるほど、同じ活動に対する消費するカロリーは少なくなる。太りやすく、痩せにくくなるわけだ。こういった遺伝子が存在することそのものが、私たちが長いあいだ、食糧の乏しい環境において進化を続けてきたことを示すものとも言える。

一方、栄養状態が豊かになったときに、それを調整するための機構は、驚くほど乏しい。勝手に放っておけば痩せていく、というのは、よほど活動量が多くなるか、病んでいる状態以外には、ほとんど期待できない。豊かすぎる環境では、私たちにはこの、すぐに機能が低下してしまう脆弱な意志の力以外には、何も抵抗する術を持っていないのだ。

快楽に耐える仕組みは脆弱


もちろん、脳も同じで、私たちの脳には、苦痛に耐えて生き延びるための仕組みが数多く用意されている。苦痛を感じれば、それをできるだけ弱め、無視して生きられるようにさまざまな機構が動く。

けれどもやはり、快楽に耐える仕組みはこの脆弱な意志の力以外には存在しない。快楽は、身体的、認知的と、異なるレイヤーにおいて、あればあるほどよいと脳が錯覚するように仕組まれてしまっている。


『咒(まじない)の脳科学 』(講談社+α新書)

一度、快楽を得れば、その甘美さから自力で離れるのはかなり困難で、やめたくてもやめられない。

社会的に大きな障害になっている(自分の周りの人や、自分自身がそれによって健全な社会生活を送ることが難しくなる、という意味で)のでなければ、あるいは、大きな障害になっていたとしても、その行為を止めることが難しい人は驚くほど多い。

苦痛に満ちた人類の進化史


この事実は、端的に、私たち人類の歴史が苦痛の連続であったことを示すものだ。快楽に溺れないような仕組みを作るよりもずっと、苦痛に耐える仕組みを複数、講じておくことのほうが、優先されてきたということでもある。


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苦痛をなんとかしてやわらげ、それに耐え得る仕組みを発動させなければ、生き延びていくことも難しかった。たとえば心身が傷ついた場合には、勝手にβ‐エンドルフィンが分泌されて、痛みを緩和するという反応が惹起される。こうした、苦痛と快楽とがセットになったメカニズムが脳にあることの意味を考えてみれば、私たちの進化史が苦痛に満ちたものであったと推測するほうが自然だ。

ただこれは、苦痛の多い場合には福音とも言うべき仕組みだが、現代社会のように多くの人が快楽を追い求めることが可能なインフラが整ってきてしまうと、途端に様相が変わってくる。

抑制の機能が脆弱なのに、大量の快楽にまみれさせられてしまうという現象が起こりだす。すると、先人が後世の人間の幸福の源とも思い、よかれと思って苦労して築いてきたであろうはずの技術も社会基盤も、今度は依存症を生み出す元凶となってしまう。この構造は、さまざまな問題をややこしくしているものでもある。

正義中毒より根深い依存の実態


人間は高度に社会的な生物である。ほぼいつも、誰かをアイコンとしてその人を多くの問題の元凶とみなし、あるいは日々の不満や鬱憤を転嫁してそのアイコンを責め立てることによって快楽を得ている。そうすることによって複雑な構成の集団を維持している。

これは、快楽によって裏打ちされている仕組みであるので、アイコンが消失するとまた次の対象を探すことになる。快楽に依存するようになった人々が探すものは常に自分ではない他者の瑕疵であり、少しのキズでもあればそれを狂喜して裁きに群がってくる。この現象については以前、「正義中毒」と名づけて警鐘を鳴らしたつもりでいた。しかし、これは依存症と同等の扱いをすべきものかもしれず、私がただ書き記しただけで役割を果たしたと考えていたのはどうも甘い考えであったようだ。

誰かに裁きを加えようとする一般大衆の様相は以前よりも過激なものになったようだ。より小さなことをも見逃さず、より不寛容に、やり直すことを許さず、より厳しい制裁を求めるようになりつつあるように見える。

注意すべきは、依存症というのは本人の意志の力や心の弱さなどといった個人の資質に拠るものではなく、そもそも人間には快楽に抗える仕組みがないために、極めてベーシックな人間の(あるいは生物の)脳の機構を由来として起こるということを知っておく必要があるという点だ。

人間がかつて苦痛としてきたものは、人類の技術革新への不断の歩みによって克服されつつある。もはやわれわれが持っていた苦痛を快楽に変える生物学的な機構が、われわれ自身のたゆまぬ努力によって“時代遅れ”のものとなってしまったのである。

健康な喜びを忘れた日本人


私たちは喩えるなら、乾燥に強い種であるのにもかかわらず熱帯雨林に移植されてしまって動けない植物のようなものだ。少ない快楽で生きていけるようにつくられているのに、あとからあとからこれでもかというほど快楽がやってきてしまう。


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くり返しになるが、現代日本では、誰かを簡単に攻撃できてしまう快楽の中に溺れて、健康な喜びを忘れてしまった人が毎日毎日くり返し、次々にやってくる快楽のタネに中毒させられたまま時間を浪費しているようにも見える。日々の苦痛、不満、不安、またメタ的には人を攻撃すれば自分もまた同じ咎によって攻撃されかねない、そうしたあらゆる苦痛を忘れるためにまた、誰か新しいイケニエを探して「正義」の名のもとに攻撃する。正義中毒は「コンプライアンス中毒」と新しく呼びならわしてもいいだろう。

快楽を自ら制限しなければ、快楽に殺される。人間はそんな時代を、自らつくり上げてしまったという皮肉な構図だ。少しでも瑕疵があれば、寄ってたかって快楽をむさぼられてしまう。攻撃の的になる。

人は貧しいから攻撃するのではなく、快楽のために攻撃する。コンプライアンス中毒は、各人の私的な、あるいは明文化されもせず公的でもないコミュニティの基準(日本では「空気」と呼ばれる)をルールとして、誰かをイケニエとして祭り上げたときに起こる。炎上でも、差別でも、いじめでも、偏見でも、あらゆる社会的排除と関係づけられるものはこれで説明がつくだろう。

もちろん私はこのような現状を健全だとは思わないし、多くの人もそうであろうと思う。けれども、大多数の人が「おかしい」と思っているにもかかわらずなぜか変わらないのだ。ほとんどの人が自分だけはその中毒から自由で、正しいことをしていると根拠なく信じ、犯人は外側にいると確信するバイアスの中にいる。自身の無謬性の根拠が存在しないことを指摘すれば怒り出して、指摘した人物をたたき始める。不思議かもしれないが、自身がこういうバイアスを持つことに多くの人間が気づかない限り、状況は残念ながら変わることはないだろう。

知名度がある人は別


ひとたびイケニエとなった人物がしばしば、くり返しその犠牲になってしまうことは、皆さんもご存じのとおりだろうと思う。

人を傷つけることはよくない、許せない、と他人に石を投げている時点で、投げた当事者も誰かを傷つけているのだから、論理的にはそれも罪である時点で同じということになるのではないか? とシンプルに疑問に思わなくもないが、どうも知名度がある人は別だとか傷つけたことがあるならたたかれてよいとか匿名であればよいとか、謎の根拠をもとに、自分だけは百パーセント潔白である、あるいは、平均よりも正義である(?)というような謎の確信を持っている人がそれなりの数いるようなのだ。

この快楽は実に強力であるとみえ、大多数の人は簡単にここから離れようとしない。これをモンスターと呼ばずして、何をモンスターと呼ぶのか、とさえ思う。

脳機能から考えてこの地獄の構造を一撃で解決できるような抜本的な手段というのは現在のところ存在しない。自分を律する、あるいは、他の、より健康的な楽しみを見つける以外に方法がなく、その歩みはとても地味で、ゆっくりしたものになるだろう。

※本稿は、『咒の脳科学』(講談社)の一部を再編集したものです。

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